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第十四章 マスメディアの報道合戦

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 (1)住銀・イトマン事件の発端

 過去の経済事件あるいは疑獄事件のほとんどは、ほんのちょっとした端緒から明るみに出て、大きく展開し関係者が逮捕される。そして刑事事件にまで発展するというケースが多かったように思う。

 イトマン事件についてもこの例外ではなかった。真相が判明するにつれ、住銀事件へと発展していったのだが、そのきっかけはほんの些細なことだった。本件に触れる前に元首相故田中角栄のかつての金脈問題による失脚、リクルート事件及び自民党一党支配の五十五年体制の崩壊のことについて少し触れておきたいと思う。

 まずは、昭和六十三年六月十八日の朝日新聞朝刊は社会面トップに
 「『リクルート』川崎市誘致時、
 助役が関連株取得、公開で売却益一億円、
 資金も会社の融資」
の見出しでスクープ記事を掲載した。

 川崎市が計画した「かわさきテクノピア地区」へ「リクルート」の進出が決った時期に、同市の企業誘致の責任者だった元助役が、リクルート側から関連会社のリクルートコスモスの株式を店頭登録前に入手した。株価が急上昇した登録直後の八月十一日に売却し、約一億円の利益を得たという他社を出し抜いたスクープ記事だった。

 「県警二課が川崎をやってるみたいなんだよ」という県警担当記者の一言がきっかけで、横浜・川崎の朝日新聞両支局の数名の駆け出し記者の手によるスクープだった。川崎市の一助役の収賄の記事が、当時はだれも予想しなかった政界、財界及び言論界へ波及し、事件は大スキャンダルに一気に発展した。そしていわゆるリクルートゲート事件と称されるまでに拡大した。

 しかもこの店頭登録前株式によるヌレ手でアワのうまい話は闇から闇へ……のはずだったが、思わぬほころびから明るみに出てしまったのだった。

 竹下登元首相の金庫番だった故青木伊平(自殺)は、朝日新聞記者のインタービューにため息をもらしてこう答えたという。

 「まさか、思わぬほころびからこんな話になるなんて夢にも思いませんでしたよ。株を買った時にはねえ……」 「思わぬほころび」とはこの朝日新聞のスクープ記事だった。

 なお、朝日新聞の一連のリクルート事件に関する報道は、日本ジャーナリスト会議賞を受賞している。

 次に、いま私の手許に月刊誌「文芸春秋」の昭和四十九年十一月特別号がある。書棚の片隅に大切に保管してあったものである。約二十年が経過し、背部はもちろん内側まで赤茶けてしまっている。この赤茶けた紙面に評論家立花隆の例の「田中角栄研究その金脈と人脈」と評論家故児玉隆也の「淋しき越山会の女王(佐藤昭女史)」が掲載されている。この立花隆のレポートは丸谷才一ほか編の「近代日本の百冊を選ぶ」の中に推せんされている。

 この二本のレポートは話題を呼び、その与えたインパクトは極めて大きかった。雑誌はすぐに売り切れ、東京神田の古本屋では一時五千円の高値がついたという。(当時の定価三五〇円)

 史上最長の佐藤栄作政権のあとをうけて、田中角栄内閣は昭和四十七年七月にスタートした。列島改造ブーム、日中国交回復を目玉商品として、内閣発足直後には六二%という歴代内閣の最初の支持率としては最高(朝日新聞調べ)の支持を得た田中政権も同四十九年十一月末にはひっ繰り返った。雑誌発売後二ヵ月弱だった。直接の動機はやはりこの立花レポートであり、田中角栄にとって外国人記者クラブでの会見時の金脈の追求がボディーブロとなりノックアウトされた。いち評論家のレポートが今太閤といわれた内閣を潰したことになる。立花隆もこのレポートを切っかけとして世の中へ出て、売れっ子の評論家となった。

 次に平成四年八月二十一日夜、例の佐川急便事件の取材にあたっていた朝日新聞司法クラブの取材班は、一本の原稿をデスク席へ送った。「『金丸信自民党副総裁に五億円』/東京佐川急便の渡辺広康元社長が東京地検特捜部に供述」

 早速社会部デスク、編集局次長らの手によってあらゆる角度からチェック、検討が加えられ、金丸サイドからの訴訟問題に備えて、顧問弁護士にも取材内容について相談する等の手段も講じ、翌二十二日午前一時すぎ、朝刊最終版のギリギリに第一面トップに組み込まれ、一大スクープ記事となった。

 第十三章(1)でも述べた通り、当日の紙面で「漫画のような話であり、勝手にシナリオを作っているだけだ。そんなことはあり得ない」と全面否定をしていた金丸副総裁側も、その五日後にはあっさり五億円の受領を認めた。罰金二十万円の略式命令を受けた金丸は国会議員をも辞職した。そのご翌平成五年三月には十億円の脱税容疑で逮捕、起訴された。

