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第十五章 Xデー遂に来る
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(1)真夏のいちばん長い日
──平成三年七月二十三日──
風すぎて 蝉のこゑ ととのひけるよ 飛鳥田孃無公
平成三年七月二十三日の朝、私はなぜかいつもより早く目覚めた。自宅より一分も歩けば、関西では昔から“おでき”の治癒祈念、お百度参りの神様として有名な、連日多数の参拝客で賑わう石切劔箭神社の境内にでる。当神社の発祥は、神武天皇即位の翌年、すなわち神武紀元二年といい伝えられている。裏境内の緑の木の間からは、ひとしきりセミ時雨が心なしかいつもよりうるさく窓ごしに聞えてくる。梅雨も完全に明け、蒸し蒸しするほとんど無風状態の朝だった。
朝早く目が覚めたし、何か胸騒ぎがする。河村良彦ら住銀・イトマン事件の三主役らの逮捕の日が到来したのでは……という予感がしてならない。ここ数日来新聞各紙はXデー近しという検察側が嫌ういわゆる「前打ち記事」を掲載し、ここでも熾烈な報道合戦を展開していた。各社の記者が容疑者の出頭に備え関西の検察庁の各地の主要施設に張り込みを、すでに始めたという情報も流れていた。
「イトマン事件で逮捕状。河村、許、伊藤氏ら商法違反、自社株売買、特別背任で」(毎日新聞、七月二十日付、逮捕三日前)
「イトマン事件捜査、一〇人に絞る。許、伊藤、河村氏ら、大阪地検解明、重大局面へ」(朝日新聞、七月二十三日付、逮捕当日)
等々大きな活字が各紙の第一面に踊っていた。
しかも今日は大安吉日に当る。検察というところは案外縁起を担ぐところだ。あのロッキードの故田中角栄元首相も大安の日に逮捕されたという実績がある。
午前九時五十三分、河村良彦は長男の運転する車で、遠くはなれた検察の指定する兵庫県明石市の神戸地方検察庁明石支部へ任意出頭した。約一時間後の午前十時四十八分正面玄関に現われた河村の腰には捕縄が、両手には手錠、昼前の暑い陽射しをまともに受け、まぶしそうに河村は二人の捜査員に囲まれて車にそのまま乗り込んだ。河村を乗せた車はスピードをあげ、大阪市都島の大阪拘置所へ直行した。午後零時三十六分拘置所前に着くと待ちかまえていた各社のカメラマンは、スピードをあげてゲートをくぐり抜ける車内の河村を撮影すべく一斉にフラッシュをたいた。前方を真っすぐに見つめ、シートに深く体を埋めた河村の胸先には任意出頭時には締められていたネクタイはすでになかった。
一方、伊藤寿永光は大阪市内のホテルからタクシーに乗り込み、自動車電話をマスコミ各社へかけまくり、「明日呼ばれているんだ。今日ではないよ」とか「出頭先は大阪の吹田区検だよ」とか陽動作戦を展開しつつ、これまた指定の遥か奈良市登大路町の奈良地方検察庁の裏玄関に着いた。わざわざ運転手に裏玄関への道すじを指示したという。白のワイシャツ、黒スラックス、背広上衣は手にもち、珍らしく黒ぶちの眼鏡をかけ地検の建物の中へ。間もなく地検内で手錠がかけられ、彼も容疑者となった。
さらに、許永中は大阪府池田市の池田区検へ出頭の予定であったが、報道陣が張り込んでいるのを近くで察知し、豊中市待兼山町(約三キロ先)の大阪地検次席検事の官舎へ行き先を変え、ここで逮捕状が執行された。
平気で嘘をつき、数々の悪事を重ね、あるいは関西裏金融界の大物とも呼ばれ、検察にもマークされていた伊藤、許もさすがに、出頭時や手錠姿の写真・VTRを撮られるのを極度に嫌い意識して避けて行動した。二容疑者とも「人の子」というべきか、人間性の一面をのぞかせて囚われの身となった。明石にも奈良にも各紙の記者が張り込んでおり、出頭の写真は紙上に大きく掲載された。
