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第十一章 河村乱脈経営とその破綻
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(3)金でマスコミ操縦・河村路線のつまずき
「経済界」という経済雑誌がある。一時病床に伏し再起した佐藤正忠が主幹となって発刊しているのだが、河村はこの佐藤主幹に特に依頼して、平成二年七月〜八月の二回にわたり、
「企画監理本部の新設は河村・イトマンの起爆剤となるか」
「伊藤寿永光、雅叙園観光問題で独占告白」
と夫夫題したいわゆる提灯記事の特集を掲載してもらった。
河村はこの提灯持ちの代償として、「経済界」に対し同年九月までに「業務委託料」の名目で「雑経費勘定」で合計でなんと二億円という巨額の支払いを行った。伊藤寿永光も別に五千万円を支払ったといわれている。
丁度この時期は例の伊藤萬従業員一同名による内部告発の怪文書五通が順次出まわっていて、河村はこの文書や一連のマスコミの過大投融資等に関する報道に非常にナーバスになり、その対処に苦悩していた時だった。
権力者というのは強腕の割には神経質なところがあり、自分の足許がくすぐられたり、揺さぶられるような報道に対してはなんとか押えようと焦るものである。
さて私の手許に「企画監理本部の新設は……」と題した「経済界」七月二十四日号があるが、佐藤主幹自らがイトマン幹部にインタービューしたりしてペンを採っている。
記事内容は省略するが、先入観なしに読んでも見え見えの“よいしょ”の記事だったが、一頁一,八〇〇字、八頁で原稿用紙三十六枚分のボリュームだった。一記事一億円で計算すると、原稿用紙一枚当り二七八万円、一字当り約七千円というベラ棒な単価になる。一字当りのコストがパートで働く家庭の主婦の日給を上まわっている。
毎年の長者番付のベスト5にでてくるような例えば赤川次郎とか司馬遼太郎といった流行作家の原稿料の相場がどの程度のものか知る由もないが、こんな巨額のコストのついた記事を掲載してどんな社会的な効果がはかれたのか極めて疑問に思うのだが。この時期になると河村のやることなすことすべてが少しずつ狂いだしていたのではあるまいか。
上の例は法外な高価なものについたが、裏付けとなる実際の掲載記事があったのだが、これから紹介しようとするのは金銭によるマスコミ記事の抑圧対策である。
「週刊新潮」平成二年九月十三日号(同月六日発売)が、「イトマンが常務に迎えた地上げ屋の力量」と題した批判記事を掲載した。この十日後には日経新聞が五月に引き続き第二報ともいうべき「イトマングループ不動産業などへの貸付金一兆円を起す」との記事を掲載した。
このように連続してイトマンのかかえる問題点を指摘された河村の焦りはつのり、マスコミの記事を何んとか封じ込めたいと苦慮した結果、伊藤寿永光に対しこれからの対策について検討を指示した。
昭和六十年には先に述べた石油業転問題が発生、六十二年〜三年にかけて居酒屋チェーン「つぼ八」の経営をめぐるトラブル、次いで不動産業「慶屋」との訴訟問題が生じるなどして、週刊誌、経済誌等のマスコミに格好のネタを提供するかたちとなっていた。
ここで小早川茂こと崔茂珍なる人物が登場してくる。河村は渡りに舟とばかりにこの小早川をマスコミ対策のため懐柔するのであるが、以下そのくだりについて述べていきたい。
彼は関西学院大学の出身で、卒業後不動産業のかたわら、いわゆる「総会屋」としても活躍していた。月刊誌「創」「ビッグエー」の代表もつとめていた。
同六十一年四月にイトマンへあらわれ、自分の関係している雑誌や他の週刊誌などに、「イトマンファイナンスの「慶屋」に対する不正融資」について書かせることができると迫る一方、箱根(神奈川)の山林で墓地開発事業をはじめる予定であると話していった。
小早川はその後も再三にわたりイトマンに共同事業をもち込むとともに、「イトマンのことについてはいろいろ情報がある」などと総会屋らしい言いまわしで申し入れ、社長河村との面談を執ように要求していた。
イトマン広報室サイドはこの要求に折れて、同六十三年十月河村と小早川との会談を赤坂プリンスホテル(東京)の地下にある「紀尾井」で設営した。この席には小早川をイトマンの広報担当役員に紹介したとされる「国会タイムス」と「原田不動産」(東京・南青山土地の地上げを担当)の夫々の代表者が夫夫なぜか同席したという奇妙な会談だった。
この会談の模様については当時の広報担当役員(元大日本コンピューター(倒産)の代表者だった)が、小早川の第八回公判(平成四年七月七日)に弁護側の証人として出廷し詳しく証言した。
