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第十三章 嘘つき経営陣

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 (1)平気で嘘をつく経営者

 平気で人前であるいは新聞記者らに対し嘘をつくのは政治家だけだと思っていたら、最近では経済界にもこの悪弊が波及してきたようだ。昭和六十三年六月に例のリクルート事件が発覚した。江副社長から未公開株をおくられた政治家の多くは「秘書が……。秘書が……」と口走り、ある者は「妻の名義で、妻が勝手に」と、マスコミの取材攻勢に逃げまくった。

 時の大蔵大臣宮沢喜一(元首相)は、衆議院の予算委員会で野党の追求に対する答弁が猫の目のようにくるくる変化し、のちに流行語となった「ノーコメントといえばノーコメントです!」との迷セリフ(?)を吐き、遂に同年年末には辞任に追いやられる羽目となった。そして大蔵大臣を村山達雄にバトンタッチした。

 思えばいわゆる保守本流を歩んできたエリートと称せられる宮沢喜一ともあろう者が、まことに惜しむべき、情けない結末だった。

 平成四年八月二十二日付の朝日新聞は第一面に他社を出し抜いたスクープ記事を大きく掲載した。

 「『金丸信氏側に五億円』と供述──東京佐川急便の元社長」 というものだった。

 この時の朝日新聞の取材に対し、金丸信の秘書は「そんなことはあり得ない。記憶にないのではなくて、事実が全くないということだ。漫画のような話であり、勝手にシナリオを作っているだけだ」と臆面もなくこんなコメントを出していた。

 この五億円問題がひとつのきっかけとなって、巨額の脱税が発覚し、金丸信は逮捕されたのはまだ記憶に新らしいところである。孫がオジイちゃんに「政治家のオジサンは、嘘をついてもエンマさんに舌を抜かれないの? 何故?」と何度も聞いて、オジイちゃんは返答に窮したという笑い話がある。

 ところが、政界、永田町の村の中でまかり通っていた嘘が、財界にも横行してきた。最近では、例のゼネコン疑惑における大手建設会社の首脳陣の嘘が、もう翌日にはバレるというお粗末さ加減だった。

 ここで極端な例を一つだけ紹介しておこう。これまた読者各位の記憶に新らしいところだと思うのだが……。

 名実ともに日本の建設業界を代表してきたゼネコン最大手の鹿島の首脳の副社長が平成五年十月二十六日遂に前茨城県知事への二,〇〇〇万円の贈賄容疑で逮捕された。当日のマスコミは当日の夕刊、TVニュースで大々的に報道した。この副社長は逮捕当日の朝まで、何回にもわたる執ようなマスコミの取材に対し、

 「ヤミ献金、一切ない。天地神明に誓ってない。ないといえば絶対にない」 とヤミ献金などの疑惑を頭から否定していた。しかしこの強気の発言に反して逮捕後の取調べに対し、容疑事実はほぼ認めたようである。

 ここでゼネコン疑惑のことを書くのが本旨ではない。イントロダクションはこのくらいで止め、本論に入りたいと思う。

 住銀は平成五年四月二十八日の取締役会で、頭取巽外夫が代表取締役会長に就任し、後任の頭取に副頭取森川敏雄が昇格する人事を内定し、午後記者会見を行った。

 その席上頭取巽は記者からの質問に対し、注目すべき発言を行っている。翌日のマスコミはさして論評や解説を加えなかったが、私は重大発言としてリマークしたのだった。

 記者「磯田前会長、西副頭取が退任したとき、住銀はイトマン事件とは無関係とされ、イトマン事件との関係が明確ではなかったのでは……」

 巽「西君も磯田さんもイトマン事件でやめてもらった。イトマンとの関係は通常の銀行取引から若干はみ出した面があった。本人はどう言っているかわからないが、(無関係だと)銀行内ではだれも思っていない」

 元会長磯田自身、また頭取巽もいままで元会長の辞任は、青葉台支店(横浜市)を舞台にした出資法違反事件(平成二年発覚)の責任をとったものだと説明してきた。

 出資法違反事件とは住銀と密接な取引関係にあった仕手集団「光進」(代表者、小谷光浩)らに融資先をあっせんした(融資額約二二九億円)として住銀の元支店長が逮捕された事件であった。