主役三人はダークスーツにネクタイ姿で任意出頭したが、イトマン副社長(財・経担当)はハイキング帽に横縞のポロシャツ、ゴルフズボン姿に大きなカバンを肩からかけ、サングラス。自宅近くの兵庫県西宮区検へ出頭した。この変装姿にもかかわらず、朝日新聞のカメラマンに目ざとく見つけられ、フィルムに収められて、八月三日付の事件担当記者座談会の紙面に掲載された。この俄仕込みの変装姿は不可解だが、地検から指示でもあったのであろうか。
なお、逮捕容疑は河村良彦、副社長(財・経担当)両名が商法四八九条(自社株取得の禁止)違反、伊藤寿永光、許永中は絵画取引に絡む商法四八六条(特別背任)違反であった。
イトマンは昼すぎに、前社長の逮捕という非常事態について、広報担当の常務が緊急記者会見を行った。新社長は香港へ出張中、ナンバー2の副社長はなぜか不在だった。このような緊急事態時には、社長若しくは副社長が会見し、会社として責任ある意思表明やるべきだったと思うのだが……。
この日百人近い報道陣が大阪本社の会見場の大会議室へ詰めかけ、人いきれとテレビライトでビルの冷房もきかない、むんむんとした雰囲気だった。常務は百人もの報道陣相手に会見するのは初体験であり、緊張気味に記者団から発せられる鋭い質問に答えたが、机上に用意したメモもテレビライトの強い光でよく見えなかったという。
「素人判断では河村前社長の行為は犯罪にあたらないと考えていたので、イトマンとして告訴にふみ切ることについて結論はでなかった。元副社長の逮捕は全く予想もしていなかった。河村暴走を阻止しえなかったのは、取締役会のチェック機能を含め、社内の管理体制が不備だったとしかいいようがない。現経営陣の経営責任については責任はあるという認識はもっているが、今は再建が第一、再建後のことについて議論する時期ではない」
このように会見の内容はおざなりの、歯切れの悪い、あいまいな弁明に終始した。
このはっきりしない経営責任論はあとあと株主はもとより、関係先、社員、OB等からきびしい追求をうける破目に陥ることになる。
また管理体制不備云々の弁明についても、三十余年間イトマンの主として管理部門に籍を置いた者として、私には異論がある。イトマンには伝統的な各種のチェックシステム、管理体制がすでに整備されていた。加えて河村体制の前半にはその不備な、そして近代性に欠けるような箇所等については、衆知を集めて補完、より一層完備したはずである。管理体制が機能しなかった。或は不備があったのではなく、代表取締役自らがこのシステムを強権を発動させて破壊し、強引に自らの方針、意図を押し通し、加えて住銀OB、イトマンプロパー幹部らがこれに迎合、同調した結果が破滅につながったのである。常務が指摘したような書類の回覧とか決済とかの社内ルールの見直しというような次元の問題ではないはずである。旧経営陣の責任論とあわせ本件については、後に詳しく述べることとしたい。
ところで、七月二十三日の午後大阪の水銀柱は三十六度まで上昇した。あの河村良彦の手に手錠が……。彼の長期政権の前半の五年間、まさに中興の祖と称賛された全盛時代、彼の効率経営等の経営哲学の薫陶をうけ、強烈なリーダーシップと個性、積極的な行動力、そして斬新な発想等従来のイトマン首脳には全く見られなかった魅力に惹かれて河村御大についていった私にとって、夢想だにしなかったことだった。私の頭の中にある河村良彦像のネガフィルムからは、逮捕されて手錠と捕縄姿を焼き増し、引き伸すことはどうしてもできなかった。
これから冷房設備もない風も入らない独房での暑い暑い拘置生活と、きびしい取り調べが続き、いずれ起訴されるのだ。
