~~~~~~~~~~~~~~~
エピローグ
~~~~~~~~~~~~~~~
(1)判然とせぬ河村の動機
現自民党総裁、村山内閣の副総理の河野洋平が昭和五十一年自民党をとび出し、新自由クラブを結成し代表に就いてまもなく、次のように語っていたのを雑誌か何かで読み、今でも私の頭の中に鮮明に残っている。一時的な新自由クラブのブームも順次冷め、彼は十年にして小党の悲哀をかこちつつ古巣へ復党し、宮沢喜一派に所属したが長らく冷飯を食らっていた。
「国会議員になるとJRのグリーン車の無料乗車パスがもらえるんです。このパスでグリーン車に乗った当初は、『国民の皆さんは、高いグリーン料金を払って乗っている。国会議員だからといって無料で乗車していいのだろうか』となるべく隅の方の目立たない席で小さくなって座っていたのです。しかし、ものの一年もたつかたたないうちに、グリーン車に発車間際のギリギリにとび乗って、空席がないと腹が立ってくるんです。『権力というものはつくづく恐わいと思いますね』」
一事が万事というか権力の座というものは、よほど居心地が良いもののようだ。自ら進んでその地位を降りる者はほとんどいない。できれば死ぬまでやりたいと願っているのであろう。
会社を運営する代表者として権力の座についた者は、これを自他のために役立ててこそ経営といえるのである。
しかし残念ながら本文でも述べたが、権力くらい人間を堕落させるものはなく、道徳的腐敗を生じ易いものだ。また、権力の座につくと老化現象をきたすといわれる。さらに疑い深く小心で嫉妬深くなってくる。そしてやがて公私の区別がつかなくなってくるもののようだ。
古今東西、政治、経済その他の世界を問わず、歴史上の大物から、いち会社の経営者に至るまで、権力者が長くその座に居すわり過ぎたために発生した悲劇、事件等についてはその例にこと欠かない。
ひるがえってイトマン社長河村は、記念すべき創業百周年を迎えた昭和五十八年の新年にあたり、『百尺竿頭一歩を進む』とのむつかしい故事成語を引用しながら、社内報で年頭所感を述べている。
「本当の進歩というものは、高い頂上をきわめてもなお満足せず、さらにその上を考える姿勢から生まれるもので、人間にはこれでいいんだという考えがいちばんいけないことなのだ」と。
私の現役時代、社長室へ業務報告にいった私をつかまえて、河村は眼を輝やかせながら熱っぽく彼の人生哲学をこう語ったことが、昨日のことのように思い出されてくる。そして私は、当時はこの言葉を聞いて感動したものだった。
「野木君なあ、オレの友人が『河村よ、キミは住銀時代から寝食も忘れて馬車馬のようにガムシャラに働き人の倍以上の業績をあげ、天下の都銀の栄光の常務にまで抜てきされたんだ。そして今度はイトマンの再建と復配を公約どおり短時日で実現させた。ここらでひとつ骨休めして家族も含めて自分の私生活を取り戻したらどうかね』と忠告してくれるんだ。しかしオレは現状には絶対満足しないで、さらにハードルを高く引きあげてこれに対しあくなき挑戦をしていくんだ。そしてイトマンを日本一の高収益、高賃金で社員に報いる超一流会社に育てあげるんだ。これがまさにオレの生きがいなんだよ」と。
まさに上記の「百尺竿頭……」の成句を実践する彼の経営理念であり、人生哲学だった。
この河村経営哲学は、彼の生来のハングリー精神、負けず嫌いの強腕、労を惜しまぬ人一倍の努力・精進、漸新な発想、そして少少のことでは弱音を吐かずへこたれない強靱な精神力と体力等々が強力な突っ支い棒となって支えられ、彼のイズムが具体論となって具現されていったのである。
しかもこの河村哲学の底流には「儲けさえすればすべて良し」との、住友家の家則(一時の機に投じ、目前の利に走り、危険の行為あるべからず)に大きく反する超利益第一主義──住銀時代に身に染み付き、親分ともいうべき磯田元会長の薫陶をうけた──が脈脈と流れていた。
河村経営の破綻の数数はすでに縷縷述べてきた。この彼の抱く理念、哲学が極端に走った結果の結実だった。
「労を惜しまぬ人一倍の努力、精進」と先に書いたが、本文では書きそびれたので、この表現を象徴するような二つのエピソードをここで紹介しておこう。
