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第十二章 河村良彦、十億円を業務上横領す
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(1)(株)立川(東京・繊維問屋)の経営権譲渡の密約
「東京の立川株式会社をめぐる株買占め攻防中の平成元年十月ころに、立川の代表取締役会長を兼務していたイトマン前社長河村良彦が攻防の相手先のアイチから十億円を受取る。大阪地検特捜部も立川、アイチ両社を捜索、解明にのり出す」
これはイトマンOBにとっては、まさに驚倒するような毎日新聞の平成三年七月二日付のスッパ抜きのスクープ記事だった。河村逮捕の二十日前で関係者が緊迫していた時期であった。
さらにこの記事は「河村は知人に『平成三年末までにアイチとの間で株問題を決着させるための手付金だ』と説明しただけだったが、別の関係者によれば、『アイチとの間のイトマン保有の立川株売却の密約が成立した謝礼だった』ともらしていた」とつけ加えていた。
さらに、朝日新聞がこれに追い討ちをかけ、翌翌四日付の夕刊で、
「大阪地検特捜部は三日までに、河村前社長が親族の不動産会社社長に預けた黒い大きなバッグ(中身は現金の帯封の山、十億円分、ただし現金はなし)をこの社長から任意提出させた。河村氏が平成元年秋、繊維商社「立川」の株買い占めをめぐり、東京の金融業者「アイチ」と個人的に契約を結んで受取ったものだったことがわかった」と報じ、約二年近く前の十億円の現金運搬のバッグと帯封が残っていたことを生々しく伝えた。検察側としては立証のための貴重な物的証拠となるものと思われる。
さらに朝日は同月十一日付朝刊と夕刊で「アイチとの密約の十億円、河村氏側が株運用に充当。業務上横領容疑などに当る可能性があるとみて、大阪地検特捜部も重大な関心を示している」
「『会社に入金すると経理上の処理で意見が分かれて面倒なので、ひとまず個人で責任をもって運用した方がいいと思った。個人的な流用はない』と周辺にもらしている」
と詳細な経緯について夫々報道した。
河村の経理処理上の弁明については全く理解に苦しむものだった。これら一連のマスコミ報道については、商売とはいえその正確さに今さらのごとく恐れ入る。検察の冒陳の内容と大筋では違っていない。その取材能力には心から敬服する。不可能なことではあるがそのニュース・ソースを是非とも知りたいものと思う。
さて、長年にわたる取引先であり、昭和五十五年からは筆頭株主となり、昭和六十二年には自ら代表取締役会長に就任した立川を、こともあろうに街金融の帝王という異名をとるアイチへ売却する“密約”が成立し、現金十億円というサラリーマン社長としては一生かかっても手にすることのできない巨額の謝礼を受取ったというスクープ記事には、驚愕し、衝撃波が全身を突っ走ったような感じだった。
平成二年後半からイトマンの不動産の過大投融資が表面化し、伊藤寿永光なる人物のイトマン入社、絵画疑惑だ、やれゴルフ場への不正融資による背任行為等々、連日にわたるマスコミ報道にいら立つ毎日だったが、詳しいことは新聞報道ではわからないとしても、河村が暴走経営に加えて全く次元の異るこんな倫理観も麻痺した一部上場企業の社長としては破廉恥な行為までも……。願わくば誤報であってほしいと願うのが実感だった。
しかし一ヵ月余後の八月十三日に大阪地検は河村を逮捕容疑の商法違反の罪に加え、業務上横領罪で追起訴したので現実のものになった。
ただしこの横領罪については、法廷での検察側の「総論の立証」段階ではまだ本格的な対象になっていない。いずれ、河村単独の容疑なので個別に審理されるものと思われる。従ってまだ検察側の証人も出廷していない。
