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第十六章 河村良彦ら三主役の公判

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 (1)公判の傍聴

 河村良彦、伊藤寿永光、許永中、事件の三主役の併合公判は、大阪地裁の正面階段あがった右側の二階の二〇一号法廷で、平成三年十二月十九日の初公判以来、翌平成四年一月、二月は月一回の開廷だったが、三月からは原則として月二回、午前十時〜午後四時三十分ころまでの終日のペースで審理が進められている。平成七年三月現在では計七十二回の公判が開廷されている。刑事八部の担当である。

 この二〇一号法廷は傍聴席は一列十六席が六列、計九十六名が入廷着席できる大法廷で、前の方の中央二列は記者席で、一般傍聴人の定員は六十九席である。初公判時には長蛇の列ができる程世間の注目、関心を集めた裁判だったが、二回目以降は抽選もなく、時間の経過とともに記者席も傍聴人席も漸次まばらとなってきており、今年に入ってからは記者も含めて十名以下のケースが通常となってきている。少ない時は記者を含めて五〜六名という時もある。人の噂も七十五日というか、事件の風化をひしひしと身にしみて感じている今日このごろである。

 裁判所内にどういう規定があるのか判然としないが、傍聴人が定員の1/3を切れても、なおかつ傍聴券を必要とし、一階北側入口で受領し、これがなければ入廷できなかった。しかし三十五回公判からはフリーパスとなった。一階の傍聴券の受渡し場所に多い時には五〜六名、そして法廷入口にも二〜三名の職員が終日配置されており、効率経営を標榜してきた民間企業出身者からみれば、約一年半裁判所は非効率なことをしてきたことになる。政治改革に次いで行政改革の断行の声が高いが、身近かな大阪地裁の中にも、合理化すべき案件が山積しているように思う。

 話が少しそれたが、前にも少し触れたが三主役のうち伊藤寿永光は平成五年七月に一年半余にわたり弁護を担当してきた十名にも及ぶ大弁護団のうち五名を意見の不一致を理由に解任し、他の五名は自ら辞任し、弁護団を一人残らず総入れ替えするという思い切ったことを断行した。

 主役以外の他の三被告、すなわちイトマン元副社長高柿貞武(自社株取得罪、刑事三部、七沢章裁判長担当)元大阪府民信用組合元理事長南野洋(背任罪、刑事七部、清田賢裁判長担当)アルカディアコーポレーション代表者小早川茂こと崔茂珍(特別背任罪、刑事六部、近江清勝裁判長担当)については、起訴事実を全面的に或いは大筋で認めたこともあって、三名とも夫夫分離公判となった。

 うち高柿貞武についてはわずか四回の公判で結審、前述した通り懲役二年の求刑に対し、平成四年六月二十九日懲役一年二月、執行猶予三年の判決がおり、本人は控訴せず確定した。

 小早川茂は当初大筋で起訴事実を認めていたが、伊藤寿永光と同じく途中で弁護人を全員解任し、新任弁護人のもと全面否認作戦に切り替え、検察との全面対決の姿勢をあらわにした。二十回の公判で結審、懲役三年六月の求刑に対し弁護人の最終弁論を経て、平成六年一月二十八日近江裁判長は懲役二年の実刑判決を言い渡した。

 小早川茂はこの実刑判決に対し、この裁判は在日韓国、朝鮮人と検察ファシズムとの闘いである。「グリコ・森永事件」の別件逮捕であり、捏造した冤罪事件だ、検察当局は住銀総資本の走狗である。「日経問題」(第十一章(3)項で詳述済)は住銀(金融資本)とメディアとの癒着がその本質である。箱根霊園に対する十億円の融資は単なる民事上の金銭貸借にすぎない等々の反論を挙げ、生命を賭けて諸悪の根源である住銀と検察ファシズムに抗議するとしてすぐさま控訴した。

 なお、本人の申立てによれば逮捕拘留中にグリコ森永事件について相当の時間を割いて取調べをうけた由である。

 一方、南野洋は大筋で起訴事実を認め、情状酌量を訴えたが、清田裁判長は平成六年二月二十五日求刑懲役五年に対し「信用組合の代表者としての任務に著しく背き、まれに見る巨額の被害を与えており、実刑は免れない」と懲役二年六月の実刑を言い渡した。背任罪の最高刑五年の求刑に対し、個人的な利益を得ていない。また自分の資産を提供して被害回復に努めているなどとして大巾に減刑した。しかし南野側は即日控訴した。