 この金丸信事件をひとつのきっかけにして、平成五年六月には自民党の最大派閥の経世会(竹下登派閥)は分裂し、羽田孜、小沢一郎らが新生党を結成した。同年七月の衆院選挙の結果、自民党は過半数割れとなり、当時の首相宮沢喜一は退任を表明し、政界再編成へと展開していった。

 七月末には新生党、社会党ら非自民八党が連立に合意、八月上旬には細川護煕内閣が発足し、約四十年に及ぶ「五十五年体制」の終焉へとつながっていった。細川新内閣は過去最高の七一%という支持率を示したが、自らのスキャンダルが主要因となり失脚してしまった。

 これらの朝日新聞の一連のスクープは、日本新聞協会「新聞協会賞」(編集・ニュース部門)を受賞した。

 「金丸五億円」で始まった「五十五年体制」の崩壊だった。
 いわばこの朝日新聞のスクープ記事が「時代を変えた」のだった。

 さて本論に入るが、平成二年一月二十三日の日経新聞夕刊の第二面に、

 「イトマングループ傘下に。雅叙園観光三月に第三者割り当て」の見出しで

 「雅叙園観光(経営不振に陥っている)の首脳は二十三日三月中にもイトマングループに対し約一千万株の第三者割当増資(増資資金約一五〇億円)を実施。実質傘下入りして再建を目指す方針を明らかにした」との記事を掲載した。しかしうっかりしておれば見落してしまうような三段二十二行の記事だった。

 同日の夕刻日経新聞経済部のベテラン記者がある興信所の幹部と取材を兼ねた雑談をしていた時のことである。

 「今日のおたくの夕刊見た? 例のイトマン、雅叙園観光がイトマンに第三者割り当て増資をして、宅地開発や貸しビルなどの不動産事業に進出するって書いてあるんだよね。どうも胡散臭い気がするんだ」

 興信所のベテラン幹部の独特の感が働いての発言だった。一方、日経記者にとっても最近のイトマンという会社はとにかく気になる存在だった。

 昭和六十年四月の石油の業転事件(業界間の仲間取引)以来、居酒屋チェーン「つぼ八」の経営権をめぐるトラブル、名古屋の不動産業者「慶屋」との経営上のトラブルや、ワンルーム・マンションの杉山商事の住銀からの要請にもとづく救済など、無謀強引ともいえる河村商法が相次ぎ、いずれ早晩つまずくだろうというのが大方の見方であったからである。

 興信所幹部と別れた日経記者は、早速イトマンの財務データーの調査、取材にとりかかった。住銀会長磯田一郎私邸への夜討ち取材も、相手が極度に警戒するのを避けながら慎重に進められていった。あわせ日経社内に「イトマン問題特別取材班」が編成された。

 これらの取材結果が、平成二年五月二十四日付日経新聞朝刊一面の、

 「イトマン、土地・債務圧縮急ぐ、住銀融資規制受け協力」

のスクープ記事につながっていった。イトマンの平成二年三月期決算発表日をねらっての記事でもあった。

 出勤前の早朝、自宅でこの日経記事に目を通したイトマンの社長河村良彦は激昂し、出社後直ちに担当副社長らに、南青山東京本社ビル建設計画書他の書類を用意させ、決算発表の席上記者団に配布するなど、猛烈に反発した。前述した通り東京本社ビルに関する資料は、実態とは大きく遊離した内容だった。しかも記事はこじつけで不動産投融資は過大でないと強弁、過剰ともいえる反応を示した。

 この河村の異常ともいえる反応はかえって逆効果となり、日経新聞以外のマスコミ業界は、日経記事をフォローすべく騒然となった。また、磯田会長はじめ住銀首脳陣を苛立たせる結果となった。

 日経新聞のイトマン取材班の調査・取材はその後も綿密に静かに進められ、同年九月十六日朝刊一面に、イトマングループの六月末の資産・負債の内容を、「不動産業などへの貸付金一兆円を超す」との見出しでスクープ記事を掲載した。

 報告によると不動産、有価証券関連の投融資額は一兆三千五百億円に達したと報じ、具体的に旧杉山商事(ワンルームマンション)、南青山の土地、伊勢奥志摩の土地、大平産業・大正不動産・大和地所他大口先への貸し付け等について夫夫細い数字をあげて報道した。日経新聞独自の取材ではとうてい把握することが困難な上のような内容だった。

 河村はこの日経の報道について、自らペンを採った「文芸春秋の手記」で注目すべき内容のことを書き綴っている。紹介しておこう。

 「メインバンクの住銀から記事の材料が提供された疑いが濃厚だということです。住銀のナンバー入りのファックス用紙で、日銀宛の情報が新聞社にリークされたということも判明しています。報道された記事は、イトマンではなく住銀から取材して書かれたものがほとんどで、イトマンの業績悪化を住銀の一部役員が肯定したことによって、火に油を注ぐ結果となっていったのです」