小早川は会談がはじまると同時に、ワンルームマンションの杉山商事(不良会社だ)の買収、河村の甥が起こした石油業転事件その他諸諸の河村商法について痛烈な批判を浴びせかけた。これに対し河村は当初方針、考え方について詳しく説明していたが、会談の中盤あたりからだまり込んで話しをしなくなり険悪な雰囲気になった。このようなことで広報担当役員は「この会談は設営者として失敗したと思った」と証言した。小早川はいろいろの材料をもっているので共同事業を是非ともやりたいとの申出も強硬に行った。
大阪地検は冒陳で「河村は小早川のマスコミを利用しての攻撃中傷を恐れ『何かあったら協力しましょう』と当り障りのない回答をした」と述べているが、出廷したイトマン元広報担当役員は──さきに参考人としてとられた検事調書では「河村は協力しましょうと言った」との記述があるのだが──検事からの再三にわたる質問があったが、河村発言については、のらりくらりの答弁をくりかえし、記憶があいまいであって「わかりました」程度のことは言ったかも知れない。──河村に対し恩義と義理を感じていた証人は河村の立場をも慮ってのことかどうかは定かではないが──と証言し「協力しましょう」という発言については、裁判長からも質問があったが、最後まで正式に認めなかった。
その後も小早川は数多くのプロジェクトをイトマンへ持ち込んだが、担当者からはその場しのぎの返事しかもらえなかった。イトマンから共同事業で金を引き出せないことにいらだった小早川は、知り合いの宅見組の舎弟を通じて、平成元年九月に伊藤に取り入ることを考えて面談した。
この席上伊藤は「日経新聞や週刊新潮等に河村商法の批判記事がでて困惑している」とこぼした。小早川は「日経と新潮を抑えんといかん、新潮の元記者に福永という男がいる。まずい記事は止められる。日経にも手をうつことができる」などと答えてマスコミ対策を引きうけた。伊藤も小早川をマスコミ対策のために利用した方が得策だと考えていた。両者の阿吽の呼吸がピッタリと合ったというべきか。
小早川は早速「週刊新潮」の元記者福永修に自己資金の中から五〇〇万円を支払い、イトマンに関する記事の情報を集めるよう依頼した。小早川はさらに同年十月九日ころ日経新聞内の協力者と称せられる人物に、イトマンに関する記事の執筆者、ニュースソースなどを探るように依頼し、東京永田町のホテルのラウンジで「数人がかりで調査した」という相手に対して「皆で分けてよ」といって後述するイトマンからの融資金十億円の中から一,〇〇〇万円を手渡した。
冒陳が指摘したこの社内協力者をめぐる問題でマスコミ業界あげて騒然となり、日経新聞社と検察側は真っ向から対立を重ねることとなった。
日経新聞社は早速全社的な調査委員会を設置し、平成三年十二月二十六日に社内協力者については「該当者なし」の中間報告を、平成四年一月末には最終調査結果を夫夫発表した。そして検事総長宛に証拠を示すよう求める質問書を提出した。
これに対し検事総長は「回答する立場にない」、大阪地検検事正は「公判で立証する」と回答した。
さらに大阪地検が冒陳から現金の出所(上記のイトマンからの融資金十億円から)と渡した日付(平成元年十月九日ころ)の部分を削除していたことが、平成四年二月下旬に判明した。
その後平成五年七月十九日、小早川の公判に、当時の取調担当検事が出廷し、「冒陳の発表後に拘置所で小早川被告に改めて日経新聞の社内協力者について聞いたが、名前は出なかった」と重要な証言を行った。
一方、小早川は平成四年九月の自分の公判や、平成五年二月の記者会見で「現金は自分の預金から日経の社員に渡した」と夫夫供述、発言している。
検察側は同年九月の論告求刑でも日経問題には触れず、また平成六年一月の判決でも裁判長も直接本件には触れなかった。
いずれにしても検察側が名前を確認しないまま現金授受を冒陳で指摘したことが明らかになり、検察側の不手際というか、勇み足という批判は避けられないと思う。
そもそも問題の冒陳は河村良彦ら三主役の分離公判でのものだったので、「公判で立証する」という大阪地検検事正の発言通り、この公判で立証されるものと私は期待している。
社会的問題を引きおこし、「存在不証明」は検察の不信を招いたので、是非立証してほしいと願うものである。
河村のマスコミ対策についてここで特筆しておかねばならない特記事項がある。それは、住銀のドンとまで言われた会長磯田がかかわっていたことである。
同年九月三十日、磯田、河村、そして伊藤寿永光の三人は大阪駅前のヒルトンインターナショナルのイトマン借りあげの一室に急拠集った。磯田は経団連の幹部として大阪市内鶴見緑地での「花と緑の博覧会」の閉会式に出席していたが、終ると急拠かけつけたという。三人が鳩首協議した内容は、「週刊新潮」が十一月十一日号(十月四日発売)に掲載予定の「住友銀行、イトマン、心中未遂の後仕末」と題する記事についてだった。