河村が復配を果してから、海外現地法人の視察やバイヤーへの表敬訪問、合併事業契約の現地での調印や外債の発行等で海外へ出張する機会が漸次増加していった。後半には夫人同伴で赴くこともあった。
しかし都銀の国内支店長をつとめていた河村は、当然のことながら、英語が全く話せなかった。日常会話はもちろんのこと挨拶すらできなかった。必要性が全くなかったからだった。
ここで努力家の彼は、早く英会話をマスターすべく早速秘書室長に命じ、「英会話の基本」のカセット・テープを購入させた。これを通勤途中、社用外出時、社用ゴルフ接待の往復時等、まさに寸暇を惜しんで車のシートに腰をおろすやいなや耳へイヤホーンを差し込んで、カセットを反復くりかえし聴いて習得していった。こうして他人が真似のできない、すさまじい敬服に値すような勉強、努力を続けたのだった。私は残念ながらこの上達結果のスピーチなり会話をきく機会はなかった。
次に河村は週刊現代記者の取材のインタービューに応じて次のように語ったことがある。(同誌、平成三年四月二十七日号)
「磯田さん(当時の住銀会長)はカラオケが大好きですよ。磯田さん、西さん(当時の副頭取)それに私でよく六本木へ一緒に行きましたわ。私は(カラオケが)好きじゃないんで往生しました。磯田さんはよく勉強して四つも五つも歌う。やり出したら止まらんのですね」
本人がこのように正直に告白している通り、河村はカラオケが得意ではなく、どちらかといえば音痴の部類に入っていたと思われる。
そこで人に負けることの嫌いな彼は、磯田に追いつけ追い越せとばかりに、多忙のなか自宅でカラオケの練習に夫人ともどもはげんだ。このことを伝え聞いた住銀OBのある股肱の臣は高級カラオケセットを西宮の河村の自宅へ運び込み、側面的に協力し忠勤ぶりを示したこともあった。河村の自宅を訪れたことのある側近の話によれば、なぜか二台のセットが据えられていたという。
練習したカラオケセットも高級品だったし、猛烈な特訓の甲斐あって他が驚くほどの上達を示した。従来のもち歌は、“枯れすすき”一本槍だったのが、チョーヨンピルの“釜山港へ帰れ”や、自ら作詞作曲し歌っている谷村新司の“群青”などがレパートリーの仲間入りしてきた。カラオケマニアによるとこの“群青”という曲は、素人が歌いこなすのは仲々むつかしいようだ。河村は敢てこの難曲を選んだのであろう。
これら二例に見られる通り、ひたむきな弛むことのない努力を継続し、公私にわたりすべての面において高位志向で、常に高いテンションをもち続けてきた人だった。
彼の経営哲学と上記のそれを支える各種のエレメントについては当初私は──私のみならずイトマンの幹部連中のほとんどは──畏敬の念をもち、彼の巧みな洗脳と強力なリーダーシップに引きずられて、この人の下ならば……とついていったものだった。
しかし年月の経過とともに、歯車が一つずつかみ合わなくなり、「権力の座」に長く居すわりたいという野望もそろそろ芽を出してきた。
歯車というものは一つかみ合わなくなると、早いうちにもとへ修復しないとまたたくうちに、ガタガタと狂ってきて、歯車の機能を果たさなくなってしまうものだ。
彼が生来もっていたハングリー精神が前向き、真っ当な方向に作動していた間はよかったが、歯車ともいうべき自分自身のコントロール・タワーが狂い出し、変質して行き、イトマンを私物化しようとする野心が頭を擡げだし、金銭に対する異常なまでの執着心へと変化していったのである。この辺のくだりはすでに本文で詳しく述べてきた。
過去の多くの権力者が最終的に陥入るコースは、先にも述べた通り公私の峻別がつかなくなっていくものだが、当初は皆が謹厳実直な人格者だと思い込んでいた河村もその例外ではなかった。彼が師と仰いでいた磯田会長もまた然りだった。
河村の公私の別が判然としない具体的事例も本文でとりあげてきたので、ここでは重複を避けたいと思うが、次の点だけは是非とも記録にとどめておきたいと思う。
第十二章で立川の経営権をめぐる手付金十億円の現ナマを隠匿したマンションのキーは、河村の愛人が持っていた。そしてこの彼女は、ミナミの河村がよく利用していた「たに川」の女将だったとのマル秘情報を先に伝えた。