 元会長磯田の辞任はイトマン事件によるものだとの風評が関係者、マスコミ間で定説になっていたが、住銀サイドが公式の場で、イトマン事件との関連と、辞任は頭取自身からの要請にもとづくものであったことを認めたのは始めてだった。

 ここで磯田一郎辞任時の記者会見のやりとりをいま一度再録してみよう。(平成二年十月七日)

 「昨夜、頭取に辞任を申し入れた。当行の元支店長の犯罪が起きた以上、経営トップがその責任を負うのは当然と考えた。巽頭取も(同時に)辞めたいといってきたが、今回は思いとどまってもらった。会長、頭取が一挙に辞めたのでは、銀行の経営に支障を生じかねない」

 日曜日にもかかわらず詰めかけた大勢の記者団からの、今回の辞任理由に住銀が深くかかわっているイトマンの経営問題を絡んでいないのかとの質問に対しては、

 「それは全く別のことだ。関係がない」 と直立不動のまま大きな体を小きざみにふるわせて気色ばみ強く否定した。

 メンツを重んじる磯田の真っ赤な嘘だった。当時翌日の新聞で磯田辞任の報を読んだが、この磯田のコメントは私の頭の中に鮮明に残っていた。

 この磯田発言は、約二年半後に巽頭取によって全面的に取り消され、磯田辞任の真相、裏話が明らかにされて、かつ、住銀・イトマン事件とのかかわり合い、経営責任の一端を公式の場で始めて認めたわけだ。

 磯田辞任時にその真相と、事件との関与について事実をありのまま公表できなかったのだといえばそれまでだが、天下の住銀の首脳陣の「限度を越えた真っ赤な嘘」はお粗末極まると言わねばなるまい。

 一方、イトマン側の首脳陣、特に河村良彦の性癖ともいうべき「嘘つき」について、住銀頭取巽外夫が関係者に話したという次の注目すべき証言がある。本店営業部次長時代の河村についてである。前述したが当時磯田が部長、巽が副部長であった。

 「友人が少なく、孤独な印象だった。確かに有能だったが、他人の言うことは聞かない頑固な性格で、自信過剰で扱いにくかった。誇りが高く、逆に言うと学歴コンプレックスの裏返しと感じられるところがあった。また平気で嘘をつくことがあり、当時の磯田部長にシャアシャアと嘘の報告をするのでびっくりすることがあった」(朝日新聞社刊「深層」)

 次にイトマンの社長になってからの代表的な嘘について触れておきたいと思う。  磯田一郎の突然の辞任の報は、河村にとってもまさに寝耳に水だった。そしてイトマンにおける河村体制が大きな「後ろ楯」を失ったこととなり、そのショックはよほど大きかったのだろう。マスコミからの会見要求にも応じず、副社長(人事・総務担当)を代りに出席させ、自分自身は雲がくれ、懸命に取材しようとするマスコミにもその所在は不明でつかめなかった。

 「主役不在」の副社長会見に満足しないマスコミからの要求に抗し切れず、河村は磯田辞意表明から四日後の十月十一日の午後に、イトマンの過剰な不動産投融資がマスコミの話題になってから初めて、記者団の前に、二副社長を従えて姿を現わした。

 「今日は時間無制限で社長としての基本方針を説明したい」として二時間半にわたり、文字通り河村独演会を演じた。

 さきの副社長の代理会見では八,五〇〇億円にも及ぶ不動産投融資のうち三,五〇〇億円を年度内に圧縮すると言明、「信用不安、経営危機を否定、社長は引退など全く考えていない」と答えていた。

 河村はこの日の独演会見で、さらに平成三年度上半期中に同額の三,五〇〇億円を削減、合計七,三四二億円を圧縮するという大巾かつ楽観的な計画を発表した。副社長の公式会見後三日にして、削減額がなんと倍増し、金融機関、不動産業界などから、「上場企業として信用できる数字ではない」と疑問と不信の声があがる仕末となり、かえって逆効果となってしまった。バブル崩壊、不動産業界不振の中にあって年間七,〇〇〇億円の投融資の削減はだれが考えても実現できる数字ではなかった。社長は平気で嘘の計画を公表した。伊藤忠商事は第一次オイルショック時の二,〇〇〇億円にのぼる保有不動産の処分に十年の歳月を要し、五〇〇億円の売却損を出したという例がある。