この内容にいらだった磯田はホテルの電話器を自らとり、週刊新潮の編集部長や新潮社に顔のきく女流作家(大阪地検の冒陳では人物を特定していないが、山崎豊子である)に架電して、記事の掲載を抑えようとした。また河村の方は十月二日にはわざわざ前出の「経済界」の主幹佐藤正忠を東京事務所に訪ね、日経新聞や週刊新潮の誹謗中傷記事についてこれまた押えるよう依頼した。
天下の住銀の会長磯田一郎ともあろう大物がコソコソと自らの手で電話をかけもみ消し工作をしなければならない背景とは、一体なんだったのであろうか。本来なれば会長職が自ら動くマターではないはずである。金でかたがつくといわれるブラック・ジャーナリズムでもあるまいし、電話一本で工作、抑えられるような甘っちょろい相手ではなかったはずである。磯田にはマスコミに突つかれては困るような後めたさというか、恥部があったとしか考えられない。
一方小早川は、京都の暴力団会津小鉄会会長の子息からの三十五億円にのぼる借金をかかえ、そのきびしい取り立てにあい、資金の捻出について苦悩していた。この返済のために伊藤寿永光に対し先述の箱根の墓地開発プロジェクトで四十億円の融資を申し込んできた。
墓地予定地は国立公園内にあり、開発の許認可のおりる見込みもないことはイトマン審査部門の調査でもはっきりしていた。十月上旬小早川からの要請をうけた伊藤寿永光は東京で河村と協議したのだが、すでに墓地開発予定の土地には二十五億円の担保がついており、かつ開発は不可能であるにもかかわらず、マスコミ攻撃の激化、社長の座の維持についての不安という四囲の情況も勘案して、河村は小早川を敵にまわすよりは、取り込み懐柔する道を敢て選んだ。そして小早川をふところへ取り込む手段として、
「十億円ぐらいで話をつけてくれ」
と伊藤寿永光に指示し、当時イトマンの資金ぐりは綱渡りの緊迫状況にあったので、ダミーの内外商事名義でイトマンが保有していた共同印刷の株券を担保にして急拠伊藤寿永光の口ききで大阪府民信組から十億円を借入れし、十月九日には小早川に送金した。しかもイトマン直接の貸金の形式をとらず、企画監理本部の副本部長だった設計事務所の社長が代表取締をしている北九州のペーパーカンパニーの名義を使用しての融資だった。河村はこの段階に至っても細心の心づかいを払い、念を入れた小早川の懐柔作戦だった。
この融資金は箱根霊園の開発はどこかえ飛んでしまい、先述の通りそのほとんどが暴力団関係者からの借金の返済等に充当された。小早川のかねてからの企み通り融資は実現した。金額は彼のふっかけた四十億円が十億円に削減はされてはいたが……。
河村のマスコミ対策については(磯田も含む)前向き積極的にPR、宣伝する姿勢よりは、自分に不都合な報道については、金銭で抑え込もう、金ですべてを解決しようとする前近代的な途てつもない思想が底流にあったと思う。
相手は夫夫の業界では名の通った一流の日経新聞社であり、新潮社だった。磯田も河村も相手をまちがったのではないか。
この十億円の融資については、金額は他の起訴された事件と比すると極めて些少だったが、不正融資の廉で、河村、小早川、関与した伊藤寿永光の三名は不正融資の「特別背任罪」で起訴されることとなる。
大阪地検の冒陳は、本件十億円の融資について次のようにきびしく指摘しているのでここで紹介しておこう。
「河村被告としては、いわばその場しのぎの思惑から本件融資を決定したものであり、箱根霊園の事業としての成否や、その採算性の有無、程度及び担保等の融資金回収措置の方法などを全く検討、調査することなく、これらを度外視しており、墓地開発は単に融資の体裁を整える名目に過ぎなかった。
さらに、この十億円の不正流用について特別背任罪に問われた小早川に対する判決公判が、平成六年一月二十八日大阪地裁であった。近江消勝裁判長は懲役二年(求刑・懲役三年六ヵ月)の実刑を言い渡した。
判決理由で裁判長はイトマンのマスコミ対策にも触れ、その様子を、
「河村被告はマスコミの報道や裏情報誌記事に神経質で、対策用に多額の会社資金を使うのをいとわなかった」
と描き出した。
さて、次の項へ移りたいが、またまた横道へ少しそれるがかつてイトマンへ出入りしていた社員を対象とする本屋があった。横堀にあったパパ・ママ・ストアの小さな本屋で、社員から本の注文を各階をまわってとってまわり配本し、代金は給料日まで据置いて集金するというシステムだった。この本屋のオヤジさんは本業のかたわらなかなかのカメラ愛好家で、各所のコンテストに応募して上位へ入賞するという腕前だった。実は私も若い頃から三十年近く、プロ写真家の故人江泰吉にあこがれて奈良大和路の古寺風物詩を撮り続けてきた。こんなことでこのオヤジさんとは時間があればよく写真談義をしたものだった。
このオヤジさんがある日、私にこう語ったことがある。
「イトマンさんは上から下まであまり本を読みはりませんなあ。シー・アイ(伊藤忠商事のこと)や丸紅さんと比べると格段に違いまっせ。どういうことでっしゃろか」
