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第十一章 河村乱脈経営とその破綻

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 (1)自社株の大量取得と住銀離れ

 河村良彦と忠実な腹心だった元副社長(財・経担当)の両名は、イトマン株の自社による大量取得の「自社株取得禁止違反罪」容疑で、平成三年七月二十三日大阪地検特捜部によって逮捕された。河村の逮捕容疑は、当初はこの商法第四八九条二項(自社株取得禁止)違反だったが、その後特別背任罪、業務上横領罪で再逮捕され追起訴されることになる。元副社長については河村をとにかく逮捕するためのいわば道連れ的な犠牲者だったといえるかも知れない。

 元副社長は初公判の罪状認否で、「起訴事実はすべて認め、河村社長の指示にもとづいて会社業務として行ったものであり、個人的利得は全くない。また自社株取得が商法に違反するという明確な認識はもっていなかった」と情状酌量を訴えた。また検察側が提出した証拠書類一六三点についてもすべて同意した。

 なおこの証拠書類の中にはイトマン元会長伊藤寛(故人)夫人の河村良彦の伊藤夫妻からのイトマン株譲り受けに関する参考人としての供述調書も含まれている。同夫人は八十才に近いが、執事が同行して大阪地検の要請に応じて出頭したという。

 さて元副社長は河村ら三主役の公判とは分離されて公判が単独で行われ、証人の出廷もなく、主として弁護人側の被告人質問が中心に行われ、四回目で結審し検察側は懲役二年を求刑(法定刑は五年以下の懲役か二〇〇万円以下の罰金)した。これに対し大阪地裁の七沢章裁判長は平成四年六月二十九日懲役一年二ヵ月、執行猶予三年の判決を言い渡した。約五ヵ月のスピード審理だった。

 「自社株の取得は八二八万株余(購入資金一〇三億六千万円)の巨額に達し、計画的かつ巧妙で約五十億円に及ぶ大きな損害を会社に与え、株主及び債権者の利益を害した悪質な犯行である」と断定した。

 一方「社長河村のワンマン体制下にあったとはいえ、副社長としての権限、職責は重大で唯唯諾諾と社長の指示に追随して、自らの保身を図るのではなく、身を挺してでも阻止すべしとする気概と自覚が不足していた。しかし被告は従属的立場にあり、個人的利益を受けていないし、率直に事実を認め、毅然と責任をとるとの改悛の情を示しており、前科もなく真面目に勤務もしてきた。またすでに(イトマンの)役職を解かれる等社会的制裁もうけている点も考慮し、執行猶予とする」と情状酌量について述べた。

 加えて裁判長は「被告はつらい立場だったかも知れないが、その職責を考えると、強く、正しいことは正しいと言い、不正を防ぐ「気概」と「勇気」が大事であったはずである。これからの人生でもこのことをよく考えて、生活することを期待します」と異例と言ってよい温情ある判決文の最後の部分を諭すように読みあげた。

 元副社長は被告席で頭を垂れ、ジーッと聞き入っていた。恐らく思い巡る各種の複雑な感慨とこみあげてくる男の涙を懸命にこらえていたものと思われる。

 元副社長は控訴しなかったので刑は確定した。かくして自社株の大量取得について自ら具体的指示を発し、イトマンの資金を大量に費消していた河村については、この商法違反に関する検察の公判における立証は未だ開始されていないが、外堀りを埋められ、崖っ淵の苦境に立たされたといえる。

 さて、河村主導にもとづくイトマン株の大量買いつけは想像を絶する大規模なもので、最終会社に与えた損失も前述の通り莫大な金額に達している。

 以下河村のイトマン株のダミー会社を通じての取得と、河村周辺のシンパサイザー的な企業や個人へのはめ込みの概要について述べたいと思う。

 さて、イトマンのナンバー2及び同3の二副社長は口を揃えるように法廷で証言を行った。(河村良彦ら公判第三回、平成四年二月二十一日、同第五回、平成四年三月二十四日)