 大阪府民信用組合はこの事件による被害甚大で、自力再建が困難となり平成五年十一月一日付で信用組合大阪弘容に吸収合併されている。

 これら三被告の判決によって、河村良彦の外堀りは埋められたことになる。

 加えて南野洋に対する判決は、検察側の主張をほぼ全面的に認めており、また小早川の判決では河村、伊藤両被告の特別背任罪の成立を認め、両者の間に順次共謀が成立したものと認めるのが相当と決論づけているので、無罪を主張して争っている河村良彦ら三被告はさらに極めて苦しい立場に追い込まれたといえる。

 現在のところ三主役の公判は、検察の冒陳で述べられたいわゆる「総論」──すなわち河村の社長就任後の経営実態、伊藤寿永光の河村への接近、河村独裁体制の実態、社長の地位保持と決算操作、企画監理本部の新設他──を中心として検察側の証人調べを主体に、時には証拠物の提示により証言を引き出し、次回には検察側の主尋問に対する弁護団側の反対尋問が行われるという図式で進行されてきた。

 平成五年九月七日開廷の第三十六回公判で「総論」に対する検察側の立証は約一年九ヵ月余に及ぶ年月を費し一応終了し、以後さつま観光、瑞浪ゴルフクラブへの不正融資、自社株の取得、箱根霊園の不正融資の具体的各論にようやく入っている。しかし当初のスケジュールは相当ずれ込んでおり、かつ検察側申請の証人調べはまだ平成七年春以降までかかる予定がさらにおくれ、弁護団の検察側の「総論」の冒陳に類する反証は、弁護団からの度度の要求にもかかわらず今のところ展開されていない。被告人質問は早くて平成七年春以降になる見込みで、審理の長期化は必至の情勢となってきている。

 初公判以来約三ヵ年半が経過し、現状のダラダラの審議状況も勘案し、第一審の判決がおりても、全面否認無罪で争う三被告人の控訴を想定すれば、まさに「十年戦争」の様相を呈してきていると思う。日本の長期裁判を象徴するようなひとつの事例となるのではないかと危惧している。

 ここで参考までに過去の長期刑事裁判(起訴からの審理期間)の例を数件あげておきたいと思う。

 名古屋大須事件(騒乱罪)       二十六年二月
 東大ポポロ劇団事件(暴力行為罪)   二十一年
 皇居前広場のメーデー事件(騒乱罪)  二十年六月
 大阪タクシー汚職事件(贈賄罪)    二十年三月

 いずれも高裁又は東京高裁まで上告されての結果である。


 「総論」段階で検察側証人としての出廷者は、イトマン関係者十六名(内役員八名、理事三名、管理職五名)で内住銀OB六名、その他の関係者五名の計二十一名の多きに達している。その延出廷回数はイトマン副社長(財・経担当)の八回、同副社長(非繊維担当)の五回を筆頭に計六十二回にも達している。平成七年春ころまでには出廷人数は相当の数にのぼるものと思われる。

 「総論」検証の初・中期段階ではイトマン元役員らの核心に触れるような、時にはハットする数々の証言もあり、河村ら三主役にとってはボディ・ブローを食らったような痛い証言もあったが、「総論」も終局面も迎えかつ各論へ入っていくに及んで、検察・弁護団双方の尋問も本質論から次第に乖離していき、枝葉末節の部分にまで入り込み、回を重ねる毎に傍聴している私は空しさを感じている。何故こんな取るに足らぬ本質とは全く関連のない些細なことまで尋問しなければならないのかと疑問に思う場面もしばしばあった。

 平成六年冬から七年初めにかけての冬期には法廷内のよくきいた暖房のせいもあって睡魔がやってきて、メモを採る手もストップする場面もしばしばあるような状況であった。

 ある大手不動産建設会社の代表者は、わざわざ東京から来阪し午前中の検察側の主尋問に答えて、再度弁護団からの反対尋問のため裁判長から再出廷を求められた時、この証人は

 「私は遊んでいるわけではない。会社勤務をしているのだ。東京からくると丸二日つぶれてしまう。証言というのは国民の義務だということは、よく理解しているつもりだが、次回の尋問に対しては書面で回答し提出するので、来阪のうえの出廷は勘弁してもらいたい」と臆せず訴えたことがある。証人は特に明言はしなかったが、主尋問の些細な、核心から逸れた質問攻めにほとほと嫌気がさしたのではないかと私は勝手に推測しているのだが……。