やや皮肉をこめたなにげない一本屋のオヤジさんの言葉ではあるが、イトマンの一面を象徴していたように思えてならない。このオヤジさんも本の配本を通してイトマンの内部を見すかしていたと言える。
すでに述べた通り、河村の経営哲学は当初は表面上はボトム・アップ方式を装っていたが、経営戦略はもちろんのこと人事を含み、小さなことにいたるまですべてがトップ・ダウン方式だった。河村の信条は社員が見事にいつしか洗脳され、利益をとにかくあげること、新規事業、新開発商品及び新販売先をさがし出し社長の許へ大仰に持ち込み認めてもらい、時には相手先の社長にも面談してもらうように工作し、利益が唯一最善の課題として受取られるようになっていった。上から言われたことしかやらない、言われたことも無理なことはやっているフリをしてやらないという風潮がいつしか醸成されていった。
だから極端な言い方かも知れないが、自らの良識を育て、知恵袋を大きくしていく努力を怠っていたし、世界情勢の変化や、時流の変遷についてはあまりにも無関心過ぎたのだとしか言いようがない。本屋の一人当りの売上げが伊藤忠や丸紅に比し少なかった所以もここにあるのではないか。
次に、これも先に述べたが、河村は社長就任に当り社長方針の一つとして「ガラス張り経営」の考え方を打ち出し、毎月次の会社の営業成績と財務内容は社員に公表することを約束した。かくて、毎月十日過ぎに全管理職は集合を命じられ、前月度の課別(部・本部別)の営業成績について、大型スクリーンに映し出した計数によって説明をうけた。社員に公表するというのは旧イトマン時代にはなかった新システムだった。
三副社長の「ここらでひと休みしましょう」という進言にもかかわらず、毎期毎にハードルをさらに二〜三段高くあげてとび越えるよう鞭を入れてきた河村は、ほどなく「競争経費」という新らしい方式を考え出し導入した。
読者各位には聞きなれない言葉だと思うが、実数よりも、そして他社よりも高い経費をクリアーして直かつ高収益をあげるのだという考え方にたっている。イトマンでは他社も採用していたが、間接の販売管理費は社内のコンセンサスを得て作成された一定基準にもとづいて最少単位の営業課別に配賦されていた。
この「競争経費」というのは、実額以上にプラスαの額を加算し、この差額は「社長勘定」と称する密室勘定に繰入れられめしあげられた。この結果年々増加していく実額経費以上の+αの経費の賦課に各営業課長は呻吟した。この社長勘定にはその他の数字も計上されていたようだが、中味は全く不透明で公表されていなかった。
各営業課のほとんどは期初から五ヵ月間は経費の重荷に耐えかねて赤字で、半期末には加算経費の繰り戻しが行われたが、各営業部・課長は自課の実態というか実力がつかみかねる状況になっていた。
幹部間にはこういった変則的なやり方に対する疑問、不信感が次第に芽生え、いくらやれども儲からぬ力の入らぬシステムで戦意喪失をしていった。河村がたまりかねて鞭を強く入れれば入れるほど、意の如く競走馬は走らなくなってしまった。
最終局面になると、従来各営業本部長クラスに配布されていた全社の各部門の営業成績一覧表は、当該部門の成績に限定された配布となり、代表取締役といえども全社の実態数字の把握ができなくなるという変則的なことになってしまった。権力者がその末期によく採る「報道管制」の一種のようなものだった。
当初は「ガラス張り経営」について目新らしいシステムだし、社員は賛同の拍手を送ったものだったが、営業成績公表というガラスに次第に曇りが生じ、順次すりガラスとなり、最終的には黒のフィルムが貼られて、内が全く見えなくなるというとんでもないガラス張り経営となってしまった。
第六章で、旧ソ聯邦時代のゲーペーウーのような恐怖人事については詳しく具体的事例をあげて述べてきた。
仕入先や得意先の代表者から、ある営業部長はあまりにもイトマン内の人事異動がはげしいためか、「すぐにまた異動があるのだから、いちいち新任、転任の挨拶まわりには来なくていいよ」と言われたことがあるくらい、人事異動は時期を選ばず、恣意的に行われた。
信賞必罰人事はサラリーマン世界に於ては実行されて当然と思うのだが、そこに客観的判断が失われ、私情が入ったり偏向主義に陥り極端になってくると、どうせ自分のポストは短期間なのだから「その間とにかく表面上の利益をどんな無理をしてもあげておけば、次の良いポストにつける。あとは野となれ山となれ、後任者の責任で自分は預り知らぬ」という組織運営上困惑する迎合的、無責任体制が生れてきた。社員に共通の目的意識が失われていけば、それはもう組織というものは完全に作動しなくなっていくものだ。これらの面でも河村路線はつまずき、無気力の「茶坊主社員」が増えていった。
(4)住友銀行OBの大活躍(?)