 次に河村は東京・南青山での東京本社ビル建設計画について「未買収の土地については完全に見通しがついたので設計に入った。来年(平成三年)九月に着工し、工期二年ほどで完成させる」と大きく胸を張った。

 またファイナンス事業については「平成元年末に高金利時代の到来を予想していたので貸し金を減らした」と言明した。

 例の「街金」に出まわった手形のコピーに関連しての絵画取引に記者団の質問が集中したが、「私の海外出張中に名古屋支店長の専務の責任で取引した。社長は決済していない。短期の投資であって、一流百貨店が引きとることが決まっていて、鑑定書があるものに限定するように言ってある」と答え、責任者は名古屋支店長だと部下を名指し責任を転嫁した。自分の決済は否定し、腹心の部下に責任を押しつけるという無責任ぶりだった。

 このような強気の河村発言にもかかわらず現実には、

(一)、南青山の土地の買収は、この時すでに完全に暗礁に乗りあげていた。
(二)、平成元年末から伊藤寿永光や許永中グループ企業に多額の資金が流出し始めていた。
(三)、絵画取引のような新規事業は、専務といえども決済権があるはずがなく、事前に社長の決済をとっていたはずである。絵画につけられていた鑑定書は全くの偽ものだった。ところが名古屋支店長ひとりに責任が覆いかぶせられた。

 まさに「真っ赤な嘘」で固められた河村記者会見だった。しかもこの強気の会見がマスコミに不信感をますます募らせることとなり、さらにイトマンのかかえる各種の問題点、ウイークポイントに対する突っ込んだ取材に向けて彼らを走らさせるという逆効果現象となった。

 朝日新聞社会部記者はこの会見を、

 「上場企業のトップとは思えないほど多くの嘘を並べた会見だった」と表現した。

 また河村は同年十一月十九日、中間決算発表の席上で「私は嘘つきではありません」との名セリフを吐き、マスコミの話題になっている。

 加えて、河村解任後の新社長芳村昌一は意識的に「自力再建路線」「再建の第一次ステージはほゞ終了、これから第二のステージに向って……」と内外に自信ありげに表明してきた。しかし自力再建は一年半にしてガラガラ音をたてて崩壊してしまった。株主、取引先、社員、そしてOB達に嘘をついていたことになる。

 彼は当時の状況からこう言わざるをえなかったのだ、或いは結果論だと反論するであろうが、一世一代の嘘をついたことになる。このことは第十七章(1)で詳しく述べているので、ここでは重複をさけ省略することとしたい。

 以上述べてきた住銀ならびにイトマンの各首脳陣は、当時のむつかしい客観状勢、あるいは若干の背景の違いがあり、また真実を公表できなかったことを容認するとしても、まさに許容限度を越えた嘘で固められていた。

 このような嘘が大手を振って、政界から財界にも波及しまかり通る時代になってしまったのはまことに悲しむべき情けない現象である。
  
 (2)イトマン元会長社葬の日の河村の経済講演

 イトマンの会長伊藤寛は、平成二年五月四日早朝八十才の天寿をまっとうし逝去した。兵庫県西宮市の山手会館で六日に通夜が、七日に密葬がおこなわれ、社葬は翌月の五日大阪市内のイトマンの近くの東本願寺難波別院(南御堂)にて、社長河村が葬儀委員長となりしめやかに執り行われた。

 故人は前章(3)でも述べたが、日本織物中央卸商業組合連合会、大阪織物卸商業組合の各理事長及び大阪卸商連盟会長の他大阪の各種団体の幹部役職を永年にわたりつとめ、いわば大阪船場、繊維業界の顔だった。業界発展のための功績が認められ、昭和四十一年には藍綬褒賞を、同五十五年には勲三等瑞宝章を夫夫受章し、逝去後には正五位銀杯を下賜された。