 「確か平成元年暮ごろと、平成二年四月の二回にわたり、河村から『住銀会長磯田(当時)は西副頭取をイトマン次期社長に送りこむ意向だ』と聞いたことがある。加えて河村は『西には商社経営は無理、できない』ときっぱり言っていた」そして、「河村はいずれ会長(代表権あり)に退き、後継社長はかねてからわれわれが聞いていたように三副社長の中から選ばれ、会長が引続き強力な院政を敷くものと思い込んでいた」

 この二副社長の証言にもある通り、親元の住銀の親分から社長退陣を仄かされた河村は、第八章(2)でも述べたように、イトマンの実質オーナーに就かんとする野望捨て難く、社長の地位に執着し、経常利益を公表計画通り粉飾まがいの決算で装い、株価水準も一,五〇〇円以上の水準を保ち、さらにより引きあげることを企み、自社株の会社資金による買い占めと株価の人為的操作に血道をあげていった。

 平成二年八月に中東の湾岸危機が始まった。このショックで株式市場も暴落を重ね、八月には平均株価も三万円台を大きく割り、二三,七三七円まで下落した。イトマン株も七月までは一,四〇〇円〜一,五〇〇円ラインを上下していたのだが、八月には安値一,一八〇円をつけ、九月にはついに、一,〇〇〇円の大台を三年半ぶりに割り込み安値七四〇円にまで下落してしまった。

 株価が企業の成長性をあらわすバロメーターなりと信じて、過去株価の維持、上昇に奔走してきた河村にとっては大きなショックだった。

 よくない事は重なるというが、この時期に例の日経新聞の九月十六日付の「不動産に対する過大投融資一兆円を越す」の記事が掲載され、狼狽した河村は当日出社後直ちに担当副社長を呼び、

 「この記事で株価の一層の下落が予想される。例の会社を使って買い支えてくれ。五〇〇万株ぐらいまでいこう」 との指示を出した。

 河村の言った例の会社というのは東海振興信用(東京・資本金一千万円)と内外商事(東京・実務は大阪で実施、資本金一千万円)の二社だった。(以下東海、内外と称する)いずれも金銭の貸付け、有価証券の取得及び保有等がイトマン本体及びその子会社の名義で直接実行することが不都合な場合に、いわゆるダミー会社として名義だけ使用するための会社として、河村が自ら指示して設立した会社である。

 株主は若干の変遷はあったようだが、河村の親族や知人の経営する会社(その代表的な会社は「アーネスト」)だった。代表取締役には甥と義弟が夫々就任していた。なお、この甥は立川(株)との経営権譲渡の密約に関する手付金十億円の現金を河村と友に搬送した人物である。(第十二章(2)に詳しく述べているので是非熟読していただきたいと思う)

 このダミー二社の設立の時期は私の手許の資料では詳かではないが、河村は昭和五十八年ごろから平成元年十一月ごろにかけてイトマン株を取得させている。そして住銀以外の取引銀行、取引先他にはめ込み、安定株主工作の名のもとに、河村の構想通りの「住銀離れ」の一環として順次進めていた。よって昭和五十年台の後半にはすでに設立され活用されていたと思われる。

 代表者は「東海」が住銀OB(なぜか住銀OBが事務処理兼務で就任)、「内外」がイトマン京都寮の管理人(名義貸し、実務は全く無関係)だった。株式会社だが、取締役会も株主総会も全然開催していなかった。資金はイトマン金融子会社「エム・アイ・クレジット」(その後「ミック」と改称)を経て融資されていた。すべてがイトマン本社の判断と責任において行われていた。

 このダミー二社は私の許には確たる材料はないが、裏金作りも担当していたという説がイトマン関係者の間では多い。

 本件に直接関与した幹部、担当者を除き、他の役員、幹部はこのダミー二社の存在(イトマンの直接出資は外している)はもちろんのこと、自社株の大量取得、株価の操作のことは知らされていなかった。ただ、河村社長の口から、月初訓示、朝会等の場を通じて、イトマンの株価は「やがて一,〇〇〇円になる」「一,五〇〇円も間近いぞ」「次は二,〇〇〇円を目指す」と繰返えし聞かされていた。まさにトップ・シークレットだったのだ。