 また、イトマンの当時の新規事業であった「平安閣プロジェクト」の担当を社長河村から命じられた部長職は、大きな声を張りあげ、裁判長に対し「同じようなことばかり聞かないように注意していただきたい。前回に証言し、或いは検事の参考人取調べ時に供述済です。業務多忙の中わざわざ出廷してきたのだから……」と訴えた。裁判長からは「そう興奮しないで答えなさい」とたしなめられる場面もあった。

 最近の審理の状況はこの二証人の裁判所に対するコンプレインからも想定、推定していただけるものと思う。しかし私はそれにもめげず、公判には皆勤で出席している。空虚な感情にさいなまれながらも、乗りかけた船だから航海を終えて最終の目的港へ接岸するまでは、雨の日も、風の日も大阪地裁へ通いつめるつもりでいる。

 ここまで読み進んでいただいた読者各位に注文をつけて申し訳ないが、第四章(2)項へ戻り、検察の冒陳を読んでの評論家佐高信のコメントをいま一度読み返えしていただきたいと思う。現在の私のみる公判の進行状況はまさに氏のコメント通りだと思う。
  
 (2)公判における問題点

 検察はその冒陳において河村暴走経営、遂にはイトマンを破滅に追い込んだそのバックグラウンドについては、いわゆる「総論」で詳しく述べている。この冒陳の概要については第三章(1)で触れた。

 再びくりかえし、復習のため簡単にまとめをしておきたいが、河村は住銀側から社長在任がすでに長期間に及んでおり、ここ数年来経営手腕にかげりを見せていたことなどもあって、後任社長を住銀から送り込みたいとの思惑で、社長交代をほのめかされていた。河村はイトマンの株価水準の維持、引きあげ、経営利益の前年比増益は経営者としての評価を決定するものと認識していたので、自己の社長としての地位を脅かす住銀側の意向をはねつけ、その地位を保持せんがため、公表の利益目標は達成しなければならないと決意し、日夜その実現手段について腐心していた。

 河村は後任社長に経営をバトンタッチすれば、いままで隠ぺいしていた巨額の赤含みをかかえた経営実態が住銀側へ暴露されること、危殆に瀕したイトマンを再建しここまで発展させてきた本人の自負と周囲から与えられた栄光が、もろくも崩壊してしまうことを危惧していた。

 河村はかねてから資金、人事両面から住銀離れをはかりつつ、個人筆頭株主の地位につくとともに、相次ぐエクィティ・ファイナンスによって住銀及びオーナーの伊藤一族の株式保有シェアーを低下させ、大株主として経営に介入させないようにし、実質的オーナーの地位につくとともに、次期社長は住銀からの送り込みではなく、イトマンプロパーの三副社長から選抜し──三名に対してはかねてから次期社長は君達からだと告知し、三副社長を競わせていた──自分は実力会長に就任し、文字通り強力な院政を敷いて権力をほしいままにしようと意図していた。しかし住銀から社長の地位を脅かされるに及び、かねてからの計画、野望が頓挫してしまい、その実現性に危機感をいだくようになっていた。

 この時期に突然あらわれたのが伊藤寿永光であり、河村は渡りに船とばかり、伊藤寿永光を本部長とする企画監理本部をわざわざ新設し、伊藤プロジェクトへの無軌道な融資にのめり込んでいくことになる。

 また一方、住銀内では過大な不動産投融資に陥ったイトマンへの主力銀行としての対応、伊藤寿永光の入社をめぐる処置、磯田会長の腹心だった社長河村の勇退問題等をめぐってはげしい派閥・磯田派対反磯田派の見苦しい人事抗争が長期にわたり展開された。

 この抗争の煽りをくって住銀のイトマンへの対応が約六ヵ月にわたり放置されたりした。これらのことは先に第七章(2)で述べた。

 また住銀並びに磯田一郎個人の伊藤寿永光との不可解なかかわりあい、伊藤寿永光を先兵とするアングラ集団の対住銀への接近等、事件との関連において解明、明確にされなければならない部分が極めて多い。