 故人は平成元年初冬のころから体調をくずし療養中だったので、イトマンの不動産過大投融資、事件の主役伊藤寿永光の入社はもとより、百十年の“のれん”の消滅についても耳にせず、バトンタッチした河村良彦を今際のきわまで全幅的に信頼しつつ他界した。私の現役時代秘書役として仕え、その後も何かにつけ薫陶、指導をうけ、顔を合わす度に私の家族の動静にまで気くばりのやさしい声をかけてもらって、故人の人間性に畏敬の念を常常いただいていた私としては、八高、京都大とボート部で鍛えた頑健な健康体だったし、九十才位までは存命していただきたかったのだが、今回の事件を知らずに他界されたことは不幸中の幸であり、せめてもの慰めだった。

 さて社葬時には、葬儀委員長河村の弔詞のあと大阪商工会議所会頭(佐治サントリー(株)会長)、住銀会長(磯田一郎)、及び日本織物中央卸商業組合連合会理事長(市田(株)市田社長)から夫夫弔詞を賜わった。

 社長河村は故会長のイトマンへ入社以来五十四年余の長きにわたる業績と、業界活動を通じて経済界に残した足跡を賛え、「私はイトマングループの全社員共共、貴方の遺影を仰ぎつつ、尊い貴方のご遺訓を心に刻み、今後とも社業に邁進する」と決意のほどを霊前に誓い、故人の冥福を祈った。

 当日列席した住銀会長磯田一郎は「伊藤会長の遺志を継ぎ、河村社長を中心としてイトマンを発展させてほしい」と弔詞を述べた。

 当時、一部のマスコミは河村に対し住銀から更迭の圧力がかかり、会長への棚上げ論も報じていた時期だったので、磯田会長のこの弔詞は会葬者の一部の方の耳目をひいたものと思われる。南御堂の本堂前の広場には、イトマンや繊維業界等の関係者などの焼香者の長蛇の列が一時は御堂筋の歩道にまで及び、会葬者は約二,三〇〇名に達した。

 私も故会長付の秘書をしていた元女子社員数名とともに焼香の列に加わり心から故人の冥福を祈ったが、焼香台にたどり着くまでに約二十分も要した程だった。

 伊藤会長の逝去によって空席となった会長職をめぐって、河村の打ったアクションは極めて早かった。会長の後任にはイトマンの三代目社長伊藤良三の次男で、昭和五十七年から系列の学生服メーカー滝本(大阪市)の社長をしていた創業家直系の伊藤直三をあてることを決定した。代表権をもたない非常勤の兼務の会長職だった。推測するに住銀サイドの、「社長河村の更迭、会長への棚上げ、住銀西副頭取の社長就任」のシナリオの実現を防止するための河村らしい作戦だったと思われる。現に、河村は会長磯田から伊藤会長逝去の約一ヵ月前の四月に前述の通りこの人事構想を聞いていた。この時は「イトマンの後継者は内部から昇格させる。副社長クラスは銀行から……」との意向を伝え拒否していたのだ。

 新会長に指名された伊藤直三が、昭和五十七年当時のイトマン専務から滝本の社長に転出した時には(イトマンの取締役は辞任)、イトマンの名実共にオーナーの地位に就くことを夢見ていた河村の伊藤家直系の人材の追い落し作戦だったと観測する関係者が多かったようだが、今回も運命の皮肉というか河村の一方的都合に基づく人事だったと思う。

 さて、故伊藤会長社葬の葬儀委員長という大役を無事に果した河村には、ホッとする間もなく、以前から予定されていた次のスケジュールが待っていた。それは流通業界の中小企業経営者を対象にした商業経営会議の講師という役割だった。

 本項の本論はこの河村講演の内容について記述することなので、ペンを進めることにしよう。

 つい先程まで葬儀委員長として会葬者にお礼の立礼をしていた河村は、社用車の中で喪服姿を平服に着替え、急拠息せき切って内本町の大阪商工会議所の会場へかけつけた。

 ある全国紙が毎年主催している「商業経営会議」で終日講演やパネルディスカッションが行われたのだが、河村は殿を受けもち「私の経営観」と題して三時四十分より約一時間にわたり熱弁をふるった。