ただしここでは検察側の冒陳及び一部の法廷証言を中心にして、俗な表現をあえてするが河村の十億円の「猫ばば」事件について以下その概要をまとめることにしたい。
(株)立川(東京都中央区)は、明治三十九年、東京・日本橋旅籠町で綿布卸売業を開始したのが草創の老舗で、昭和二十二年に設立。婦人子供服地、洋装製品、寝装製品の卸売りの東証二部上場企業である。資本金は二十七億円、年商約七十億円、従業員は約一二〇名、本社敷地は約一八〇坪、時価評価約一六〇億円という規模であった。(数字はすべて当時)
さて、昭和五十五年仕手グループの黒沢楽器店によって、一六〇万株(持株比率一六%)を買い占められ、立川のメインバンクの住銀人形町(東京)支店長の斡旋によって(ここでも住銀が登場してくる)イトマンが黒沢楽器店保有株を買い戻し、業務提携関係を結んだ。同五十六年には河村イトマン社長が非常勤取締役に就任すると同時に、イトマンから部長クラス(営業担当)、住銀よりも一名(経理担当)を夫々派遣し常務取締役に就任した。かくしてイトマンは経営権を実質的に把握し、立川を傘下に収めた。さらに先に述べたように昭和六十二年六月には河村が代表取締役会長に就任し、最高権力者となった。
一方、(株)アイチの会長森下安道は立川の土地の含み資産に注目し、昭和六十年二月ころから立川株の買い付けをはじめ、同六十二年五月までに三一〇万株を取得し、一躍筆頭株主に踊り出て、さらに買い進み、同六十三年六月には三七四万株(持株比率三七%)に達した。しかしイトマン側は関連企業を含むグループ全体の持株は五八%に達していたので、アイチ側の目立った動きは特になく平穏裡に推移していた。
ところが悪いことに四代目の社長立川昭典(創業者一族、同四十九年から社長)が平成元年に急死してしまった。故人の持株一,六四五千株をめぐってイトマン、アイチの両社間ではげしい攻防戦が始ったのだが、遺族は葬儀の席上での会長河村の高飛車な態度(どういう態度を見せたのかでき得る限り調査してみたが不詳)に反発を示し、交渉は極めて難航したという。(朝日新聞社刊「深層」)
かくするうちに、アイチは立川の遺族の親戚から、イトマンサイドからの説得も空しく、保有株買取りの要請を受けた。アイチの会長森下は知人の(株)地産の会長竹井博友に依頼し、イトマンの提示価格をはるかに上回る総額二十四億円余で平成元年八月に取得させた。名義は地産の関係会社信楽ファイナンスとした。なお地産の会長竹井は巨額の脱税容疑で起訴され、実刑判決(懲役四年、罰金五億円)をうけ本人は控訴せずに収監され高令にもかかわらず服役中の身である。
この結果アイチの保有株はその持株比率が五三%に達し、遂にその過半数を制するに至った。
河村はアイチの立川乗っとりに対抗するには第三者割当増資を断行して、イトマングループに割当ててアイチ側の持ち株比率を過半数以下に抑え込む以外にないと決断し、極秘裡にその準備を進め、新株式発行数は四〇〇万株、発行価格一,一〇〇円、払込期日は同年十月二十七日として、同月四日に幹事証券会社の山一証券あてに新株式発行申込書を提出した。
一方河村は、副社長(財・経担当)と専務(審査・法務担当)に対し「住銀、第一勧銀他が保有する立川株を千円くらいでイトマンで早急に引取れ」と指示をだした。
指示をうけた専務は当時の模様について、次のような経緯を法廷で証言した。