 このマル秘事項に関し、担当副社長の重要な法廷証言があるので引用しておきたい。(河村良彦ら公判、第四回、平成四年三月十三日)

 「このダミーを通じてのオペレーションについては、河村社長が一番気にしていることだった。『銀行はもちろんのこと、他へは一切口外しちゃいかん。君のハラに収めておけ』と繰返えし指示をうけていた。従って「エムアイクレジット」「東海」「内外」への貸付金残は期末にはゼロになるように操作し、公認会計士にも項目を削除し、記載しないでほしいと申し入れていたが、いつまでも削除は続かなかった」

 さて、河村指示を受けた副社長は、この時期の九ヵ月前から通算すると、平成元年十二月七日から平成二年十一月三十日の約一ヵ年の間に、これも河村指示によって証券会社を集中させないように配慮し、八社に分散して買い付けたが、その累計は次の通り莫大な数量、金額に達している。

 「東海」名義 五,三六二千株(七十二億四,六四五万円)
 「内外」名義 二,九二〇千株(三十一億一,四八〇万円)
  総 計   八,二八二千株(一〇三億六,一二五万円)


 当時の発行済株数の約四%を保有するに至った。買い付け平均単価は一,二五一円の比較的高値だった。

 平成二年九月以降はイトマンの資金繰りが急速に逼迫して、現金決済が不可能な事態となったので、河村指示によって信用取引の方法に切り換え買い進んだ。それでもなお、株数不足のため、平成二年十一月には幹事証券の野村証券に依頼して、上場企業二社(住宅関連とコンベアメーカー)に一五〇万株を、買い戻し条件で買い付けてもらい、後日金利を払って引き取るという、ここまでしなければならないのかと思うほどの無軌道、無暴極まる買い付け方法であった。

 しかも、イトマン社内におけるエム・アイ・クレジットに対する貸付けに関する所定の決済手続は全て経ておらず、エム・アイ・クレジットからの担保も一切徴求されていなかった。もちろんエム・アイ・クレジット内部における稟議手続も採られていなかった。

 イトマン内部での資金移動であったかも知れないが、あれだけ社内ルールの遵法を口やかましく説き、社内管理システムのより整備を指示して来た河村自身が自ら社内ルール破りを実行し、副社長もこれに無批判に追随してきたことになる。

 また取得した株券(保護預り証を含む)はイトマン本体へ直接送付され、同社の金庫内に保管され、担保への差入れ等を実施していた。

 イトマン買付けの保有株(「東海」「内外」名義)の合計八八八万八,六六五株(無償割当及び平成元年十一月以前に取得分を含む)は、河村解任後の新経営陣によって、平成三年三月から四月までの間に、子会社の伊藤萬不動産販売、名古屋伊藤萬不動産及びランドホープ等に対し、当時の時価で売却された。平均売却単価は六二八円(買い付け平均単価の丁度1/2にまで暴落していた。参考までに同年三月の東証の高値は七八〇円、安値五六〇円、同年四月は高値六九五円、安値五九〇円だった)であり、売却損は合計五十一億四千万円もの巨額にのぼった。

 なお、この子会社へ譲渡された河村買い付けのイトマン株は再び住銀系の受皿会社に転売されたが、七十億円を越す実損が発生したものと推測される。さらに住金物産との五対一の合併により巨額の評価損を計上することとなる。

 前記の通り自己株を大量に取得する一方、河村は同二年三月及び五月には伊藤寿永光に、三五五万株を丸益産業(注・雅叙園観光の簿外乱発手形の大手振出先であり、平成三年三月にはイトマンの大株主第九位(三四〇万株)にランクされている)から取得させたほか、同年八月ころ、許永中にも副社長を介して、イトマン株の大量取得を要請し、同年九月から平成三年一月までの約半年弱に、同グループでなんと三,九〇〇万株というすさまじいというか、大胆な買いっぷりで、一躍一八.六%を占めるイトマンの筆頭株主に突然躍り出た。