 検察当局は冒陳で述べたことは立証しなければならない立証責任があるはずである。前項で検察側の証人として出廷し、証人台に立ったメンバーの内訳については記述した。

 ここで読者各位もお気づきのことと思うが、住銀サイドの首脳幹部はだれひとり見当らなかった。

 検察側の申請した証人の証言によって、河村独裁政権の実態、その超ワンマン振り、また伊藤寿永光プロジェクトに対する不正融資の真相等々についてはある程度立証されたと思う。

 しかし残念なことには、肝心の住銀サイドの首脳陣はもとより、本店営業部のイトマンへの融資の窓口責任者だった担当常務ら幹部も──もう「総論」についての証人調べはほぼ終了したにもかかわらず──だれひとりまだ証人台に立っていない。

 会長磯田、頭取巽、副頭取西ら住銀首脳は大阪地検の参考人として検事の事情聴取を相当時間をかけてうけ、その供述調書も作成しているはずである。

 住銀側の当事者であるこれら首脳については証人申請はいうまでもなく、供述調書の証拠申請すらなされていないようだ。唯一申請した頭取巽の調書は弁護人側が不同意としたにもかかわらず、証人申請もしていないときく。

 また、住銀・イトマン事件では、真相のよくわからない「絵画取引」のルートがある。販売先のあてもない見込み買いで七〇〇億円近い巨額の資金が許永中系の企業らに流出している。許永中は特別背任罪の外に、この絵画取引に伴う脱税事件で別途起訴されている。

 検察の冒陳では、河村が絵画取引に関心をもちはじめた動機、きっかけは、すでに第十二章(1)で述べた立川との経営権譲渡の密約締結時(平成元年十月)にアイチの会長森下安道から「アイチでは絵画の在庫は三〇〇億円〜五〇〇億円くらい持っており、年間三十億円ぐらい儲けている。不動産に資金を注ぎ込むより、絵画の方に金を回した方がよほど儲かる」と吹き込まれたと指摘している。

 私の知っている限り、これも前述したが河村は美術館や画廊へ出向き絵画や工芸品を鑑賞したり、または収集するような趣味は全く持ち合わせず、いわば仕事一途だった。

 さて「儲る」ときけば見境もなく、「ダボハゼ」のように食らい付いていく河村商法は──個人としては絵画に関する関心も趣味もなかったが──絵画事業の展開についての関心を一層強めていった。河村がこのように思い始めたのとタイミングを合わすように、住銀会長磯田一郎の長女で、(株)ピサ(絵画等美術品取り扱いの西武百貨店の子会社)の嘱託社員をしている黒川園子から、同年十一月ごろ、アメリカのコレクター所蔵のロートレック・コレクションをイトマンで購入してくれないかとの依頼があった。

 磯田長女からの依頼をうけ、磯田の一番番頭を自負し、磯田への義理を感じた忠臣の河村は、これまた河村の腹心となりつつあった伊藤寿永光に絵画事業への進出の検討を命じ、ロートレック・コレクションの処理を伊藤寿永光に任せた。

 この結果河村は磯田の長女から要請をうけたロートレック・コレクション二十二億円を、さらにワイエスコレクションを九十五億円、合計一一八億円にも達する巨額の絵画を、イトマン社内にはこの道の専門家もいないのに、いわば素人集団がピサから購入した。

 磯田長女からのロートレック・コレクション購入依頼の一本の電話が、河村が絵画取引へ無軌道にのめり込んでいくきっかけをつくったのである。

 さきに住銀本店サイドの首脳幹部はだれひとり証人申請されていないと述べたが、絵画取引のきっかけをつくったこの磯田長女についても検察は証人申請もしていないときく。

 この異常ともいえる状況をいち早く捕まえて、伊藤寿永光の主任弁護人が、第九回(平成四年五月二十二日)の公判で、「検察側は冒陳で河村に対する住銀サイドの圧力云々を強調しておきながら、住銀首脳の調書を証拠申請していないのは極めてアンフェアーである。速刻実施すべきである」と大声をはりあげて強硬に迫ったことがある。具体的参考人として住銀会長磯田、元副頭取西、常務本店営業部長大上、朝日新和監査法人の代表社員、イトマンの審査担当の常務(住銀OB、河村の計数管理上のスタッフだった)の五名の名を具体的に挙げた。しかしその後そのままになっているようだ。