 いずれにしても既述の五月二十四日の記事に更に追い打ちをかけたこの日経新聞記事は、河村暴走経営にとってまさにボディ・ブローとなり、他紙のマスコミ取材攻勢もはげしくなり、経営危機が巷間話題となり、現実のものとなっていったのである。

 上記の日経記事は本論へ入る前に、冒頭に「住銀が大蔵省・日銀に報告したイトマングループの今年六月末の資産・負債の内容が九月十五日、明らかになったと記述している。

 この冒頭のくだりは、河村手記の「住銀の日銀宛の情報……」という部分で裏付けされているわけだが、もうひとつ、住銀から日経新聞へリークされたという個所は、ほゞ間違いのない事実だと思われる。

 ここでペンを擱いて静かに考えてみるに、古く大正初期から主力銀行という重要な位置づけにあった住銀の首脳が、こともあろうに融資先企業の悪化している経営実態の具体的計数をマスコミへリークするとはどういうことなのか。企業社会における一般常識からは想像だにできないことなのだ。

 私には詳しい内情はよくわからないが、住銀内部が巷間親磯田派と反磯田派とにわかれ、かつイトマンをめぐる対処手法、河村社長の処遇についても両派間で意見が大きく食い違っていたとしばしば伝えられていた。

 うがった見方をすれば、反磯田派が親磯田派に対抗するため、そして河村社長の失脚をねらうため、敢て実行した工作だったといえよう。いわばイトマンは主力銀行たる住銀の派閥抗争のまさに“とばっちり”をうけたことになる。当時の頭取巽(現会長)の本件に関するコメントを是非伺いたいものだと思う。

 今回の河村良彦ら三主役が中心になって起した事件が、一企業をめぐる問題ではなく、住銀・イトマン事件と称せられる所以の一つもここにありと思っている。

 思い返えしてみれば、日経新聞記者がイトマン河村の無暴、強引な経営実態を追いかけ、事件発展への端緒となった記事を書いたのは、前述の某興信所幹部の日経新聞記者に対する

 「雅叙園観光のイトマングループへの第三者割当増資はどうも胡散臭いぞ!」 という聞き流してしまいそうな一言だった。

 いずれ遅かれ早かれイトマンの乱脈経営は爆発したであろうが、今にして思えば、日経記事によって早い時期に表面化してよかったと言い得るのではなかろうか。

 イトマン新社長も「マスコミによって被害を受けたという意識は全くなく、むしろ実態を知る一つの出発点となり、明確にするためのきっかけになった」と私と同じようなニュアンスの法廷証言をしている。(河村良彦ら公判、第十八回、平成四年十月二十七日)

 次項で詳しく述べるが、住銀・イトマン事件はこれ以後も「マスコミ主導型」で拡大進行していくのである。
  
 (2)熾烈を極めたスクープ合戦

 平成三年一月元旦の朝日新聞は、

 「西武百貨店→関西新聞→イトマン 転売で二十五億円高騰」「絵画取引十二点の実態判明、差額はどこへ流れた?」 との大見出しで絵画取引の詳細についてスクープ報道した。

 「平山郁夫、加山又造、高山辰雄ら著名な画家の作品計十二点が、平成二年春ごろから数回に分けて西武百貨店から関西新聞社への総額一六億円余で納入されたが、その後、八月にイトマンに四十一億円で転売された。約二十五億円という巨額の差額がどこに流れたのか、関係当局でも関心を寄せている模様だ」 という内容だった。この記事によれば山口薫の「裸婦」は関西新聞社の仕入れ八,〇〇〇万円がなんと五倍の四億円でイトマンへ渡っているのには正月早々驚かされてしまう。

 元旦の各紙の紙面は編集について趣向を凝らし、別冊特集号を組み、かつ大巾増頁になるので重さで新聞配達人泣かせとなる。

 私は年をとってからは、元旦に配達されるぶ厚い特集を各紙の編集方針を比較しながらじっくり読むのと、玄関のポストへ投函されるのを待ちかねて、約三〇〇枚近い知人、友人等からの年賀状を一枚一枚丹念に繰りながら読むのが、元日の楽しみになってきている。定期購読は二紙であるが、他の三紙を最寄りの駅の売店まで散歩がてら買いに行くことにしている。ところが近年省力化のため自動販売機に切り替わり、ぶ厚いと機械が正常に作動せず、詰ったりするのであろう。残念なことに特集面が外されているケースが多くなってきた。特集別冊のない本紙だけでは正月を迎えたような気がしない。