河村政権(昭和五十年十二月の社長就任から平成三年一月の社長解任時まで)の約十五年余にわたり、住銀からイトマンへ役員として送り込まれた OBは巻末別表(1)の一覧表の通りである。河村自身を含め二十六名の多人数に達している。内大学卒は半数以下の十一名で十五名は高校卒のいわゆるノンキャリア組だった。また住銀の現役時代取締役として経営陣の一角を占めた人はわずか一名に過ぎず、他は本店支配人、調査役、同補、検査役の肩書きの人達ばかりだった。たいへん非礼な言い方かも知れないが、残念ながらエリート・コースを歩んできた人達ではなかったようだ。唯一の元取締役も河村と肌が合わず僅か三年半の任期途中で辞任(解任)し、イトマンを去っていった。
いま私の手許にイトマンの役員名簿があるが、平成元年三月末現在では取締役総数四十名中住銀OBは十三名(三三%)うち代表取締役十三名中五名(四〇%)を占めている。同二年三月末では三十九名中十三名(三〇%)、代表取締役十八名中八名(四四%)の多人数が経営に参画していた。特に常務以上の代表取締役にいたっては、上の数字の通り四割余を占めていた。これだけの役員を送り込んでいた住銀の責任は極めて重大である。
これらの役員以外にも理事(準役員)あるいは部長待遇で相当数の人員を迎え入れている。イトマンが受け入れた住銀OBは役員を含めイトマングループ全体として約八十名の多きに達していた。住銀系列の関連企業なればいざ知らず、主力銀行とはいえ、一融資先に対しこれだけの多人数が送り込まれた例は、他に類をみないのではないかと思われる。住銀にとってはイトマンは格好の第二の職場であり、定年予備軍というか、いわゆる窓際族の絶好のはめ込み先だった。河村全盛時代、その経営実態を充分承知していない住銀の実質定年者(五十才前後)にはイトマン行きを希望する人が多かったやに聞いたことがある。
さて、社長河村は文芸春秋の自分の独占手記で「不動産事業について知識を持っているのは住銀出身者だけです。(筆者注・住銀OBが不動産に関する知識が豊富だと断定するのは早計にすぎるのではないかと思うのだが)実際不動産関係を見ていた役員は、住銀出身者が大半でした。ですから、私はイトマン・プロパーの社員に対し申しわけない気持で一杯ですし、『君たちには責任はない。住銀出身者で固めてやったことだから、住銀に責任をとってもらえばいい』と話してきました。そしてその責任を住銀にとらせるのが自分の仕事だと思っていました」と送り込まれてきた住銀OBの活躍分野について解説している。
この手記が発表されたのは河村解任の約一ヵ月半後であったが、社長としての自分自身の責任問題はどのように考えているのか、どこかへ棚上げされてしまっているのではないか、また住銀に責任をとらせるというが具体的方法としてどのようなものを考えていたのか、また具体的にどのようにワークしたのか、この部分だけをとらえても極めて疑問の多い手記だったと思う。
この河村手記のとおり、河村はOB連中をイトマンがかつて手がけたことのない新規事業の展開や、不動産開発事業及び彼らが得意とする金融業の分野へ次から次へと投入していった。旧来のイトマンプロパーの営業部門に配属されたのはわずか一名〜二名の本部長クラスの幹部に過ぎなかった。
さらに、伊藤寿永光を不動産の開発事業の新規展開という大々的な触込みで迎えるために「企画監理本部」を新設し、伊藤をいきなり平成二年二月一日付で本部長に据えた。この伊藤は同年六月の株主総会で取締役に選任され、中途入社でありながら従来の代表取締役もとび越えて筆頭常務に就任した。最終採用を決定したのは河村ではあったが、住銀栄町支店長の紹介によるもので、すでに住銀と密接な取引があったことはすでに述べた通りである。
イトマンの同年四月の職制表によれば、新企画監理本部大阪の副本部長四名中三名は住銀OB(うち一名は常務)、一名は伊藤の紹介による設計事務所の代表者であって、のちに取締役に選任された。東京では同四名、名古屋では同一名がすべて夫々住銀OBで占められ、イトマンプロパーの幹部は一名もいないという状況であった。石を投げれば住銀OBの副本部長にまともに当るという人事配置だった。
また従来からあるプロパーの不動産本部及び物資事業本部を夫々統轄する第五及び第六営業統轄本部という組織があった。統轄本部長及び同補佐、並びに大阪、東京、名古屋の夫々の事業本部長らの幹部は十四名にも達していたが(同一人の兼務があるが、これは人数に計算していない)うち十二名がすべて住銀OBが雁首をそろえ、イトマンプロパーの幹部は二名にすぎないという組織だった。
さらに、第八章の(3)項で詳述したが、イトマン直系のノンバンク、イトマンファイナンスの代表取締役実力会長として七年半にわたり君臨してきたのも住銀OBだった。
大阪地検が冒陳のなかで「経営多角化による新規業種への進出の過程で、人材不足、ノウハウの蓄積のないことに加え、既存の業者の厚い壁に阻まれて、その進出を焦るあまり、巨額の損失を被った」として、具体的な事例をあげてきびしく指摘している。
このことはすでに第五章(2)で詳しく述べ、その部門の担当責任者のことにも若干触れた。