この日の夜も熱帯夜の暑さが加わり、昼間の忘れることのできないでき事の回想が重なり、寝がえりばかりをうつ寝苦しい眠れぬ夜となった。
平成三年七月二十三日、私にとってこの日はこの夏でいちばん暑い、そして長い一日となった。
(2)河村良彦の初公判の日
平成三年十二月十九日、大阪市中央区西天満、大阪市役所の川向いの北側にある大阪地裁周辺は、早朝から騒然とした異様な雰囲気に包まれていた。木枯らしが吹きすさび、鉛色のどんよりした上空には、報道陣のヘリコプターが数機飛交っている。
古くは森永グリコ事件や証券不祥事件、この住銀・イトマン事件発覚後のイトマンの株主総会等ですっかりお馴染みになった「月光仮面」のオジサンがサングラスに白の覆面、裏地は真赤のマント姿で馬にまたがり、「イトマン事件に断罪を」と金釘流で書いたプラカードを右手にかかげて、蹄の音をパカパカひびかせながら、裁判所のまわりの道路をかっ歩している。これをTVカメラが追うという光景だった。本人がどのような経歴の人物なのか、馬をどこで調達し、どのように運搬してきたのかは詳らかでない。
当日は特別背任罪などで起訴された河村良彦イトマン元社長、伊藤寿永光協和総合開発研究所代表、許永中不動産管理会社代表の三被告の初公判が開廷される日だった。真夏の逮捕から丁度百五十日目だった。
私は珍らしく早起きをして、十時からの開廷にもかかわらず八時過ぎに現地に到着した。すでに数十人の傍聴希望者が行列の輪をつくっていた。行列の広場にはトランシーバーを携えた地裁の職員約五十名が行列をとり囲むようにして警戒に当っている。
ジーパンに若者の間ではやっているリュックサック、スニーカー姿の学生──明らかにマスコミに雇われたと思えるアルバイトも相当数見受けられた。一般市民、事件関係者らの傍聴希望者が大勢いるのに、これを無視したようなマスコミの強引な手法に憤りを憶える。行列の中の目ぼしい人に記者達がインタービューしている。上空を飛交うヘリコプターはどうやら大阪拘置所から、三被告を乗せた護送車を地上と連絡をとりながら追ってきたようだ。いずれにしても過熱気味の異常とも思える取材ぶりだった。取材費のコスト・アップにつながり、またぞろ新聞購読料の値上げになっていくのではないかと懸念しながら行列に加わっていた。案の定、産経新聞を除く全国各紙は平成五年十二月から順次二〇〇円の値上げを実施した。
九時三十分一般傍聴券五十六枚を求めて、抽選が始った。TVニュース等でお馴染みの竹の抽選棒を「当り」を念じながら引いたが、残念ながら外れだった。当日の夕刊紙によれば傍聴希望者は二六二人、定員の四.七倍に達する競争率だった。
裁判所の前を流れる堂島川にかかる水晶橋を渡る時、空っ風に吹き飛ばされそうになり、少くかつ薄くなってきた頭髪を押えながら空しく裁判所を後にした。
当日開廷後河村良彦、伊藤寿永光、許永中の各被告の順番で人定質問が行われ、検察側が三被告にかかわる計八件の事件(別表参照)の起訴状を大塚清明特捜部副部長がトップバッターになり、四人の検事が交代で約三十五分間にわたり朗読した。次いで三被告の罪状認否に入った。
新聞報道他で要約するとまず河村被告は、経営危機に陥ったイトマンを再建させた功績を強調し、起訴の五事件について融資の事実など一部は認めたが、商社の営業活動には一定のリスクが伴うのは当然、経営責任を問われることはあっても、なぜ犯罪になるのかと強調、事前共謀や犯意などは全面的に否認したうえで無罪を主張した。河村被告の弁護側は意見陳述で経営責任と刑事責任が混同されていると、補足、さらに、イトマンでは下部組織に権限を大巾に委譲し、上部組織ではチェック機能を重視する体制をとり、よほどのことがない限り、社長の段階で下部の行った決裁を変更することはないと強調した。伊藤寿永光被告の入社については住銀関係者からの強い要請にもとづくもので、イトマンが伊藤プロジェクトに取り組んだところにすべてが起因しているとし、銀行のかかわり、関係者の役割の解明を裁判所に強く要望した。