事件や犯罪の陰には女性ありとは昔からよく言われているが、三越(百貨店)事件の時は、「何故だ!」の名セリフを吐いて取締役会で解任された当時の社長岡田茂の愛人が、事件に直接関与し、判決では愛人との公然の不倫関係を指摘され大きな社会問題となったが、河村の場合は表舞台には姿をあらわさず、知る人は極く少数の者に限られてはいたが、やはり女性はいたのだ。なお平成五年十一月二十九日、東京高裁は岡田茂に対し懲役三年、その愛人に対し二年六ヵ月の実刑判決を言い渡した。岡田は商法の特別背任罪で、愛人は共犯と脱税に問われていた。二名とも控訴した由。
この料亭「たに川」は河村がよく利用していたし、かつては住銀幹部もしょっちゅう出入りしていたと聞く。住銀会長磯田、副頭取西をはじめアイチの森下会長、伊藤寿永光、コスモワールドの熊取谷代表ら事件に関与する大物の接待もここで行われていた。
イトマン社内でも幹部のうちこの「たに川」の呼ばれた者は、河村のお目がねにかない、「河村王国」へのビザを手に入れたと同様だとささやかれていた。
バブル経済絶頂期の末期の平成二年の初めには一ヵ月に約二〇〇万円弱の会食費の支払いが「たに川」だけに対して行われていたこともあった。朝日新聞大阪社会部のキャップは、この事象をとらえて「社費で愛人経営の料亭に入り浸るなどモラルも地に落ちた」と評した。(同紙「記者ノート」平成五年三月三十一日)
「中興の祖」と讃えられ、「経営の神様」とまで崇められた河村が、なぜこうまで豹変してしまったのか、まさに摩訶不思議という他ないと本論の各章で述べ、究極的に言えば彼の信条とする「超利益第一主義」と「野心・欲望」がなせる業だと結論づけてきた。
そして最終局面では正常な経営感覚は麻痺していたのだと断じたものの、ここで「しかしながら……」と言わねばならない。粉飾に粉飾を重ねドレッシングに近い、蛸配的な決算操作をくりかえしてきたのだから、遅かれ早かれ──例えバブル経済の崩壊がなくても──経営が行き詰り二進も三進も行かなくなるであろうことは、ある鋭敏怜悧な河村が予測しえなかったとは到底考えられない。そこえもってきて奥の手のウルトラCというべきか、最後の悪あがきと表現すべきか、さらに伊藤・許プロジェクトへ突っ込んでいったのである。
前にも述べたが河村解任四日前の最終の住銀頭取VS河村会談は決裂し、
「あなたが社長をやっている会社にもうこれ以上の金は貸せない」
「いや、もう結構。介添人はいらない。私は男だ、けっして銀行には迷惑をかけない」
河村は捨て台詞を残すようにして席を蹴った。
しかしいかに強気の河村も資金調達に窮し、大阪府民信組から借り入れを行い、そしていわゆる「街金」からの高利資金にまで手を伸すような状況となった。この中で俗にいう「手形パクリ騒動」まで起きるという最悪の状態となっていった。もはや一部上場企業としては常軌を逸するような資金調達だった。
そして最後の最後まで社長の座にしがみつき──イトマングループには約二万人の社員家族がいる。辞めるわけにはいかないと強気の発言をしながら──辞任要請をハネつけてきたのだが、「街金」のルートにまで手を出すようでは早晩資金源は絶たれてしまうわけで、最終場面では「自己破産」でもかけてイトマンもろとも心中し玉砕するつもりだったのであろうか。
それにしても河村が営営として集めた自社株は紙クズ同然と化してしまい、サラリーマン社長としては莫大な損失を被ることになる。資本金五三四億円超の株主や取引先そして社員等に対する経営責任はどのように考えていたのであろうか。河村の動機と住銀から見離された最終場面で、どのように対処しようとしていたのか、いくら推測しても今もって私には判然としない。それとこの事件でいったい誰が得をし、イトマン以外の誰が泣いたのかも、もうひとつはっきりしない。
このエピローグの項で私なりの結論をなんとか述べ、ことの真相を解明したいと思っていたが、残念ながらその結論は見出しえなかった。ここらへんの真相がせめて一断面でも法廷の場で解明、立証されればと思うのだが、本文で述べた通り現在の公判の進捗状況ではその実現は極めて心許ない気がしている。