 許永中自身は、TOKYO INSIDER編集長歳川隆雄(当時)のインタービューに答えて次のように語っている。(月刊Asahi 平成三年三月号)

 「河村さんに迷惑をかけたという気持ちも強かったから、イトマン株が下がったらえらいこっちゃなと、応援するというたらなんやけど、何とかできる範囲で支えよう、と。これが真相ですがな。買い平均コストは九五〇円ぐらいやね。資金は借り入れですよ」

 しかし、許は河村解任後の同年二月ころから株価は暴落したにもかかわらず(二月〜五月の間、五〇〇円〜六〇〇円台を低迷していた)アイチや大阪府民信組元理事長の南野洋系の企業グループに大量に放出した。

 なお、許の三,九〇〇万株の購入資金(約三六〇億円)の出所(借入先)及び売却損失額及びその補填策について極めて興味があるので、調査しようとしたが不可能だった。

 河村はまた、前記の親族が代表者になっている「アーネスト」(不動産仲介業、飲料水の販売他)に平成二年八月〜九月に一〇五万株を購入させ(イトマンファイナンスから購入資金約十三億円を融資)、さらに大正不動産(河村の甥の義父が代表者)に同年四月から十月までの間に五〇三万株を取得させた。(前同様約八十億円を融資)

 河村の中ば強制的なイトマン株の取得の要請を受け、名義貸しをした両社は、河村解任後にイトマンに対して取得価格に金利を加算した金額で引き取るよう強硬に申し入れしていた。イトマンも最終的は取得原価で買い戻した。しかし金利相当部分は加算しなかったようだ。買い戻しにより被った損失は約六十億にも達していたものと推測される。

 河村、伊藤、許の事件主役の三被告だけではなく、南野洋が個人やグループ企業で一六四万株、自民党代議士(現運輸大臣亀井静香、許の紹介、河村が許とともに計画していた広島県・庄原市のリゾート開発の選挙区の選出。今回の事件の裏面でこの亀井代議士の名がチラチラ出てくる)は、秘書名義で三十万株を買いつけていた。

 また許の紹介でイトマンの日本レース株式取得時に、かげで動いていたといわれる東邦生命保険も一九〇万株を取得していた。東邦生命は日本レース株取得の見返えりというべきかイトマングループに対し二五〇億円の融資を平成二年五月〜九月にかけ実行している。

 さらに、本章の第(3)項で述べている河村に対し盆、暮に、三,〇〇〇万円の現金を貢いでいたビル管理会社の社長も河村に株価の値上りを煽動されて買っていたようだ。

 当時イトマンの発行済株式は約二億九六四万株だったが、そのうち約五五%が金融機関、取引先、社員などが保有する安定株主層で、残余の約四五%がいわゆる浮動株主だといわれていた。浮動株数約九,〇〇〇万株の約2/3の六千数百万株を、河村個人と河村指示によって取得した自己株並びにシンパサイザー達によって強引に買い集められたことになる。一部上場企業では希有の自己株の取得とそれによる人為的株価の操作だった。

 イトマンサイドの買い付け資金の金利負担、売却、処分の累計損失は想像を絶する金額に達し、河村周辺のシンパ企業、個人に対しても莫大な損害を与えたことになる。

 この大量の買い支えにもかかわらず、平成二年十月には安値五〇〇円台、同年十二月と翌年の河村解任の一月には四〇〇円台にまで夫夫暴落した。イトマンの不動産に対する過大投融資が爼上に載り、信用不安も日ましに増大してきたため、金融機関、取引先、並びに浮動株の相当量の放出があったためと思われる。