「立川株がアイチに買い占められているので、いずれアイチとドロドロした一戦を交えねばならないと思う。住銀が株主であり、かつ主力融資銀行であっては銀行も困るであろう。迷惑をかけないようにしておきたい」との河村の意向をうけて、立川株の譲り渡しについての交渉は自分の職責から言っても当然のことだと考えて担当した。後日になって立川の顧問弁護士から「臨時株主総会の開催をアイチが督促しているので……」との電話連絡があった。しかし電話連絡の趣旨がよくわからなかったので河村社長に問いただしに行ったところ、「そんなことあるか」と言下に一蹴されてしまった。しかし河村は私に対する指示とは全く逆のことを言っていたし、イトマンに加えて住銀保有株をアイチへ売り渡すという三者密約の存在を後日聞いて、まさにビックリ仰天、がく然とした。(河村良彦ら公判、第十七回、平成四年十月六日)
イトマン元副社長も河村から同様の指示を受けた旨証言した。(河村良彦ら公判、第二回、同三年一月二十八日)
審査・法務担当の専務は住銀OBであって、住銀系の日本綜合信用の副社長を経て、昭和六十年十一月にイトマンへ入社、与信案件の審査及び法務部門の最高責任者を平成二年九月に河村に解任されるまで担当した。
表裏二面性を巧みに使いわける河村はその本領をこの場面でいかんなく発揮して、表向きはイトマンの立川防衛策として第三者割当増資を打ち出しながら、一方得意とする水面下では平成元年十月上旬ころ、アイチの会長森下安道とも親しい伊藤寿永光を使って、森下に接触させた。そしてイトマン及び住銀の保有する立川株式二五〇万株を単価二,〇〇〇円、計五十億円くらいで買取るのであれば、アイチに立川の経営権を引き渡しても良いとの意向を伝えさせた。森下は買収価格が多少高いものについても、立川の経営権を完全に手に入れ、アイチの傘下に入れた方が得策なりと決断して、河村提案を了承した。
第九章で詳述したように、伊藤寿永光が住銀栄町支店長の紹介によりイトマン名古屋支店長に引き合わされたのが同年六月初めであり、河村との初顔合せは八月三日だった。これからわずか二ヵ月後にこのような重要案件の交渉を伊藤に担当させたことになる。このような際どい強腕を要する難交渉を街金融の帝王相手にこなせる人材が、イトマンにはいなかったのであろうか。
ところが河村はさらに悪知恵を働かせ、つめを研いで、計画中の第三者割当増資の新株四〇〇万株についても、アイチへさらに買い取らせることをたくらんだ。
同年十月十一日立川の取締役会において第三者割当増資案が承認された。新株発行数は四〇〇万株、単価一,一〇〇円、割当先はイトマンほかイトマングループ二十七社とするという内容だった。二十七社のグループ企業社長はいや応なしに新株の引き受けを承知させられた。いわば強制割当だった。
ところで河村は取締役会終了後、直ちにアイチの森下会長に緊急電話を入れた。
「モシモシ、森下さん。立川の第三者割当増資を決めましたが、一切ご心配はいりません。立川の株は間違いなく御社へ譲ることを確約します。第三者割当分を含めて全部買い取っていただきたいと思っておりますので、よろしく」
受話器を置いた河村は早速伊藤寿永光へ連絡をとり、再度森下と面談のうえ再提案するよう指示した。その内容は、イトマン・住銀・第一勧銀・住友生命及び東京海上火災の保有株合計三一二万株プラス増資新株四〇〇万株の総計七一二万株を一株当りの平均単価一,六四五円で譲渡する旨の再提案であった。
この提案をうけた森下は、この平均単価は当時の前後数日間の引値二,〇〇〇円をやや下まわるが、引渡時までにはほぼ上記金額は見込まれると判断して、第二次河村提案を了承した。そこで、三一二万株は平成二年九月末日に、四〇〇万株については増資新株につき二年間は譲渡が禁止されているため、引渡し時期を平成三年十二月十日とすることに双方合意に達した。