権力者にとって「引き際」ほどむつかしいものはないといわれる。プロ野球のピッチャー交代が監督の決断のおくれから一手か二手おくれて打ち込まれて、逆転という悲劇に見舞われることも多い。これと同様で「引き際」を一歩誤ると過去の栄光も名声も失い転落してしまうケースも政界・財界等でよく見受けられる。
河村にとって引退の花道、次の世代へのバトン・タッチの好機はイトマン百周年の記念すべき年だった。時は昭和五十八年、社長就任後八年目だった。この時思い切りよく引いておれば、イトマン再建の中興の祖としての栄光も残ったし、住銀も功績に応じた次のポジションも用意して栄光の凱旋将軍と讃えて迎え入れたことと思われる。
住銀の磯田一郎も平和相互銀行の合併を花道に引退していたら、“名バンカー”の栄光は汚れはしなかったと思われる。
河村の後継者と大方の者が予想していたナンバー2の副社長は次のように法廷で証言した。
「河村経営の前半戦は内外とも評価が高く当然だったと思うが、晩節を汚されたのは本人のためにも会社のためにも残念でならない」
(2)プロパー経営陣の経営責任
本文で少しばかり標題の件並びにイトマンへ送りこまれた住銀OB幹部の責任の重大さについては触れた。事件の三主役の刑事責任、主力銀行たる住銀の責任については、経済マスコミも一般マスコミも過去熱を入れて追及してきた。しかしながら河村を補佐してきたプロパーの経営陣の経営責任についてはあまり触れられていないように思う。本稿のペンを擱くに当り彼らの経営責任について追及しておきたいと思う。
イトマンのナンバー2と同4の二副社長は、検察側証人として出廷し本件に関連して次のように証言した。
「イトマンの経営会議等の席上において、また河村社長に対して意見具申や話し合いが皆無だったことについては、勇気と決断が不足していたことを反省し、今日この責を受けている。
会社組織の中で社長にはリーダー・シップ、カリスマ性が必要であり、絶対的権限があるのは当然だが、ひとつ間違えば大変なことになるとの教訓を与えてくれた」
と反省の弁を述べた。(河村良彦ら公判、第十回、平成四年六月九日)
「経営会議など公式の席で当時の役員の間から、河村社長が不動産投融資へ傾注していったことに対する批判がでたことは一切なかったと思う」
と代表取締役の無責任ぶりについて人事のように述べ、次に自らの経営責任については、
「社長の独善を放置してしまったという意味で、副社長の私にも経営上の責任はあった」
と証言した。(同公判第十二回、同四年七月十四日)
また出張先でイトマン合併の報を聞いたという住銀OBの専務(審査・法務担当)は、(この時すでにイトマン専務は退社していた。現、田村町興産社長)
「自分は当時の経営陣の一人として、河村被告の暴走を体を張って職をとしてでも押さえられなかったことに責任を感じている」
と淡淡と心情を述べた。
これらの反省の弁は、百十年の“のれん”が消滅してしまってから、今さらのごとく神妙に聞かされても、屁をひって尻をすぼめるようなもので全く詮無いことと言わざるをえない。精神論的反省の意を表するだけではなく、河村政権が崩壊し、新政権の組閣時にこれを具現した上でケジメをちゃんとつけるべきであったと思う。このことは後で触れることとしたい。
また三副社長はじめ幹部は法廷で、表現こそ夫夫若干違うものの、口を揃え異口同音に河村の超ワンマンぶりを唱え、意見はもちろん異議を申し述べれば「はじき飛ばされる」と証言した。このことはすでに詳述したし、河村の後継首班となった芳村昌一は「河村が怖かった」とまで表現した。これも先に述べた。まるで宿題をよく忘れてくる常習犯の中学生が、学校内で一番恐い担任の先生にこっ酷く叱られているような言いまわしだった。
イトマンでは河村超ワンマン政権下にあって代表取締役で構成する経営会議、取締役会は形骸化されていたとはいえ、今回の事件の主役だった伊藤寿永光や許永中らに対する巨額の融資案件や、新規事業の着手については、相当ずれた事後であったにせよ、或いはまとめての一括提案であったかも知れないが、取締役会での議決を経ている。このことは否定することのできない重要な重い事実である。