 さて、平成二年度は絵画取引、伊藤寿永光なる人物のイトマン入社、雅叙園観光の増資、大阪府民信組の不正融資、住銀会長磯田一郎の突然の辞意表明、住銀首脳と河村良彦とのせめぎ合い、イトマン専務の自殺(事故死?)等々、連日にわたるマスメディアの報道戦争、スクープ合戦にはほとほと僻易するとともに、いら立ちの一年間だった。そこえもってきて、年明けの正月早々朝日新聞のこの絵画に関するスクープ記事にはほとほとまいった。

 私はテレビもさることながらラジオもよく聴いている。時にはFM放送をBGMがわりに(ヤング向けが多いが……)しながら、読書をしたり、ものを書いたりしている。

 住銀・イトマン事件当時、早朝五時からは大阪放送(OBC・ローカル)で「それーいけまっせ」、五時三十分からはTBS(大阪は毎日放送)の「榎さんのおはようさん」、六時三十分から毎日放送(MBS・ローカル)で「おはよう、MBS川村龍一です」、八時からは同放送で「ありがとう、浜村淳です」という早朝パーソナリティー番組があり、夫々ディスクジョッキーによる軽妙な個性的な語り口が電波に乗って流れていた。私は布団の中で早朝はうつらうつら惰眠をむさぼりながらイヤホーンで聴く毎日だった。

 これらの番組夫々が「朝刊拾い読み」あるいは「朝刊ヘッドライン」等のコーナーをもっていて、新聞紙名と重要記事の内容を読みあげ、若干の解説を加えたりしていた。住銀・イトマン事件が連日といっていいくらい採りあげられた。布団の中で惰眠がハッと破られたり、ドキッとしたり、「ああ、またか!」と舌打ちしたりすることがしばしばだった。土・日は番組は休みなので、ゆっくり朝寝ができたような状況であった。放送で知った重要な記事の載っている新聞を駅まで買いに走ることもしばしばだった。

 早稲田大学の冒険クラブのメンバーがパキスタンの奥地から川下りに挑戦し、現地ゲリラに誘拐され長期間監禁され、身の代金を要求される事件が発生した。その時ディスクジョッキー浜村淳は「無知無暴な学生が無茶をやりました。この学生に勝るとも劣らない経営者がいます。イトマンの河村社長の暴走の新らしい事例がまたまたはっきりしました」と前置きをして記事の紹介をしたのには、思わず涙が出そうな情けないやるせない気持にかられてしまった。

 このようにカラスの鳴かない日はあっても、住銀・イトマン事件に関する記事のでない日はなかった。よくまあ「ネタ」が続くなあと思うくらいの報道合戦が展開されていった。

 平成三年度の朝日新聞記事データーベースの分類によると、「経済」の分野で最も名前の出た人物は、一位伊藤寿永光(五一三件)、二位許永中(四六八件)、三位は河村良彦で(三二五件)事件の三主役がベスト3を独占している状況であった。ちなみに四位平岩外四経団連会長、五位鈴木永二行革審会長、そして六位の田渕節也野村証券会長ら大物をはるかに上まわり、七位には事件にかかわった大阪府民信組理事長南野洋がランクされている。

 さらに平成三年度の事件一〇傑の六位にはイトマン・金融不祥事件がランクされているありさまだった。ちなみにランキング順に事件を並べると、湾岸戦争、ソ連の消滅、雲仙噴火、PKO協力問題、証券不祥事件だった。(平成三年十二月二十七日付朝日新聞夕刊)

 この朝日新聞記事データーベースの内容が住銀・イトマン事件の報道合戦の熾烈さを如実に物語っている。経済・社会面に事件の記事が掲載されなかった日はないといってよいくらいだった。

 朝日新聞大阪社会部がプロジェクトを組み、本格的取材に乗り出したのは前にも述べたが、住銀会長磯田一郎辞任表明(平成二年十月八日)の翌日からだったが、その後、専任取材陣は雪だるま式に順次膨れあがり、ピーク時にはカメラマンも入れて、約四十名の大布陣になったときいている。他社も同様だったと推測される。計算するのは不可能だが、マスコミ業界の総取材費用の総計は膨大な額にのぼったものと思われる。

 ロッキード事件が徹底的に検察主導型だったのにくらべ、昭和六十三年六月に発覚したリクルート事件は、先にも少し触れたように朝日新聞のスクープにはじまったマスコミ主導型で拡大、進展していった。今回の住銀・イトマン事件もマスコミが先行するかたちで表面化・拡大していった。最近は活字メディアに加えてテレビの動く映像メディアが以前にもまして加わるようになってきた。映像メディアは繰返えし放映が可能だし、あらゆる角度からの編集も可能である。活字メディアと異るところで、視聴者に与えるインパクトは活字のそれよりも大きい場合が多いのではないか。

 マスコミの大布陣による取材・報道といった面からも「戦後最大の経済事件」と定義づけもいいだろう。


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