本項では検察の指摘する新規業種への無暴ともいえる積極的展開について、これらを担当した責任者の住銀OBの大活躍(?)について解説を試みたいと思う。
まず、「大日本コンピューター」の倒産(約一一二億円の損失)の責任者は前述したが、住銀のOBで若い頃から経験を積んだコンピューター関連のベテランだったが、地道に、「小さなことからコツコツコツ」と積み上げていくという経営手法を採る人物ではなく、むしろ一発逆転のホームラン狙い屋タイプで、阪神タイガース平成六年の新外人選手ディアーのように大きく空を切って三振する度に、二桁億円の損失を計上し、積り積って提携融資先の企業の倒産も重って約一一二億円もの大穴を開けた。
社長河村は先物買いをしたのかイトマン本体の取締役(非常勤)に登用するという厚遇ぶりだったが、私の見るところ、別に死人に鞭打つような非礼なことを言う気は毛頭ないが、(本人はイトマン退任後間もなく不治の病をえて六十才前半の若さで他界している)いやしくも社員が一〇〇人にも達する規模の企業の代表者としてはふさわしくなかった。
次に、「おもちゃのコスモス」はイトマン本体鉄鋼部(東京)で担当していたが、おもちゃの自動販売機の製造販売会社だった。
無暴とも言える工場設備の投資、販売不振も手伝って経営が行き詰り、「大日本コンピューター」と全く同額の巨額の損失を計上し償却せざるをえなくなった。この営業部門の最高責任者は住銀OBの専務(元調査役、門真(大阪)支店長)だった。東京本社の天皇とも言われた個性の強い、しかし人間的な温情味のある実力専務だったが、最終的には河村と合わなくなり、系列の情報処理会社の社長に追いやられた。巨額の致命傷に値する深手をイトマンに負わせたこの住銀のOBも、「大日本コンピューター」の代表者と同じくいわゆる成人病で、心労がたたったのかどうかは判然としないが、六十才過ぎの働きざかりの年令で他界した。
次に「石油業転問題」は、検察・冒陳が「被告人河村が自ら手がけた」と明白に指摘しているように、自分の甥を伊藤忠燃料からスカウトし、燃料部長に任命し、二人が組んで実施した一時的の利益創出のための取引だった。このことは第五章(1)ですでに述べた。
第四に検察が指摘したワン・ルームマンション杉山商事の不良在庫込み(約一千億円超)のイトマンの引取りも、イトマンプロパーの三副社長らの慎重な対処姿勢にもかかわらず、住銀磯田会長からの要請があったとは言え、河村自身が「不動産事業の川下作戦」という大義名分のもと決断したものである。また、第五の東京青山の地上げの強行も、河村自らの陣頭指揮の下、担当していたのは東京の不動産本部であり、本部長並びに不動産本部の統轄本部長はいずれも住銀OBだった。
次に、住銀OBの実力会長がすべての実権を掌握し、他の介入する余地のなかったイトマンファイナンスは平成三年時点(河村解任時)で約二,八〇〇億円の融資残があり、いかにバブル経済の崩壊があったとはいえ、約八〇%が不良債権化したといわれるほどの強引・無暴な商法だった。
今回の住銀・イトマン事件の総本山というべき伊藤寿永光、許永中の持ち込み案件、すなわちゴルフ場開発、巨額の絵画取引等のプロジェクトを担当していた総責任者は、住銀OBの名古屋支店長の専務だった。彼は真面目、几帳面な性格だったが、最終時期には心身症のようになり平成二年十二月一日の土曜日の出勤前の早朝、自宅の風呂場の浴槽内で逝去した。当時警察は自殺と判断したようだが、私は心労の積み重ねによる事故死だったと思っている。
住銀OB八十人の戦士たちは、なるほど自分が育ってきた銀行業務にはたけていたのだろうが、河村は不動産部門について知識を持っているのは、住銀出身者だけだ、イトマンプロパーは素人だといったが、逆に商社経営、その独特の商法にはあまりにも無経験、無知だった。彼らの大先輩にあたる河村の「行け行けドンドン」の強引かつ無暴な高らかに鳴り渡る進軍ラッパに、無批判、無抵抗で盲従し、無謀な突撃を繰返えし、その度に貴重な鮮血を流し、最終的にはイトマンを巻き込んで玉砕してしまった。この住銀OB部隊及び部外者の外様の人達によりイトマンの経営は壟断され、イトマンプロパー幹部が直接関与しないまま百十年の風雪に耐えて来たイトマンの「のれん」は河村政権の十五年間にズタズタになり、最後には住銀の手によって無残にも引き裂かれてしまったのだ。
よって本項は「住銀OBの大活躍(?)」と題した次第である。
本項はこれで締めくくろうと思ったが、何か書き残したものがあるように思えてならない。このひっかかる内容については、書くべきか書かざるべきかハムレットのように思い悩み、ちゅうちょもしたが、折角与えられたまたとない機会でもあるので、思い切って書くことを決意した。以下読んでいただければ私の苦衷のほどを察していただけるものと思う。
イトマン(東京)の元審査部門の担当課長が、平成四年十月六日の第十七回河村良彦らの公判に、これまでイトマンの前社長とか元副社長あるいは常務クラスが出廷してきたなかにあって、課長クラスが始めて検察側の証人として証言台に立った。