ここらで森下会長の率いるアイチのことは触れておかねばならない。森下には「闇金融の帝王」または「マムシのアイチ」という別名が冠せられている通り(歳川隆雄『森下安道のあくなき野望』月刊Asahi平成二年八月号)大がかりな仕手戦や企業倒産にからんで、心ず水面下の関わりがささやかれてきた知る人ぞ知る「街金融」業界の大物だった。その傘下には「ナフコファイナンス、ファクタリングアイチ」をかかえ、運用資産五,四〇〇億円を上回る大手金融業者である。さらに最近では美術商「アスカ」をベースに年間数百億円の名画を買いあさり、前述した通り世界的に有名な美術競売会社クリスティーズの株式七.三%を買い取ったりしている。
イトマン河村にも絵画取引を推奨したようだ。
河村は業界の帝王森下安道を相手に立川株をイトマンの簿価に五十億円をも上乗して譲渡、売り渡す密約を結んだのだ。平均単価一,六四五円は譲渡総額から逆算した単価である。
公表した経営利益達成のためには、住銀時代から体に染みついた利益至上主義、河村イズムのなりふりかまわぬ手法だった。本章(三)項で述べるが、まさに繊維業界に対する裏切り行為そのものであった。
先に「マムシのアイチ」「闇金融の帝王」などと、森下会長の別名を月刊Asahiから引用して紹介したが、実は、「週刊文春」が平成元年十一月九日号で「闇金融の帝王森下アイチ社長(当時)の人品骨柄」のタイトルの記事の中で、上記の二別名を使用したのは名誉毀損に当るとしてアイチ側から一千万円の損害賠償と謝罪広告の掲載を要求して起訴されていたが、平成四年七月二十七日一〇〇万円の支払いを命ずる判決があった。文春サイドのその後の対処については不明であるが、このことを書き添えておきたい。
(2)「現ナマ」十億円の運搬と個人的費消
伊藤寿永光は前項で書いたイトマン、アイチ両社の合意事項の履行確認のため、河村に対し「切りのいいところで十億円の手付け金を入れるよう森下会長に話をしておきます」旨申し出たところ、河村は「イトマンの取締役会にはまだ諮っていないので、手付け金をイトマンへそのまま入金するのは難しいな。“イトマンの社長”として自分が預っておく」と受領を了承したうえ、十億円については訳ありの「現ナマ」にするよう要望した。
検察側の冒陳では上のように伊藤寿永光からの申し出となっているが、あるいは河村と伊藤寿永光との間の事前の了解事項だったかも知れない。
ところで、伊藤寿永光から手付金の要請を受けた森下は、十億円の支払いには難色を示したので、五億円を現金とすることを条件に両者が了承した。森下は付け加えて立川株の受渡しが予定通り終ったら、伊藤寿永光に仲介手数料としてアイチ所有の「モネの絵画」(画題及び時価不詳)を進呈することを約束したという。伊藤寿永光は河村に約束した十億円との差額五億円はとりあえず自分の「協和」で負担したうえで、河村との約束は実行する腹づもりをした。河村はこの段階で、決定的な弱みを伊藤寿永光に握られたことになる。
かくして『立川の経営及び株主総会運営に関する大株主間の秘密協定書』が作成され、平成二年十月十三日の夜、大阪ミナミの例の料亭「たに川」において、河村、伊藤寿永光及び森下が一堂に会して、上記協定書に個人の住所、並びに肩書きのない個人名で署名、調印した。
この個人資格による署名の意図は私には不可解だし、法律上の問題点についての専門知識は乏しいが、このような協定内容の調印並びにその履行は、三者が夫々の会社の代表取締役の立場でなければ不可能なことであるはずだと思う。いずれ法廷でも議論されるであろう。
なお、この「たに川」での会食は河村が設営した。その費用は河村がイトマンの交際費で負担し、簡単な会食で終了し、三名で約七万円程度だったようだ。河村には後に述べる重要な次の予定が待っていたので、早く切りあげたのであろう。
通常であればこのような重要な協定書の調印には副社長あるいは担当の専務クラスの幹部が立ち会うはずであるが、河村ひとりが決定した秘密協定だったので立会人は全然いなかった。