 また最近では四十二回公判(平成五年十二月七日)で河村の主任弁護人が「住銀の元会長磯田が他界され、イトマンサイドの重要関係者(住銀OB)もすでに数名が死去している。このようなことで逐次真相が解明されなくなるのではないかという危惧をもっている。弁護団としてはすでにさつま観光への不正融資の個別案件の立証に入ってしまっており、総論反証の機会も失ってしまい、住銀関係者が証人として出廷せず、全体像をいかにして浮びあがらせるか苦慮している。元頭取巽も証人申請されていない」と抗議した。

 これに対し主任検事からは「全体像とは何をいうのか、よく理解できない。住銀本店からは一名の証人を予定している」と反論があったが、いまひとつすっきりしない。

 住銀・イトマン事件を大阪地検自ら「戦後最大の経済事件」と位置づけ、また日本のいわゆる「バブル経済」を象徴した事件ともいわれている。

 しかし残念なことには、事件のマクロはもちろんのこと、住銀のこの事件とのかかわり合い、元会長磯田の関与、住銀の当時の内部事情、社長河村の進退をめぐる住銀サイドの処置等々については、ほとんど立証されていないといってよい。

 元会長磯田は取材の週刊誌記者に対し、かつて「事件については墓場までもっていかねばならんものがたくさんあるのだ」と語っていたことがある。その後も本件については一切口をつぐんだままだった。しかし本人すでにこの世に無く、これが現実となってしまった。

 磯田ら首脳の参考人としての供述調書にどこまで事件の真相、核心が語られているのかは、われわれには全く不明であるが、事件の核心、深層は司直の手によっても解明されず、闇から闇へ葬り去られる公算が極めて大となってきている。せめて一部分だけでもと願っているのだが、残念至極である。

 自民党元副総裁金丸信の例の五億円の献金についての略式起訴、罰金二十万円の事件の時には、国民与論は猛反発し、検察不信の声がふつふつとして全国的に沸き上った。東京地検前へ黄色ペンキを投げつけるという猛者まで現われるという状況になったことがある。

 私は大物政治家に対するこの処置について、何か日本における権力構造の一端をみたような思いだった。今回の住銀・イトマン事件についても、現状における公判の進行状況からみていると──こんなことを記すと大阪地検からきびしい叱責をうけるかも知れないが、もちろん私の主観ではあるが、金丸信略式起訴と同様、日本の権力構造のほんの一端を垣間見たような気がするのだが……。

 河村良彦ら三主役の公判は既述の通り、検察による「総論段階」の立証は終了し、個別の不正融資問題に入ってしまっている。
  
 (3)参考人、容疑者、被告らの検事調書の任意性

 平成五年十一月末、TVニュースの映像、新聞の活字は、国民がびっくりするような衝撃的な事件を報道した。それは……。

 例のゼネコン汚職事件・宮城ルートを捜査していた検事が、仙台地検で参考人を事情聴取した際に、顔を平手打ちしたほか、後ろからけったり土下座させ「豚野郎、半殺しにして帰してやる」などと怒鳴りつけ、頭を踏みつけるなどの暴行を加え怪我をさせたという。壁に向かって長時間立たされたり、また数十回平手でなぐられたので、口の中から出た血が机の上に飛び散るようなすさまじさだったという。

 この暴行をうけた参考人は、特別公務員暴行陵虐致傷罪で告訴した。これを受けて検察当局は早急に強制捜査に乗り出す方針を打ち出し、法務省も同検事を懲戒免職処分とする見通しだと報じた。

 同検事は報道のあった翌日東京高検によって逮捕された。取り調べ中の暴行事件を理由にした現職検事の懲戒免職、逮捕は初めてのことだった。

 「まさかこんなことが実際に……」しかも「取調室という密室の中で……」と国民がまさに唖然とする事件だったが、同検事は暴行の事実を大筋で認めたようだ。

 当時の三ヵ月法務大臣は「検察史上、類例を見ない常軌を逸した行為」、岡村検事総長は「極めて遺憾なことであり、深くお詫びする」と夫夫記者会見で身内の不詳事に苦渋に満ち深々と陳謝の意を表した。

 「正義の味方」を自負してきた検察に与えた衝撃は、あまりにも大きかった。暴行を受けた参考人は「取調べられた時は、恐怖で体が硬直した。この屈辱は一生忘れられないだろう」と沈痛な面持ちで怒りに満ちて述懐した。