 いずれにしても、従来実施してきた安定株主工作の域をはるかに越えた只只買い付けるばかりで、はめ込みも売却もなく、商法規定に違反していることは明明白白の事実だったと思う。河村の刑事責任が問われてしかるべき事態だった。

 大阪地検の冒陳はその総論の記述において、自社株の大量取得、河村自身の個人筆頭株主を武器に「住銀離れ」「独立」を果たそうとしていたと断じている。

 しかしそれにしても河村の社長の地位の維持と、住友離れの犠牲は多大で、そのコストは莫大な金額についたことになる。

 大阪地検が「戦後最大の経済事件」と定義づけた所以の一端もここにありと思う。
  
 (2)粉飾決算操作と自滅

 イトマンが毎期決算の対外発表時に、全国紙・業界紙の担当記者や取引銀行、大手取引先等に配布している「決算短信」というレジメがある。これには当期の決算内容とあわせ、次期の経常利益計画数字が併記されている。過去七期分のこの利益計画とその実績及び売上高の推移をまず冒頭に掲載しておきたい。

           (利益計画) (実績利益)  (売上高実績)
 昭和 五十九年九月期  四十五億円( 四五.五億円) 五,六二九億円
    六十 年九月期  五十 億円( 五一.九億円) 五,〇三三億円
    六十一年九月期  五十五億円( 六十  億円) 四,七二八億円
    六十二年九月期  六十五億円( 七十八 億円) 四,四七八億円
*(注)六十三年三月期  三十五億円( 四十四 億円) 二,三四五億円
 平成   元年三月期  一〇〇億円(一一〇  億円) 五,二一九億円
      二年三月期  一三〇億円(一三七.六億円) 六,三四八億円
 *(注)昭和六十三年三月期は決算期の変更に伴い六ヵ月決算

 なお、昭和五十一年〜平成三年の売上高、経常利益は巻末別表(3)を参照していただきたい。

 上記の対外発表の利益計画数字そのものが毎期毎期、前期比一〇%増、平成年度に入ってからは前期比四〇%、三〇%増というように急増し、正常な経営感覚では到底実現が困難視されるような計画を、社長河村が自らトップダウン方式で決定し、各営業本部長毎にノルマを割当てた。前述したように三副社長はあまりにも背伸びし過ぎだし、実現は極めて困難なので「ここらへんで一休みし、さらに体力を蓄えては……」と口を揃えて恐る恐る進言したが、頭からハネつけられ聞き入れられなかった。

 かくして、河村はノルマ達成にむかって、恐怖人事も交えて叱咤激励の鞭をふりかざしていった。

 河村にとってイトマンの再建を果した昭和五十三年以来、毎期連続しての「増収増益路線」の堅持は、彼の金看板であり、心の支え、生きがいでもあった。また自己の社長の地位を不動のものにする大きな突っかい棒だと考えていた。

 昭和六十年以降、円高傾向、イラン石油の輸入中止等によって売上高は横ばい乃至は漸減傾向にあったにもかかわらず、利益だけが独走し、毎期の計画を完全にクリアーし、遠大な計画を下まった期は皆無であった。特に平成年度に入ってからは計画数字に比例して実績も異常に膨張し、平成元年度は五年前の昭和五十九年比約二.五倍弱という驚異的な一一〇億円という私の現役時代からみれば天文学的ともいうべき数字を計上している。

 当時イトマンの提携会社へ転出し、さらに現役を引退した私は、詳しい決算内容を知る由もなく、株主に送付されてくる株主総会招集通知若しくは総会終了後の事業報告書の P/L又はB/Sに目を通し自分なりに分析する以外に手はなかった。第八章の(3)項で詳しく述べた支払利息を上まわるような金融業による収入利息が増益の最大原因と考えていたが、これだけとはいえない何か不審点が私の脳裡の片すみに残っていたのは事実である。