次いで伊藤寿永光被告も河村と同様起訴事実を全面的に否認し、無罪を主張した。弁護側は伊藤、河村両被告以外の経営陣はなぜ責任を問われないのかと検察側を批判した。
最後に許永中被告は絵画を担保に融資(売買ではない)をうけたが、担保価値あったとして全面的に否認した。また、さつま観光への融資は野田産業(現コムソン社)の株式八三〇万株(一二四億円)の購入資金を申し入れたものであって、ゴルフ場開発資金名目での融資ではない。また商社の融資に対する担保として野田産業株式、さつま観光株式(二,八〇〇株)を差し入れるなどしてあり担保は充分だったとした。
午後からは冒陳の朗読に移り、検察側はイトマンがいかにしてアングラ経済と結びついていったのか、その状況を浮き彫りにすると同時に、マスコミ記事の情報収集などのために「日本経済新聞社内の協力者」に一,〇〇〇万円、新潮社の元記者に五〇〇万円を支払ったことや、雑誌「経済界」の主幹に二億円を支払ってチョウチン記事を書かせたという事実を明らかにした。かつ住銀会長磯田一郎も一部かかわっていたことも指摘した。この部分は朗読が省略されたようだが、今までのマスコミも全く報道していない新事実で、冒陳を入手した裁判所担当記者からの本社への緊急連絡で、新聞・雑誌の業界は騒然、てんやわんやの大騒ぎとなった。
翌二十日付の全国紙朝刊の第一面、社会面はこの記事で埋まり、「衝撃、マスコミに金」「露骨にもみ消し工作」「金でマスコミ操縦」などの大きな活字が踊った。
なお検察側は各被告や関係者の供述調書、報告書など、計一,三二三点という膨大な証拠調べを請求した。
公判前日の十二月十八日に、大阪府警は一年八ヵ月に及ぶ捜査が終了したので、特別捜査本部を解散した。最大一一〇人体制で捜査を進め、投入した捜査員は延べ約二万人にのぼった。家宅捜査は大阪地検と共同で十一都府県約一八〇ヵ所にも及び、押収した資料は一万数千点にのぼったといわれる。
なお、被告、関係者の供述調書、報告書などの証拠書類は、約百万枚という膨大な量に達し、大阪地裁内のコピー料金は一枚三十五円、一セットのコピー代が三,五〇〇万円にのぼっている。弁護人は分担して担当しているのでどうしても二〜三セットが必要という。コピー料金だけで高級一戸建住宅が一軒買える金額になるという。
いずれにしても複雑にからみ合った犯罪内容もさることながら、戦後最大の経済事件といわれる所以である。
翌年正月明けの月末に第二回の公判が開廷された。初公判時は初物食いが多かったのか、今回は傍聴人が急減してしまい抽選なしで入廷し傍聴できた。
午前十時五分、大阪地裁で最大収容能力のある二階の二〇一号の大法廷で開廷された。正面の裁判長ら三名の裁判官席に向って左側は大塚清明大阪地検特捜部副部長ら捜査を担当した特捜検事が四人、右側の弁護人席には、竹村照雄元広島高検検事長、吉永透元京都地検検事正ら検察OBを主任とする三被告の弁護団計二十二名が着席している。弁護団席には三列の机が準備され、補助椅子まででるような大弁護団である。なお、伊藤寿永光被告は平成五年七月に竹村主任弁護人ら五名を突如解任し、他の五名は辞任し、全員が入れ替るという異例の事態となった。