 これまで、汚職事件などの公判では、検事調書の信用性と任意性が争点となることが多かったが、今回のこの傷害事件で再びこの点で争う動きが強まっていくであろう。また国民の検察の捜査に対する見方も厳しくなっていくものと思われる。この暴力元検事に対し東京地裁は平成六年六月懲役二年(求刑二年)、執行猶予四年の判決を言い渡した。

 この検事の暴行事件をきっかけにして、四年余前の平成二年に摘発された藤田観光株の株価操縦事件の参考人として取り調べを受けた「光進」の元経理部長が、取調室で検事調書に署名を求められ、「よく内容を読んでからにする」と答えたところ、担当検事から「なめるな!!」などと言われ、手のひらであごを突き上げられ、あごの骨を折り、全治約四十日間のけがを負い入院したとして、平成五年十二月下旬に当時の担当検事を東京高検に告訴した。当時本人が公表しなかったためか、表沙汰にはならなかったが、ゼネコン事件の検事の暴行をきっかけに、泣き寝りの必要なしと告訴に踏み切ったものと思われる。株価操縦事件は裁判がすでに確定しているが、この暴行事件についても捜査、処理されるものと期待している。検事による暴行はゼネコン汚職が初めてということではないということがはっきりした。日本の検察史上実に憂慮すべき由由しきことと言わざるをえない。

 以上紹介した二件は、検事が自分の手足などを使っておこした物理的暴力を加えた傷害事件だが、このほかに検事が取り調べ中に、参考人又は容疑者に対し、罵詈雑言を頭ごなしに浴びせかけ、精神的に追い詰めるという取り調べ方法も時には採られているようだ。無形の暴力による「精神的傷害事件」とでも称すべきか。

 以上本稿の趣旨からやや外れるような検事の有形・無形の暴力沙汰に触れたのは、河村良彦らの公判において、検察側の証人として出廷した事件の関係者が検事の暴言について堂々と証言したので、是非とも読者各位に承知していただくため紹介しておきたかったからである。

 このことに触れる前に例のリクルート未公開株事件の主役、当時の社長江副浩正の陳述を思い出したので、まず先にこれについて若干述べておきたいと思う。当時の彼の意見陳述を新聞報道にもとづいて再録してみたい。

 「検事の言われることを否認すると、『お前のような人間の座る椅子はない。立って後ろを向け。壁に向って立て……』私の鼻が壁につくほどで、目を開けているのが苦しく、思わず目をつぶると『目はつぶるな。目を開けていよ』と命ぜられました」と。

 本項も終末に近づき苦吟しながらペンを走らせている時、平成六年二月一日午後三時半過ぎであるが、丁度各紙の夕刊が机上へ届いた。朝日新聞の一面に「竹内前知事、清水(建設)前会長らも現金授受を否認。『自白』の任意性否定」大きな見出しが躍っていた。(ゼネコン汚職事件・茨城県知事ルートのこと)

 「自白の任意性……云々」の活字が気になったので、しばしペンを擱いて内容を読み進んだのだが、驚くなかれ、リクルートの江副被告取り調べ時の暴言以上の読むに耐えないような暴力的、脅迫的としか思えない口汚く罵倒する“無形の暴力”の数々が報ぜられていた。

 「ぼけ老人はさっさと引退しろ、お前なんかいないほうが会社はよっぽどうまくいく」

 「認めないと検察の総力を挙げて清水(建設)をつぶしてしまう」

 「否認すれば一生刑務所から出られないようにしてやる」

 「逮捕当日から連日夜半までこのように拷問、脅迫としか思えない取り調べを受け、心身ともに疲労困ばいし、このまま牢死させられてしまうのではないかという恐怖感に襲われ、もうろうとした精神状態になり、検事が言うままの供述調書への署名指印を強要され、これに応じてしまいました。調書に書かれていることは架空の事実であります」

 これは建設業界の名門・清水建設の前会長・吉野照蔵被告の東京地裁における初公判での意見陳述で述べられた取り調べ検事の暴言の具体例であり吉野本人の陳述である。

 また収賄罪に問われている前茨城県知事・竹内藤男被告、吉野と同じ贈賄罪に問われている清水建設前副会長・神山裕紀被告も、吉野と同じような趣旨の意見陳述を行い、捜査段階の自白調書の任意性を否定する内容の陳述を行った。そして現金の授受そのものも否認し、無罪を主張し、検察側と全面的に争う姿勢を打ち出した。