「平成二年一月中旬ごろ、伊藤プロジェクトの窓口責任者だった名古屋支店長が打ち合せのため出張、上京してきた際、『平安閣プロジェクトの担保関連の書類は目茶苦茶ですね』と言ったら『好きこのんでこの案件をやっているのではないっ。河村社長がやれというからやっているのだ!』という回答がかえってきた。かねてから手堅いしっかりした人だと評価していたので、窓口責任者が『実際はやりたくないのだ』と言ったのにはがっかりした」
もうひとつ支店長の人柄に関する重要な証言があるので引用したい。
「意外だなあと思ったことがある。それは平成二年十二月ごろ、伊藤寿永光の実兄の泰治と担保に関する交渉をした折、泰治が『名古屋支店長の突然死によってホーッとしたところだ』としみじみ語ったことがある。『どういうことなんだ?』と問いただしたところ、思いもよらぬ答えが返ってきた。『出張から帰名中の支店長が夜遅く新幹線車中から名古屋駅まで迎えにこいと電話がかかり、それからクラブまわりをして飲みまくり、深夜に私の自宅まで押しかけてくることがしばしばあった。女房も常々苦情を言っていた。本人の死によってこれが全くなくなったので女房ともどもホーッとしているんです」
きびしい社内規則、戒律と徹底した社員教育の中で育った住銀マン、そしてイトマンでは住銀時代のキャリアから考えると異例とも言える専務にまで昇進してきた人物にしては、いくら最終時には捨て鉢的な態度、心身症的症状に陥入っていたかも知れないが、全く大人気のない話で、まさに「タカリ」そのものだった。弟に当る伊藤寿永光にさらに足許をみられ、つけこまれる原因を自らつくったと思われる。
次に、前記の「大日本コンピューター」の元社長が、箱根霊園に対する不正融資により特別背任罪で起訴された小早川茂こと崔茂珍の第八回公判(平成四年七月七日)に弁護側の証人として出廷した。
彼は開廷直後、弁護人の担当職務に関する尋問に答えた際、堂々と大声で(彼は優に一〇〇キロ近くあると思われる巨漢だった)次のように証言したので、傍聴席で聞き耳をたてていた私は驚き入った。
「かつて検察庁へ参考人と呼ばれ検事から事情聴取を受けた時、『大日本コンピューターの社長時代に(ソフトウエアー)の開発案件が実現しない(失敗)という経営上の蹉跌によって一〇〇億円以上の損害をイトマンに与えたが、河村社長のおかげで社長の地位にとどまることができた。非常に恩義を感じている』と供述したことがある。河村社長がなぜ助けてくれたのか、私の力量を買ってくれてのことだったのかいまもってよくわからない。次の仕事で損失をカバーしたいという気持はもっていたのだが……」
彼は昭和五十七年十月にイトマンへ入社、先にも触れた通り同五十九年には(特別のさしたる功績もないのに)取締役に選任され、「大日本コンピューター」の整理後もイトマン(東京)広報担当役員を委嘱されたりして、平成二年六月に取締役を退任、そのごも約八ヵ月は理事待遇で残留、翌三年三月末にやっと退社したという厚遇をうけていた。本人が河村社長に恩義を感じていると証言したのもむべなるかなと思われる片よった河村の人事政策だった。
一一二億円にも及ぶ私の現役時代のイトマンにとっては、資本金の約五倍にも当る巨額の損失を与え、約一〇〇名に近い社員をかかえていた「大日本コンピューター」を整理したのだから、自らその経営責任をとって辞任し、退任慰労金も返上するくらいの責任観念があって然るべきと思う。しかし、本人は一一二億円の損失の重みと、職場を失った約一〇〇名の社員の生活についてどのように考えていたのであろうか。公判開廷直後に前記のような証言を先ず聞いたものだから、びっくり仰天した次第である。かつての元クレージーキャッツの植木等のヒットソングではないが、文字通り「無責任男」だった。
御大河村良彦については本稿で経営上の諸施策の失敗、蹉跌に加えその人間性について縷縷述べてきたので、これ以上のことについては筆を擱きたいと思う。
ただし次の三点だけは他の章で書きそびれたので、やや長文になってしまうが本項で是非ともつけ加えておきたい。
第一に自社株取得の商法違反罪に問われた副社長の自分の第二回公判での弁護人による被告人質問における証言を紹介しておこう。(平成四年三月二日)
「河村社長就任後の経営については、及びもつかぬ手法でビックリすることが多発した。『できない』とか『むつかしい』という言葉は禁句であったが、一度だけ言った事がある。しかしひどく叱られ口もきいてもらえぬ気まづい空気が流れた事もあった。失敗をすれば『お前のやったことだ』と言われ、うまく行けば社長の実績となった。まさかの時には副社長がやったのだと自分の盾にできる人物だと評価し、反面警戒もされていて、自分の担当部門の分野のことについて他の同僚に指示されることもあり、ライバル視していたと思う。
昭和五十三年十一月ストレス性の急性胃潰瘍になり、救急車で運ばれ約一ヵ月入院したことがある。年明け早早出社すると『何をボヤボヤしとるのか。早く借入れ金利を引き下げよ』ときびしく言われ、悲しく怖い人だとつくづく思ったことがある」
含蓄のある副社長の証言を私は傍聴席で、いろんなことを思い起しながら聞きいっていた。