さていよいよ現ナマ十億円の運搬、受領の文字通り生生しい核心について触れたいと思う。
その前に私は約二十年も以前のことになるが、ある生生しい犯罪につながった現金運搬のシーンを思い出す。それは昭和四十八年夏から翌年春にかけ元首相故田中角栄のロッキード事件の例の五億円の商社丸紅を通じての贈賄についてである。この現ナマが四回にわけて、段ボールに入れられて東京英国大使館裏で積み替えられたりして、目白の田中御殿の奥座敷へ運び込まれた。この時の角栄の「よっしゃ、よっしゃ」の名セリフがこの年の流行語になった。テレビの特番ニュースは、運搬順路通りに実際に車を走らせ、運搬状況をこと細く再現していたシーンを思い出す。
ところでいよいよ本論に入るが、河村良彦の十億円は二回にわけられて、河村の隠れ家ともいうべき大阪市内のマンションに搬入された。さらに詳しく描写すると、まずアイチ会長森下からの五億円は早速上に述べた秘密協定調印当日の十月十三日、アイチ大阪支店長は福徳銀行大阪支店の預金口座から現金五億円を引出した。これをショッピング用の紙袋五個(一個当り一億円が入るようだ)に詰め込み、調印のため来阪し大阪支店へ立ち寄った会長森下に同道し、女性秘書とともに伊藤寿永光指定の大阪駅前のホテル「大阪ヒルトンインターナショナル」の予約済の客室へ持ち込んだ。
森下は当夜の宿泊予約先の大阪城近くのホテルニューオオタニで休憩後、午後六時に秘密協定書に調印のため「たに川」へ赴いた。
一方、河村は協定調印並びに会食終了後直ぐに森下、伊藤寿永光と別れ、はやる心を抑えながら直ちに受渡場所のホテルへ直行し、同ホテル前で待たせていた甥とともに、アイチ大阪支店長の待つ客室でショッピング紙袋五個を受取り、甥が運転してきた車で市内天王寺区上本町六丁目のマンションの四階の個室へ秘かに運び込んだ。河村は甥とともに一千万円の束、五十束を心なしか小刻みに震えたであろう手で再度確認し、同室内の押入れの奥深く隠匿した。
河村は甥に対して「この金を株で君か他人名義で運用してくれ。そして名義書き換えをして配当金を受取るように」と指示して二人は別れた。
片や伊藤寿永光は差額の五億円を取りあえず負担することとしたが、同年十月十一日アイチから自分の「協和」の運転資金十九億五,〇〇〇万円(差し入れ担保関係は不祥)を借り入れ、同月十七日、そのうちの五億円をケービーエス開発(株)名義で大阪の住銀本店に開設した預金口座に送金した。伊藤寿永光から依頼をうけた同行本店営業第二部次長は、中央区の高速道路下の船場センタービルの問屋街で大型の布製黒のバッグ二個を購入した。来店した伊藤寿永光から五億円の小切手を受領、現金化のうえ、伊藤寿永光とともにバッグ二個に詰め込んだ。大型バッグなので一個に二億五,〇〇〇万円も入ったようだ。伊藤寿永光は堂島にある大阪ロイヤルホテルへと車を走らせた。
河村は前記の甥とホテル前で落ち合い、バッグ二個を伊藤寿永光の車から甥の車へ積みかえた。河村は甥に前回の五億円と同様に、天王寺のマンションへ運搬し格納するよう指示し、今回は甥に一任して自分は自宅(西宮市夙川)へ社用車で直行帰宅した。
なお、五億円といえばどの位の重量になるのか、興味深々たるものがあるので、私の許で調査してみた。一,〇〇〇万円で約一.二九kgなので五億円ともなれば約六五kgにも達する。二人若しくは一人での運搬は大変だったと想像できる。
ところで、この五億円二口の出金元の経理については、アイチ側では「協和」に対する仮払金の処理が正確になされており、伊藤寿永光からは五億円預りの覚書(十月十三日付)を徴収していた。
一方伊藤寿永光の「協和」では五億円のケー・ビー・エス開発への貸付け(同月十七日付)処理を、ケー・ビー・エス開発では小切手での仮払金の処理が夫々なされて、会社の正式の帳簿に計上されていた。私は新聞記事で本件を読んだ当初には、てっきりいわゆる「裏金」での授受とばかり思い込んでいたが、私の身勝手な思い違いであった。