 あまり固苦しい数字のことばかり並べないで、ここらで読者各位にひと休みしていただく意味で、このイトマン決算をめぐる私にかかわるエピソードを紹介しておこう。

 イトマンでは毎年定時株主総会終了後の昼食時に、総会で選任された新任役員と現役の役員及び引退した元役員がイトマン近くのレストランの大ホールに参集し、新、旧、現、役員の懇談会が立食バイキング方式で開かれるのが定例となっていた。

 開会冒頭河村社長から「先輩各位のご努力によって築いてもらったイトマンの信用と、繊維、食糧、機械他を中心としたイトマンプロパーの商権が健在で順調に推移し、さらに新規部門も加わって、おかげで増益決算をすることができた。さらに来期以降利益の拡大に向って、役員以下全社員が全力を挙げて努力するのでご支援いただきたい」との趣旨の挨拶があるのが恒例となっていた。

 そしてこの直後と閉会前に元役員から夫夫御礼と現役並びに新任の役員に対する激励の挨拶が行われる慣例になっていた。

 実は平成二年六月二十九日のこの定例懇談会のしめくくりの挨拶に私が指名された。今までは私の世代からははるかに年長の先輩役員が順番に担当していたのだが、今回は若手の部類に入る私に指名がかかった。イトマン元会長が約二ヵ月弱前の五月四日に享年八十才で逝去されたのだが、私は昭和四十年台の前半に約三年半にわたり故人の秘書役を務め、故会長に仕えたことがあるのでお鉢が回ってきたものと思う。

 本来なれば故会長のお人柄を偲び懐古談やエピソードを話すべきだったと思うが、冒頭の元役員がすでにこのことを述べたので、私は急拠切り替えて概要次のような挨拶をして盛会裡に終了せんとする懇談会をしめくくった。

 「私の生家は親子二代にわたる洋反物商で、イトマンが主仕入先でした。(このことは冒頭のプロローグ第(1)項で詳述した)オヤジは熱烈なイトマンファンで展示会や新柄発表会を楽しみにしておりました。元社長伊藤良三氏(三代目)も南区の心斎橋筋の私の店へよく訪問されていました。

 前期の決算で一三八億円という驚異的な利益をあげられ、まことにご同慶の至りでOB達も大変喜んでおります。私のオヤジがこの決算を聞いたら(もちろん貨幣価値が根本的に異りますが)肝臓ガンで他界したのでありますが、びっくり仰天して今度はショックで心臓マヒを起してもう一度死ぬのではないかと思っております。ますますのご発展、ご隆盛を心から切望してやみません」

 この私のスピーチのあとをうけて、ナンバー2の副社長がマイクをとり、「来期は二〇〇億円の利益体制にむかって懸命の経営努力を続けていきたいのでよろしく」としめくくった。シャンシャンシャン、万万歳で全員の盛大な拍手のうちに閉会された。

 しかし副社長の言った二〇〇億円の利益。「ほんまかいなあ! できるんかいな!」と何かもうひとつ割りきれぬ、すっきりしない余韻を残しながら家路についた。この時の株主総会で伊藤寿永光と義兄のハワイ在住の米人が取締役に選任されているのだが、出席して紹介があったかどうか何故かはっきりした記憶はない。

 この年の十月に住銀会長磯田が突如辞任し、この頃からいわゆる事件のマスコミ報道が次第に活発、本格化し、これらの報道で、さらに大阪地検の冒陳を読み、イトマン三副社長の証言によって、イトマン決算の粉飾まがいの操作について知り、私の頭の片すみにあった「ほんまかいなあ!」という意識が今さらのごとく再認識され、あまりにも度を過したドレッシングに愕然とした。

 今にして思えばイトマン決算内容の詳細について承知していないとは言え、新旧役員の懇談会における私の上記のスピーチはあまりにも迎合的でよいしょ過ぎたと反省しきりだった。

 実は本項冒頭に掲載した過去七期分の決算、特に後半については、イトマン本体並びに直系のファイナンス会社からの不動産業界関係を中心とした融資案件関連での「企画料」「手数料」「融資斡旋料」等の名目での営業収入によって支えられていたのだ。しかも公認会計士からも再三再四にわたり指摘をうけていた過去の新規事業の失敗等による滞留不良債権の償却も相当額かかえていた。