 吉野は七十五才の高令で日本建設業団体連合会長の公職をも務めた業界の大物であり、竹内知事は選挙の結果県民によって選ばれた自治体の首長であり、これまた七十六才という高令だった。

 先に述べたリクルートの江副元社長は東大在学中から事業をはじめ、時代を先取りしながら事業を多角的に拡大、発展させていった経営者だった。しかし創業以来拡大してきた本業以外に手を伸して不動産事業や、ノンバンク業務がバブルの崩壊によってパンクし、旧知のダイエー中内会長に泣きつき軍門に降ったが……。

 いかに贈収賄罪で逮捕起訴された被告とはいえ、夫々の積み重ねられたキャリアがあり、ひょっとすれば被告の子息の年令のような検事が取り調べに当ったかも知れないし、被告にも人格、人権があり、夫々の社会的名誉もあるはずであり、取り調べ中の数々の暴言はこれらを全く無視したものだった。

 さて、ここで本論ともいうべき住銀・イトマン事件における証言の紹介に入りたいと思う。本論を前にしてまたもや少しペンがすべり過ぎたことをお許しいただきたい。

 住銀・イトマン事件の主役である伊藤寿永光の実兄泰治が、検察側の主尋問が終り弁護側の反対尋問のため出廷した。(河村良彦ら公判、第二十六回、平成五年三月九日)

 そもそも伊藤泰治は、最初は参考人であったがやがて実弟寿永光の要請による株券偽造行為のため、私文書偽造罪の容疑者となり取り調べをうけることとなった。しかし証拠不充分で不起訴となり釈放され、再び参考人に戻ったという人物である。その間なんと六十八回にわたり取り調べをうけたと本人は証言している。以下は本人が弁護人の尋問に答えた証言の要約である。

 取り調べの供述調書も相当の部数にのぼり夫夫押印したが、その内容については不本意な箇所が相当数あった。自分の全然知らないことも「オマエは寿永光の兄なんだから知らないはずがない。オマエは嘘をついているのだ」と強迫されて知っていることにさせられてしまった。

 自分の言いたいこと、主張を自分の口から積極的に言い出せなかった。というよりもとにかく言えなかったといってよい。検事は頭から自分の主張を採り上げてくれなかった。取り調べ検事から、

 「オマエ。またオレに“応援歌”を歌わせるつもりか!」 と大声で怒鳴り付けられたこともあった。また検事から調書(不本意な内容が相当箇所あったにもかかわらず)に署名しなければ、「女房、子供も引続き逮捕するぞ」と強迫され、精神的、体力的にも限界に達し、疲労困ばいその極に達すという状況だったこともあって止むを得ず署名指印せざるをえなかった。

 傍聴席の私は、“応援歌”とはどういうことなのか、意味不明で不審に思っていたところ、弁護人からもどういう意味なのかと質問があった。「検事が大声で怒鳴り散らす」ことを“応援歌を歌う”というのですと証人は小声でつぶやいた。

 弁護人の反対尋問は引き続き午後も行われるので、昼食の一時間の休憩時間に入った。午後一時過ぎ裁判長の開廷宣言後、伊藤寿永光の主任弁護人の竹村照男(その後伊藤寿永光が解任した)がやおら立ち上り、開口一番、

 「伊藤泰治サン。先程の休憩時間に昼ご飯をあなたは食べましたか」 と諭すように穏やかな口調で質問した。

 「いいえ、食べておりません。地検の主任検事に呼ばれて検察庁の方へ行っておりました。そこでよく考えて話をしなさいと言われました」 と言いにくそうに答えた。

 聞耳を立てていた傍聴人席もびっくりするような返事がかえってきた。休憩時間中の主任検事と証人との詳しいやりとりはわからないが、午前中の証人の検事取り調べ当時の生生しい強迫、暴言の数々を聞いていた主任検事が証人に午後からの証言に「無言の圧力」をかけたのではないかと私は推定している。