さて、河村サイドは押入れに隠匿し、ひそかに着服し、さらに運用することにより利殖をも企図した。ある程度の運用益が生れれば、元本の十億円はイトマンへ入金する意図だったかも知れない。
河村はアイチから五億円受領の三日後の十月十六日には早速四千万円を投入し、アイチ会長森下が推奨したという東洋紡の買い付けを甥に指示したのを手始めに、翌年の二月一日までの間、株式、転換社債、ファンド等の運用を行い、合計八億八千三百九十四万七千七百二十四円をつぎ込んだ。その他個人的用途に十億円のほとんどを費消した。その詳細については別図をご覧いただきたい。
秘密協定書の三一二万株の受渡し時期の平成二年九月末日が近づいてきたが、当時立川の株価は一,〇四〇円まで下落し(協定価格は一,六四五円だった)当面回復の見込みなしとアイチの森下は判断していた。そこで五億円が手付け流れとなっても引取りを中止した方が得策だと考えるようになっていた。
他方河村の方は、住銀などが保有する立川株の買い取りが意のままに進まず、協定数の三一二万株に達しなかったので、当面受渡時期については先送りすることとした。
ところが、こんどは許永中が登場し、アイチ森下に対し平成二年十二月、立川株(五四六万株)の譲渡を申し入れてきた。双方話し合いの結果、同月十八日富国産業(オーナー許永中)との間で、単価一,六五〇円、手付金十億円、平成三年二月受渡期日で契約が成立した。ところが許永中側が例によってというか期日に決済をしなかったので、この契約は消滅し、受渡しは実現しなかった。
ところで河村は平成三年一月二十五日の解任後、後任の社長吉村昌一に本件協定の存在、並びに十億円の受領について、会社経営上の極めて重要な事項であるにもかかわらず、全く引継ぎをせずそのまま秘匿していた。
河村の約八億八,〇〇〇万円を源資とする株式運用については、源資をさらに増加させようとする彼のがめつい思惑とは大きく外れ、六億八,六七六万円に減少し、(平成三年三月二十二日現在)株式市場の暴落によって約二億円という巨額の損失が生ずるに至っていた。
河村は十億円の受領とその消費について社長の解任後、刑事責任を問われるのではないかという罪の意識と、源資の目減りの対応にさいなまれる日々を送っていたようだ。「株式を売却して資金化し、不足額約三億円を調達し、十億円としてイトマンに返却すべし」とのアドバイスをイトマンの顧問税理士他から受けていた。
全額耳を揃えての返却がベストであることは充分承知していたが、社長時代における個人的資産の形成が相当額あったにせよ、差額の資金調達に河村は奔走苦慮していた。窮余の一策として前記の顧問税理士に四億円という巨額の借入れを申し入れたが断られてしまった。当面の損失の穴埋め、返却資金だったのだろうが、他人の懐勘定はよくわからないが、よしんば借入れが当面実現したとしても、その返済計画はどのように立案計画していたのか、下種の勘繰りというか余計なことを考えてしまう。
資金の調達に行き詰った河村は、自分が運用して買い付けた株式の現物に、個人保有の日新製糖の株式六万株(時価七,二〇〇万円)を加えて、伊藤寿永光を介してアイチへ返却することを意図した。
そこで弁護士(現在も河村の公判の弁護を担当)に依頼して前に締結した協定の不存在の確認書を作成させ(平成三年三月十九日付)アイチの森下と協和の伊藤寿永光と夫夫調印したうえ、同月二十六日同弁護士を代理人としてアイチ大阪支店長に約七億三,〇〇〇万円分の株券を手渡した。