 財・経担当副社長の法廷証言によれば系列ノンバンクの融資先から「企画料」の収入を得たが、宅地建物取引業者の免許をもっていないため、イトマン本体の方へ入金したものや、融資先から強引な交渉によって、「企画料」を計上したものの約束手形((注)先方の資金ぐりの関係から手形にせざるをえなかったものと思われる)で受取り、期日に決済できずにジャンプしたというような「綱渡り企画料」もあったようだ。これら企画料の収入について公認会計士から、手形ではなく現金で入金するよう、かつ企画料についてはイトマンサイドの役務提供の有無、その内容について厳重にチェックするよう指導をうけたようだ。(河村良彦ら公判、第四回、平成四年三月十三日)

 平成二年三月期の約一三八億円という──私の死んだオヤジがこの利益を聞いてびっくりし、もう一度ショック死をするのではないかと比喩した──驚異的な利益計上の実態についてイトマン副社長(財・経担当)の法廷証言を中心に解明したいと思う。(河村良彦ら公判 第二回、第四回、第六回、及び第七回)

 財・経担当の副社長は平成二年一月十二日、決算見通し、不良債権他の償却計画を早急に提出せよ、公表利益計画達成が大前提だが、可能な限り償却すべしとの河村指示を受けた。

 同月十九日、副社長は、利益計画の達成について懸念をもち非常に気にかけていた河村に対し、当期の要償却債権がイトマンアメリカ他で約七十億円、貸倒引当金の積増し約三十億円(貸付金残高が約一,五〇〇億円膨張のため)計約一〇〇億円が最低必要なので、約一〇〇億円もの巨額の利益が不足する旨報告した。河村は期末まであと二ヵ月しか残しておらず、わずか二ヵ月で一〇〇億円の利益の計上は伊藤寿永光プロジェクトに協力を求める以外にないと考え「伊藤とよく相談せよ」と窮余の一策を指示した。

 同月二十九日、大阪社長室での会議の席上、副社長は伊藤から「こんど一〇〇億円いれるからな」と耳うちされた。副社長は言いにくかったのかも知れないが伊藤とは未協議だったので、河村自身が伊藤に直接頼んだのだなと理解した。

 しかし、ここで付記しておかねばならないが、第九章(4)項で詳しく述べたが、実は前年十二月の年末ギリギリの時期に(伊藤寿永光の正式入社前)はこのことを予期し伊藤プロジェクトの窓口を命じられていた名古屋支店長に対し、翌平成二年三月末までに一〇〇億円の企画料を伊藤からもらうよう指示していたのだ。

 融資斡旋手数料は三%〜四%程度、銀座土地、名古屋高岳町土地、関・瑞浪ゴルフ場他の案件に対する融資に関連して、「企画料」「経営相談料」「融資斡旋手数料」等の名目でイトマン本体へ期末ギリギリに合計八十三億九,四五〇万円が伊藤側から入金され、河村の意図した目的は達せられた。ちなみに平成二年三月期の公表経常利益は一三七.六億円だった。

 平成二年三月度(単月)だけで、年間の「営業収益」の約1/2が、営業外収益「雑収入」の約七〇%以上が計上されている。あまりも異常すぎる経営内容である。月次の決算の累計は大赤字なのだが、期末の一ヵ月で、野球の満塁逆転サヨナラホームランではないが、一拠に黒字に転換するという構図だった。

 また河村からは二月中旬の期間利益の打ち合せ会の席上、伊藤の平安閣プロジェクトに対し一,八〇〇億円〜二,〇〇〇億円を融資するので、伊藤は相当の利益を入れてくれるであろうし、融資先の不動産業者大平産業(後日会社整理を実施)の土地は相当の含み益をもっているので、年間の利益三〇〇億円〜五〇〇億円も決して不可能ではないという「夢のような」話も出たようだ。