取締役は取締役会での決議事項には責任があるはずであり、責任を負うべきである。また、取締役は代表取締役を含む他の取締役の業務執行について監視する義務があるはずである。
超ワンマン体制のもと取締役会は一種のセレモニー化していたという特殊条件はあったにせよ、法の前では「自分の進退を覚悟しなければ、河村方針に異議をさし挟む余地は全くなかった。『おかしい』とは思っていたのだが、致し方がなかったのだ」というような言い訳は全然通用しないはずである。
私は法律の専門家でもないし、上記のような取締役会及び取締役の義務責任について過去にどういう判例がでているのか勉強不足で定かではない。法律的論争も多々あると思うが、幸いという表現が適当かどうかは別として、最近証券業界、不動産業界等で提起されている株主訴訟は、イトマンの場合おこされていない。
しかしイトマンプロパーの旧経営陣は「法律によって取締役個人の責任が追及され、損害賠償を命じられるのだ」ということを銘記すべきと思う。
イトマン元首脳の法廷証言について上に紹介したが、経営陣の各種の言動をつぶさに観察していると、「超ワンマンでどうにもならんのでした」という言い訳というか特殊条件と、取締役としての全般的な経営責任とが混同、相殺されてしまって、経営責任というものに対するシヴィアーな考え方が極めて稀薄といわざるをえない。
次に芳村新政権時代になってからの経営責任についてもきびしく糾弾しておかねばならない。若干名の新任役員は選任されたが、大多数は河村時代の閣僚の横すべり留任であった。
前述したが新社長以下が声高らかに唱えあげた自力再建路線は、住銀方針によってもろくも崩壊してしまった。この結果、住金物産へ移った資本金部分を除き、百年余にわたり株主各位の協力も得て営営と築きあげてきた「株主資本」は完全に消滅してしまった。資本金五三四億円余、約一万四千名に及ぶ株主の権利は無いに等しい状態になってしまった。
加えて株主はもとより取引先、社員、そしてOB達を欺まんし続けてきた経営責任は、河村暴走を阻止しえなかった責任に勝るとも劣らぬ重大なものがあると言える。
また自然減もあったが、三百余名の社員が指名による転出、転職で去っていった。四十才後半、五十才代の管理職が犠牲になった。
太平洋戦争の例にたとえるならば極東軍事裁判にかけられたB級、C級戦犯ともいえる河村内閣の重要閣僚たちで責任をとって辞任する者はなかった。全員が退任してしまえば経営者不在となるので、降格人事を断行し、報酬も半減するくらいの覚悟で、主要メンバーは引き続き会社の自力再建に全力をあげるべきであった。報酬は若干カットしたやに伝聞しているが、無暴な侵略戦争に突入し日本を破滅に導いた東條英機内閣の首班以下の重要戦犯閣僚が、敗戦後の新生日本の新内閣へ横すべり重任し、政治を担当したようなものだった。
また上に述べた二大経営責任の責任を問われて然るべき芳村社長は、わざわざ新住金物産側に新設された副会長のポストに横すべりした。河村時代、代表取締役(専務)で経営会議の重要メンバーであり最長老だった人物が、芳村新政権下で副社長に昇格登用されたりしている。さらに、河村、芳村の両時代に代表取締役(常務)だった人物は住金物産へなだれ込み、戦犯の身であったにもかかわらず住金物産の専務に昇格したという例もある。
平成六年初夏の候、大阪に本社のある有名なスポーツ衣料メーカーは、販売不振による業績低下の責任をとって首脳陣の降格人事を発表した。
この例に比し、百十年の老舗が消滅したにもかかわらず、二政権時代の経営陣の責任のとり方は極めて甘ちょろいし、無責任極まる役員人事も行われた。全くケジメがついていないし、世間の良識が許さないと思う。
彼らの経営責任については、遅きに失したとは言え重大な警告を発し、糾弾しておかなければならないと考え敢えて本項を設けた。
これを読んだ元経営陣は内心忸怩たるものがあると思われる。
最後に住銀のことに少しばかり触れておきたい。