第二に平成二年夏ごろ、イトマンの代表取締役専務であり、伊藤プロジェクト推進の窓口だった専務名古屋支店長が山口組ナンバー2の若頭宅見勝組長を訪問、面談した事実がある。これはイトマン前社長芳村昌一の河村良彦らの公判、第二十回(平成四年十一月十七日)での証言にもとづくものである。芳村社長が名古屋出張時、支店長と同乗した車中で、支店長が宅見組組長の名刺を見せて伊藤寿永光の紹介によって会ってきたと話したというのである。
以下は私の推測だが、大物の宅見組組長がイトマンの一専務ひとりに会うはずがなく、恐らく河村が専務を同行して訪問したものと思う。この私の推測を裏づける朝日新聞の報道がある。河村解任後の平成三年三月、同社記者の取材に対して「伊藤寿永光の紹介によって宅見組長に会った」と答えている。
面談した用件はいまひとつ判然とせず証言もなかったが、社長にしろ専務であれ、一部上場企業の代表取締役自らが暴力団のナンバー2との面談に直直出向くという感覚は理解できないし、利益をあげるためには手段を選ばずというか、その経営者としての常識、倫理観に重大な疑問をもつものである。上にあげたような人物をイトマンという老舗が社長なり専務、役員に頂いていたのかと思うと実に情けないというか、なんとも言えない思いにかられる。
次に、第十二章で立川(株)の経営権譲渡をめぐる十億円の業務上の横領について、また取締役会の未承認のままお手盛りの報酬の六ヵ月前に遡及しての大巾引きあげ等について記述してあるのだが、以下河村個人の金銭に対する異常なまでの執着心についての具体的事実についてつけ加えておきたい。
平成元年、イトマン大阪本社ビルの別館に事務所のあるビル管理会社の社長から、中元、歳暮の名目で三回にわたり各一,〇〇〇万円、計三,〇〇〇万円の現金を受領していた事実がある。このビル管理会社が検察の強制捜査を受けてすべての書類が押収され、彼も検察に供述したため、後日この金は河村が金利をつけて返却したようだ。「公私混同していた」とは河村の後日の告白である。
このビル管理会社は住銀会長(当時)磯田一郎の東京高級マンションを前述した通り相場比破格の高値で借り上げ、磯田に便宜をはかっていた会社である。この社長は常に河村に腰巾着のように密着し、バングラデシュでゴルフのシャクトの合弁会社を新設したりしている。このような関係で大阪地検の強制捜査をうけたものと思われる。
その他、居酒屋チェーン「つぼ八」をめぐる増資時の株式の個人取得、系列イトマンファイナンスの昭和六十二年九月の五万株の第三者割当増資時(割当価格一万円)の額面五〇〇円での一万株の個人取得(取締役会の承認なし)、名古屋の旭一シャイン工業の第三者割当増資時の十万株の個人取得他による河村個人の「資産形成」の意図もあるが、紙面の都合で省略したい。
ここで河村をめぐる金銭問題を敢て採りあげたのは、表面上は自分の年俸を副社長よりも大巾に低く抑え、「自分は子供も成人独立したので、もう金はいらない」とイトマン幹部らに堂々と公言したり、社外講演会で自分の報酬は世間一般の社長のそれよりは、はるかに低く抑え、あげ得た利益は成果配分方式で社員に公平に分配し、高賃金会社を目指していると大勢の聴衆の前で講演したりして、上辺を彼独特の巧みなパーフォーマンスで糊塗していた嘘と二重人格について指摘しておきたかったからである。
住銀頭取巽と副頭取玉井(当時)の二人は河村に対し平成三年一月二十一日、強硬に社長辞任を迫った。その時の最終場面の二人のやりとりが本項にも関連して興味深いので再録しておきたいと思う。
巽「責任をとって退任すれば、子会社の顧問か何かで身を立てられるように考える」
河村「心配無用だ。家をたたき売ればなんとかなる。断っておくがわたしは汚い金は作っていない」
かくして三者会談は決裂し、河村は四日後の同月二十五日にイトマン取締役会で社長を解任されることになるのだが、住銀の巽は河村が吐いたこの最後の言葉に引っ掛かったという。(朝日新聞社刊「深層」)
いかに、強腕、強気の河村といえども、心の片隅に辛うじて良心の呵責が残っていたのであろうか。まさに語るに落ちる捨て台詞だった。この台詞が飛びだしたことで、これ以上の他言は要しないと思う。賢明な読者各位は底流にある深層についてはご理解いただけると思う。
以上は私の主観ではなく、本人または第三者の証言、傍証によってイトマンへ送られてきた住銀OB三人の人間性、人となりについて述べてきた。たまたま代表的な例として三人を採りあげただけであるので了解していただきたいと思う。
河村がイトマン社長に就任直後の約五年間については、彼に直直密着して薫陶と洗脳をうけ、ひたすら彼を尊敬し、畏敬の念をもって仕え信奉してきた私としては、いかに河村が最後の十年間で仮面を剥ぎ、豹変したとは言え、まさに断腸の思いで上記の文を書いたのだが、さらに心を鬼にして以下の一文で本項を締めくくりたいと思う。
「経営上の各施策の失敗に加えて、このような品性の劣る、劣悪な人間性の住銀OB達によって、イトマンが壟断され、一世紀余にわたる老舗が大阪船場から永遠に消滅してしまったことは、諦めようとしても終生諦め切れぬ痛恨事だった。嗚呼!!」
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