 ますます強気になった河村は、三月期決算の締めも終了した五月に入ってから、翌平成三年三月期の営業(利益)計画発表の時期が到来したが「二〇〇億円はいけるぞ!! 確たる材料がある」と、彼の育ってきた住銀の「収益至上主義」をさらに超越して、「利益、利益」という魔物にとりつかれた我利我利亡者と化していた。三副社長がなんとかブレーキをかけうる代物ではなくなっていた。

 なお、同年九月の半期中間決算時には、許永中関連の鹿児島のさつま観光関連融資に伴う先取り企画料(イトマンからはこれに見合う具体的な役務の提供は全くなし)三十億円以外に、伊藤側からは七十五億五千万円が前期同様の趣旨でイトマンに入金されている。一〇〇億を越える営業収益だった。しかもさつま観光へのゴルフ場開発の融資金は、許永中の野田産業株の購入資金に流用されている。前述したがイトマン社内におけるゴルフ場開発資金だという稟議は全く名目にすぎなかった。

 さらに注目すべきというか、驚くべき事実があるので是非書き加えておかねばならない。

 それは、イトマンでは昭和五十九年から系列のノンバンクを通じて前出の大平産業に地上げ資金を融資していたが、河村は伊藤寿永光を知ってから(平成二年一月ころから)すべてを伊藤に任せ、ノンバンクは手を引かせてしまった。この際伊藤は河村に対し、イトマンから大平産業への融資については、レイ又はピュア(伊藤のダミー会社、代表者は伊藤寿永光の実兄泰治がなっていた)を経由したいとして河村の了承を得た。伊藤の思惑通り、大平産業との間で「利ざや」を稼ぐことができるようになった。と同時にイトマンへ献上する「企画料」を上のせして融資してもらい、流用することを企図した。イトマンサイドでは窓口の名古屋支店長はこれを了承し、上のせ分はゴルフ場の会員権の買い取り資金としてイトマンが負担する分で相殺することで合意した。

 かくして同年九月までの間に、大平産業に融資すべき資金として、イトマンから主としてレイに対し約一、四〇〇億もの巨額の融資が実行され、そのうちの二〇〇億円を上回る資金が伊藤の資金繰り等に流用された。そして伊藤からは二〇〇億円がイトマンの平成二年三月期及び同九月中間期の決算対策として入金された。

 この件についてはイトマン財・経本部長及び伊藤の不動産開発資金を担当する新設本部の副本部長(伊藤の紹介によりイトマンへ入社した設計事務所の代表者)からも、副社長の許へ伊藤の流用について報告されていた。河村社長に報告せねば……と思いながらも、副社長は河村の逆鱗に触れ「はじき飛ばされる」(副社長の証言そのままのセリフ)ことを恐れ、副本部長が代行して、二十億円〜三十億円ぐらいの流用と金額を意図して落して報告した。ところが河村の口からは「飲み込んだよ」との意外な答えが返ってきて、彼は聞き流した。本件流用は名古屋支店長から内々相談をうけていたのであろうか、河村は事前に承知していたのだという印象をうけた。

 経済用語に「蛸配当」という言葉がある。言うまでもなく蛸が自分の足を食うといわれるように、自分の財産を食いつぶすという意である。最初に「企画料」ありきだった。

 遠大な利益計画は河村のトップダウン方式で有無を言わせずに示達されたことは前述したが、この一連の「営業収益」計上工作もすべてが河村の指示にもとづくものである。シナリオも主演も河村良彦自身による自作自演だった。

 天に向って唾するというか、迂回融資資金の還流というまさに河村の演じた自殺行為だった。

 超ワンマンとはいえ一経営者の無暴極まる前記例にみられるような乱脈経営と、河村をとりまくふがい無い首脳、経営陣によって会社というものはかくも無残に自滅していくものかということを教訓として残してくれた。

 「戦後最大の経済事件」と定義づけられた所以の一つもここにある。 嗚呼!!


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