開廷の三〜四分前、弁護団席の横の出入口から、許永中を先頭に、伊藤寿永光、河村良彦の三被告が五人の制服制帽の刑務官に付き添われ、腰には白い捕縄、両手を前に手錠(タオル、ハンカチ類で隠してはいない)草履ばき、ノーネクタイ姿で入廷してきた。私にとって刑事裁判の傍聴は初体験だった。拘置所から裁判所までの護送車内では手錠がはめられているとは思っていたが、まさか傍聴人の大勢いる法廷内まで手錠姿で入廷とは予想もしていなかった。まさに驚きであった。思わず目をパチパチさせわが眼を疑ったくらいだった。
やはりいちばん注目したのは、最後の河村良彦被告だった。心なしか白髪が増え、ほほがこけ、年令の割には量の多い頭髪も伸び、疲労困憊の色が濃く、相当精神的、肉体的ダメージをうけた様子がうかがえた。腰はやや前かがみ、草履ばき(靴ははいていない)のせいもあるが、普通よりは歩巾が狭く、チョンチョンと軽く跳ぶような感じ。約二十年前にはイトマンの再建、復配を果し中興の祖と称えられた河村、そして十五年の長きにわたり権力の座に居すわり、天皇とまで言われた往年の面影はどこにもなかった。
一方許永中は、逮捕前の彼に会ったことはないが、事件報道のTV番組で流された彼の映像──雅叙園観光の女子社員が「蛸入道」というニックネームをつけていたときくが──でみる身長一八〇センチ、百キロ近くあったという巨漢も、二〇キロ近くやせた由で、ぶ厚い胸板も少し薄くなった感じ。本人はぜい肉がとれたことで十年は長生きできる。しっかり公判をやりましょうと取調べ検事に語ったという。しかし血色は三人のうちで最も良く、精かんな表情でメガネ越しに裁判官をキッと見すえていた。彼のトレードマークのはげ頭は後方から見ると、まるで磨いたようにテカテカと光り輝いていた。彼の生れ育った生活環境がそうさせたのであろうか。三人のうちではいちばん元気なのが印象的だった。
また、伊藤寿永光の方は、一五〇日に及ぶ拘置生活で疲労がたまり、「早く出所したい」と繰返えしていた由であるが、やや精彩を欠いていた。普段はかけていない薄色の黒ぶちのメガネをかけていた。
定刻午前十時を四分ほど過ぎたころ、(余談であるが、河村らの公判については以降、朝、午後、休憩後の開廷についてたいてい五分前後遅れ、定刻通り開廷になった例がない)河上元康裁判長ら三名の裁判官が正面出入口から入廷、事務官の「起立」「礼」の号令とともに法廷内の全員起立、一礼し、ここではじめて三被告の捕縄が解かれ、手錠も刑務官のキーによって解錠され、両手が自由になり着席するという有様だった。昼の休憩時間、三被告には再度手錠、捕縄もかけられ退廷するのだが、河村被告は立ちあがる際、思わずヨロヨロとよろけ、刑務官が急いで後ろから腰を支えるという、目をおおいたくなるような衰弱ぶりだった。
いずれにしても、一部上場、年商六,〇〇〇億円、資本金五〇〇億円の中堅企業の社長と、アングラ世界の紳士とも称せられ、或いは検察側が宅見組々長とも親交ありと指摘した二人の人物とが、横長の同じ被告席のベンチに手錠姿で刑務官に囲まれて三人が並んで座っている光景は、まさにこの事件を象徴しているようで、極めて異様な雰囲気だった。
当日は検察側の第一回の証人として、イトマンの元副社長(財・経担当)が出廷し、真実を申し述べる旨の宣誓を全員が起立のうえ行い、裁判長から嘘の証言をすれば偽証罪に問われる旨の注意があり、検察側の主尋問に終始よどみなく答えていた。事前に検察側と証人との間で質疑内容について綿密な打ち合せが行なわれたことをうかがわせる証言だった。
以降原則として月二回終日公判が開廷されている。検察側の証人調べだけでまだ平成七年春以降までかゝるという長期裁判の様相を呈している。
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