 河村はイトマン社長に就任してまずどんな手を打ったか、次に十五年間の経営手法、最後に今何を考えているかについて話をすすめていった。イトマン再建の手法については、本稿でも第三章で述べたので省略するが、その要旨は次の通りである。

 「社長を引き受けた時のイトマンは、昭和五十年九月期の経常損失は六十六億円、在庫の赤字含みが一〇〇億円にも達していた。いわばガタガタの明日知れぬ最悪の経営状態にあった。(筆者注・当時の社長だった故人の社葬の葬儀委員長をつとめてきたばかりだった)

 しかし保有株、不動産等及び不良在庫を思い切って処分し、三年目には黒字転換、本年度(平成二年)の決算では経常利益は計画を上まわる一三七億六,〇〇〇万円を達成した。(筆者注・その内容の実態については企画料他の営業収入によって構成されていたことはすでに述べてきた)

 一人当りの生産性(売上高)は十五年間で約三倍にもなった。人手不足時代はまだ続くであろうから、生産性の向上が各企業にとっては真剣に考えねばならぬ重要命題である。

 私は十五年間、毎日朝八時から九時まで役員、部長会(通称朝会)を開き、かつ一週間に一度各部門の在庫状況を説明させてきた。高金利時代には、在庫と売掛金の増加が命とりとなる。不良在庫が滞留してくるとその整理のため悪循環に陥入り、社員の生気はなくなる。商品、資金の回転率の向上にむかって努力すべきである。

 次に、人件費を低く押さえて利益をあげたとしても企業として継続性に欠け、利益は課税対象となり法人税としてもっていかれてしまう。利益は従業員に貢献度に応じ公平に分配し、高収益、高賃金体制を構築することが必要だ。他社よりも高い人件費でそれだけ多く稼げばいいのだ。

 ただし私の場合年俸はその実額を公表すれば、皆さんが驚くぐらい低額に抑えている。よりハングリー精神を高揚させ、自分自身を引きしめるためである。大手企業が高い給与、充実した福利厚生施設等で、学生を引きつけているだけに、人件費を含む経費についてはいま一度見直してもらいたいと思う。

 私は現状否定、発想の変化を基本的理念とし、また社員にも繰返えし説いてきた。将来のビジョンを明確にすることの方が肝要だ。

 多品種、少量生産時代を迎え、何がどれだけ売れるか全く予測のつかない様相を呈してきた。販売時点情報管理システム(P・O・S)を中心とした戦略情報システムの構築を考える時期を迎えていると思う」

 講演日の平成二年六月五日といえば、巻末の「住銀・イトマン事件をめぐる主な動き」の六月までを一覧願いたいと思うが、事件の主役伊藤寿永光のイトマンへの入社、雅叙園観光の不可解な増資の引き受け、住銀巽頭取からの伊藤寿永光のイトマン退任要請、同磯田会長からの河村への退任要求、伊藤・許案件に対する融資実行、日本レース株の取得、内部告発文書の出まわり等が大手をふってイトマン内でまかり通っていた時期だった。

 いわば河村は住銀・イトマン事件という底なしの泥沼へ足を二歩、三歩とふみ入れ、湖岸へ引くに引けず湖底の奥深くズルズルと引き込まれていこうとしていたのだった。

 会場のホールいっぱいの中小企業経営者──中には熱心にメモをとる人達を前にして、自らの経営手法、その哲学を堂々と胸をはって一時間も講演できたものだと感心する。

 特に自分の年俸の件については、先にも書いたが、副社長クラスよりも低く抑えていたことは事実だが、前章の「業務上横領」を今いち度読み返えし、さらにお手盛りの報酬の三.五倍のアップ工作、関連会社社長からの盆・正月の現金のつけ届け等について思い出していただきたいと思う。講演の年俸の件は彼の得意とする独特のパーフォーマンスだった。

 これ以上の多言は要しないと思うし、ペンを走らせる意欲も萎えてきたのでペンを擱くこととしたい。

 嘘つき経営陣の章にわざわざ河村講演の一項をあえて設けた所以をご理解いただきたいと思う。

 しかも前社長(会長)──河村を心底信頼していた──の社葬の日のできごとだった。


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