週刊ダイヤモンドは平成五年八月十四日・二十一日の夏季合併号で「“身勝手な強者”住友銀行は変わるか」という特集を組んだ。
「これまであまりに目先の収益を追い求めすぎた。銀行の論理を優先させてきた。これからは顧客第一に生まれ変わらねばならない」
これは住銀新頭取森川敏雄による「変革宣言」である。頭取はじめ経営会議を構成する十三人のメンバー全員が手分けをして、全国三百余支店を“オルグ”してまわった。
「これまで住友は誤った道をきた」
「それはわれわれの責任だ」
とまで言って支店行員達の前で頭を下げた。
「新生住銀」への懸命の努力を行っているようだ。しかし下部では不満の種がクスクスとくすぶっている。曰く
「巽会長(前頭取)はいつまで院政を敷くつもりなのか、彼が退陣しない限り住銀のかつてのダーティー・イメージは払拭できない」
「顧客第一というが具体的指示は何んら出ていない」
「顧客第一と収益確保という相反する課題をどうやってクリアーすればよいのか」
「朝六時前に起床、帰宅は夜の十二時という生活に永年耐え忍んできた結果がこれでは行員は浮ばれない」等々……。
新頭取は行員に対し「頭取にもの申す」ということで行員の生の声をきいたり、平成五年十二月にはNHKテレビの午後七時のニュース番組に約八千通も集ったといわれるこれらの声を集約してPRのために出演し、頭取自らパブリシティに懸命である。
また会長は朝日新聞記者のインタービューに答えて「朝七時から真夜中まで休日も休まず働くというタイプの行員については、勉強もできないし、家庭生活も壊われてしまうと数年前から口を酸っぱくして言い続けたせいか、ようやくほとんどいなくなったようだ」と語り、かつての「猛烈タイプ」のイメージ払拭に懸命である。(同紙、平成六年八月十九日)
ある関西の私鉄沿線の大型新興住宅地の最寄駅でサラリーマンとして早朝いちばんに乗車するのは、住銀とモーレツで名高いN証券の社員だという大阪では有名な話があるほどだった。
話は余談に走ったが、この巽頭取の談話を読んでいると、磯田会長と組んだ頭取時代に二人で勇ましく吹き鳴らした「成績至上主義」の進軍ラッパの責任はどこへ行ったのか。
「巽さん。この経営責任をどこかえ置き忘れてはおられませんか。好き好んで夜中や休日まで働く行員はいませんよ。サラリーマンの悲しい性で脱落を恐れていつしか猛烈タイプになっていったんです。なにか他人事のようにおっしゃっていますね」と私は怪訝に思うので問い返えしたいと思う。
いずれにしても新生住銀の前途は極めて多難と言わざるをえないであろう。今回の事件についての住銀の各種の責任についてはすでに詳しく述べてきたので、これ以上の追及はしないこととしたい。
ここでこのことだけは書いておきたい。住銀は平成五年三月現在で同系列のイトマンの不良債権の受皿会社二社他に対し次のような巨額の融資を行っている。
(融資順位)
御堂筋ファイナンス 一,三八〇億円 第三位
(旧、イトマンファイナンス)
御堂筋総合興産 一,二〇七億円 第四位
(旧、伊藤萬不動産販売)
田村町興産 一,一九三億円 第六位
ちなみに融資順位の第一位は住銀リース(二,二二四億円)第二位は伊藤忠商事(一,六〇二億円)となっている。なお、熊谷組が新らしく十一位に顔を出してきている。本文でも少し触れたが同社は住銀主導でリストラが進行中である。
上記の大手受皿会社二社以外にも本町中央産業、ランドホープら清算会社が五社程度あり、総額四,〇〇〇億円強の融資額があるといわれている。これらの融資に関する金利の徴収がどのような状況になっているか不詳であるが、未回収金利は計一五〇億円〜二〇〇億円にのぼると報道されている。
旧イトマンビル大阪本社の東裏にあるビルに受皿会社が入居して、保有資産の処分、回収業務に当っているのだが、きくところによると東京・名古屋を含め百名に近い社員がいるとのことだが、住銀からの出向者も相当人数にのぼっている。年間人件費だけでも相当額にのぼるものと推定される。これらの社員が本来の前向きの業務に携っていたら、本来得べかりし利益も相当なものであろう。
住銀が今回の事件で被った直接的損失は細い計算はできないが尨大なものにのぼるが、それ以外に間接的に受けたダメージは大きい。