森下は受取った株式を時価評価のうえ、アイチが全部買取り、うち五億円をアイチが受取り、差額の約二億円余を協和のアイチに対する借入金の返済に充当した。これで表面上は一件落着することになったが、河村は伊藤寿永光に対して約二億七,〇〇〇万円程度の借金が残ったことになる。正式の契約書も作成せずに、ドンブリ勘定で許永中らと巨額の貸し借りをしていた伊藤寿永光にとっては、あるいはさしたる金額ではないかも知れないが、最終時期の報酬二,〇〇〇万円(年収)のサラリーマン社長だった河村にとっては、イトマン株取得のための銀行からの借入金五億円も未返済で、自宅が担保に入ったままだとの情報があるので、合算すれば、気の遠くなるような借財を抱えたことになる。
なお最後に次のことをつけ加えておきたい。
上記の「現ナマ」十億円を隠匿したマンションは、天王寺区の近鉄百貨店(上本町六丁目角)と近鉄劇場前の大通りを南へ三分〜四分ほど歩いて東へ折れたところにある。東側の空地は約七十台収容可能な大きな青空駐車場となっている。二分ほどさらに南へ行けば、住銀上本町支店が左手に見える。
このマンションはダークブラウン系のタイル張りの瀟洒な七階建の建物である。名づけて「パティオ上本町」といい、隠れ部屋はその四階だった。大阪地検の冒陳が明らかにしたところによれば、現金運搬を担当した河村の甥の名義で借り、河村が利用していたという。
このマンションの鍵を持つのは河村と甥、そして河村の愛人の三人だけだった。(朝日新聞社刊「深層」)
河村は社用ゴルフ、会食等の帰途この隠れ家へよく立ち寄っていたが、社用車はマンション前へ着けさせず、上本町六丁目のターミナルで降りていたという。人知れず気をつかっていたのであろう。
河村逮捕後、ある全国紙の事件取材班のキャップの取材に応じた際、別れ際私の耳許でキャップはこう囁いた。
「河村の“コレ”(小指を出して)はミナミの料亭『たに川』の女将でっせ」
この一言を聞いた私は思わず「ヒエーッ」と驚きの大きな声をあげてしまった。
(3)繊維業界に対する裏切り行為
イトマンの元会長故伊藤寛はその社長時代から平成二年五月の死去時まで、大阪織物卸商業組合及び日本織物卸商業組合連合会の理事長をはじめ、大阪商工会議所の繊維卸売部会の部会長等をつとめた。また、繊維卸業界に限らず大阪卸商連盟(大阪の各卸売業種別の組合の連合組織)の会長として夫々二十年近く業界の結束と発展のために尽力してきた。その業界をまとめる手腕と、敵をつくらない温厚な人柄は万人の認めるところであった。
いわばイトマンは繊維卸業界、大阪の卸業界全般におけるリーダー格であり、イトマンの伊藤寛といえば業界の重鎮であり、大阪船場の顔でもあった。
ところが、この前社長伊藤寛の全面的信頼と経営全般についての一任を得て、昭和五十年十二月に新社長に就任した河村良彦は、その十四年後に(株)立川を前述した「街金融の帝王」の異名をとり、「マムシ商法」との悪名の高いアイチへ売り渡す密約を締結した。加えて手付け金十億円を現ナマで受取り、個人的な用途に費消し着服するという破廉恥な行為を敢て実行した。その詳細については前項で縷縷述べた通りである。
相次ぐ新規事業の失敗や不良債権の発生にもとづく償却処理、公表利益計画の必達のための財源、利益を、立川株の譲渡益の五十億円にもとめたのか。これが河村が描いた唯ひとりだけの意図だったのか、あるいは勘繰ればアイチとの間で何らかのからみがあったのか、残念ながら部外者の私の立場からは詳かにすることはできない。
いずれにしても、利益のためならば、一部上場企業としての倫理とか商業道徳をもかなぐりすてて、庶二無二突っ走る河村哲学がもろに出た案件だと思うし、彼が薫陶をうけ育ってきた住銀イズムの影響も大であった。かの有名な住友家の家訓「浮利を追わず」はどこえ置き去られてしまったのであろうか。今回の住銀・イトマン事件の諸悪の根源はこの彼の哲学にありといっても過言ではないだろう。