本文でも述べたメインバンクにしたくない銀行のワースト・ワンに採りあげられ、息子・娘を入社させたくない会社のナンバーワンになっている例でも見られる通り、そのダーティーイメージを金銭的に換算することは不可能だが、想像を絶するものがある。
住銀の堀田政権時代の後半から磯田ワンマン時代に至る超利益第一主義──森川新頭取は「色の白いは七難隠す」という言葉があるが、収益さえ良ければすべて許されるという考え方は採らないと言っている──が生んだ産物だった。どこへ文句をいうこともできまい。
私の性格、信条とは合わないのだが、ここでは敢て住銀流の冷徹、非情な表現で次のように申し述べておきたい。
「自ら播いた種は自ら刈り取らねばならぬ」というのは天の道理であり、これから長い長い年月をかけて失われた大地を例え他行から「住友はキバを抜かれた」と皮肉られようとも掘り直し、良い新らしい芽のでるよう努力を続けていってもらいたい。仲々たいへんな道のりだと思われるが。
住銀の専務西川善文はイトマンと住金物産との合併の記者発表の席上「この合併によって銀行としての社会的責任を果たした」と肩を張って公式発言した。このことはすでに述べたがこの発言について多くのイトマン社員、OB達はまず生理的に反発を感じたと思う。少くとも私は銀行としての共同責任は横に置いて、棚上げをしてしまってのこの発言は承服いたしかねる。
この発言の底流にある考え方を象徴するように、平成六年九月はじめに、関西経済同友会の代表幹事に住銀の副頭取白井孝之の就任が内定した。彼は就任の記者会見の席上、自ら住銀・イトマン事件はじめ一連の不詳事件で財界活動を四年にわたり実質的に自粛していたことを認めた。しかし住友グループ首脳間にも「住銀の財界復帰」を容認する空気が広がっていたようだ。
この住銀の財界活動に復帰を報じた日経新聞は、
「イトマン事件の後遺症がまた一つ払拭されたことになる」また「世間の厳しい批判を浴びた『収益至上主義』からの体質転換が進んだことを内外に宣告する意味合いもあるようだ」と論評した。
磯田御大は私的スキャンダルが原因で責任をとって辞任したが、事件当時の他の代表取締陣の経営責任についてはケジメがついていなかった。白井新代表幹事も当時の経営会議のメンバーだった。平成二年三月現在ナンバー4の専務取締役で、翌年三月現在では序列がナンバー2にあがっており、磯田内閣の重要閣僚であったし、いわば戦犯だったはずである。その人物が関西財界を代表しての活動を開始するについては、いわゆる「禊」はまだすんでいないし、時期尚早だと敢えて声を大にして叫んでおきたい。
大阪の繊維の街、本町近辺の「丼池」の老舗の寝装問屋の主人がある日私にこう語ったことがある。
「野木さんなあ、イトマンさんのメインバンクが住友以外の都銀だったら、こんなえげつない荒療治はしなかったんとちがうやろか。住友はやっぱりえげつないなあ!」
巽頭取は(当時)イトマンの株主に対し、新住金物産の証券市場への上場まで四年は待ってもらいたいと言った。
今となっては住銀に対し当時の頭取の公約通り四年後の上場を目指し、側面的にあらゆる支援、協力をしてもらいたいと願うものである。
新会社がスタート後すでに二年が経過した。極めてきびしい経済環境下にあるが、旧イトマンデイビジョンの業績は好調に推移している由である。
新住金物産は──親会社の住友金属工業との関連もあるとは思うが──その業態にふさわしい社名に変更してますます発展を遂げ、住銀頭取の公約通りの上場を実現させてほしいとただひたすら念願するものである。
住金物産株式会社の名刺を出して、繊維製品や食糧等旧イトマンプロパーの商売の新規得意先の開拓等には違和感があるので、一例として銀行業界における「さくら銀行」「あさひ銀行」の例のようにイメージを一新した、過去をひきずらない社名に変更するのも思い切った一案だと思っている。
公約通りの上場ができ、一流の中堅商社として見事な発展をとげてこそ、非業の不本意な最後をとげたイトマンも成仏し、安らかに眠れるものと思っている。後輩諸君のがんばりに大いに期待したい。
|