まさに繊維業界に対する破廉恥な裏切り行為であった。株式市場の低迷、暴落等により幸いにも密約は実現しなかったが、仮に実現しておれば、イトマンは繊維卸業界のみならず、メーカー、小売段階を含む業界全般からきびしい批判、糾弾をうけ、業界の孤児となっていたであろうと思われる。会長伊藤寛が健在で引続き業界の要職についておれば、道義上の責任から恐らく全ての公職を辞任しなければならなかったと思われる。
また或る日突然、大株主、経営責任者がかわり、そのごも経営上のゴタゴタが続くであろう場面に遭遇する立川の幹部、社員、そしてOBらの心情を察する時、しかも売渡しがイトマンの手によってなされたのだという反感も含めて、私の現役時代に発生したことではないが、筆舌に尽くし難い心情にさいなまれる。実現しなくてホッとしたというのが偽らざる心境である。
さらに河村にとって十億円のイトマンへの未入金のままの秘匿、業務上横領は前にも述べたが、彼の以後のスタンディングを、彼の後ろめたさと相まって非常に脆弱なものにしていった。
住銀の頭取巽外夫(当時)は「この事実(十億円の横領のこと)を伊藤寿永光に握られていたのであれば、河村に対する十分な脅しになったと納得した」ともらしたという。また許永中も前述のアイチ所有の立川株の引き取り交渉時に、伊藤寿永光から河村の十億円授受を聞かされて承知していた模様。イトマンの絵画仕入価格をめぐるイトマン副社長との話し合いの場で立川株の密約についてにおわせたという。
また、地産グループの総帥竹井博友がアイチからの依頼によって、立川株一六五万株を買い受けたことは先に述べたが、河村が十億円を受け取ったことを知っていた可能性が高いようだ。(以上の巽談話、許永中、竹井博友の三件は朝日新聞社刊「深層」による)
いずれにしても河村は天に向かって唾し、自らの手で首を締める結果となった。これが後々尾を引くこととなり、あの鋭敏な河村にして公私にわたり目先の欲の皮が突っ張りすぎ、周辺から足許を見すかされることになった。
かつて例の「共和」(東京、鉄骨加工会社、倒産)事件で収賄罪で起訴された元北海道・沖縄開発庁長官が所属する自民党の宮沢派の長老元首相鈴木善幸に、大臣就任の謝礼金を贈ったことがある。この善幸さんは国会における参考人喚問で、野党議員の質問に答えて「善良な管理者の注意をもってお預りしていた。いずれお返えしするつもりだった」と証言し、当時話題になった迷(?)セリフを吐いたことがある。
河村は初公判の日の意見陳述で、立川株をめぐる協定は会社間で締結されたものではなく、個人間で結ばれたものである。また手付け金十億円も個人的に受け取り、株式に替えて保管していたものであり、流用の事実はない。すでに返金済である旨、上記の鈴木善幸さんと同じようなことを申し述べている。
いずれこの点は検察側と弁護団とではげしく争われるであろうが、株式運用で大巾の差損を出したが、残余金は個人的使途に費消してしまったのは、紛れもない事実である。
河村の後任社長芳村昌一は大阪地検の検事による事情聴取時に「上場企業の社長としてあるまじき、恥ずべき行為であり、社員は一様に憤りを感じた」と感想を述べたという。(朝日新聞社刊「深層」)また、法廷でも「ウラで秘密協定を結んだこと、そして立川株の売却行為自身が全くの裏切り行為である」と同じ趣旨の証言をしている。(河村良彦ら公判、第十二回、平成四年七月十四日)
本項の最後に敢て再度記しておきたい。
「河村の容疑事実は繊維業界に対する背信行為であり、許容することのできない破廉恥な裏切りだった」
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