 この証人の返答をきいていた竹村弁護人は、今度は語気荒く、

 「検察のやり方は極めてアンフェアー、不公正、想像もつかないことだ。なんということをするのか。弁護団は証人とは事前に一度も会っていないし、もちろん反対尋問について何の打ち合せもしていない。反対尋問はいわば素手で聞いているのだ。本証人の供述調書は最後まで同意しないつもりであったが、伊藤寿永光の保釈のために涙をのんで同意したいきさつがある。泰治氏の供述に果して任意性があるのか。任意性のない調書は証拠にはならない。今後この法廷で明白にしていきたい」 向い側の検察官席をにらみつけ、よく通るドスのきいた声で食って掛った。

 つつましやかに生活し、街角の交番所はもとより、警察や検察庁のお世話になったこともないし、もちろん取り調べも受けたこともない一庶民にとって、目の前で実際に検事の暴言、強迫の被害をうけた証人から、具体的事例の生々しい証言を肉声で聞いて、世界に誇る日本の検察の取調べ室の密室で、実際にこんなことが起ってよいのか、全くの驚きであった。

 昼休みに近くの大正七年に建設された大阪中央公会堂の地下食堂で食べたカツカレーの辛さにいつもにはない苦味が混っているようで、後味の極めて悪い昼食だった。なお、この食堂は大正ロマンが香る庶民的な洋食堂で、高い天井にはむき出しの配管、大理石のテーブルが未だに残り、食券売り場のレジは木製の博物館行きの代物である。メニューには昔なつかしい「ハイシ・ライス」がある。

 また、箱根霊園融資十億円の小早川茂被告の公判に弁護人側の証人として出廷した河村も、逮捕取り調べ時の検事調書ときょうの証言内容との食い違いを指摘されて、次のように取り調べ時の状況について証言している。

 「イライラの連続で不眠が続き、また持病の糖尿病も悪化し、主任弁護人に申し入れし薬をもらい飲んでいた。また座骨神経痛もでてきて体が痛んだ。こんなことで判断がもうろうとしている状況下で、検事調書に押印した。調書の内容と実態は全く違うのです」(第十六回公判、平成五年五月二十八日)

 「人間にはコミュニケーション欲がある。独房に長時間入れ、食事を与えるだけで、一切の接触や刺激を断つと、早ければ二十四時間で幻覚が出てくる。そのうえで尋問すれば、誘導は思うままだ」(社会心理学者、一橋大名誉教授 南博)

 「取調室はいわば自白強要装置だ。冤罪の原点は供述調書の作成の仕方にあると思う」(作家佐木隆三、以上いずれも雑誌「AERA」平成五年十月二十五日号)

 もうひとつ、身近かな例をあげておきたい。イトマン本体やグループ企業の社員で事件の渦中やその周辺にいた者の相当数が参考人として事情聴取をうけ調書が作成されている。そのなかには証拠物として法廷へ提出されているものも多い。

 絵画取引きや審査担当の関係者のなかには、通算四十回余呼ばれた者もいる。自分が供述した内容とニュアンス、受けとり方が大きく異る調書が作成されていて、署名押印をちゅうちょしていると、署名を強請されたので、内容の訂正を要求すると、取り調べ検事が急に立ち上り、大声で「バカヤロー。これでいいんだ。何の文句があるのか」と怒鳴り付けられた参考人も私はよく知っている。容疑者、被告に有利なものは供述内容のニュアンスが変えられ、または採り上げられず捨てられてしまうのだということがよく理解できた。

 法廷における証人尋問は検察官又は弁護人と証人との間の一問一答形式で、時には証拠物(関係書類)を提示しながら進められる。この内容は、法廷正面の裁判官席の真下の書記官席で、一言一句逃さず記録され、後日速やかに速記録が作成され弁護人にも配布される。以前は人手の速記者による記録だったが、現在では録音テープを基にして速記録が作成されているようだ。

 時には、検察側が前回の速記録をもとにして、再度出廷した証人に対し、開廷冒頭にX丁(頁のこと)裏のX行目の部分が意味不明なので、念のため確認しておきたいと質問するケースもしばしばある。そして速記録を弁護人も了解し訂正したり、追加したりして念を入れている。

 また伊藤寿永光を平安閣グループの「総師」と証言したイトマン幹部(住銀OB)の証人は、次回出廷時に検事から、「総帥」の間違いではありませんかと訂正させられ、頭をかく場面もあった。これほど証言記録は厳密に運用されている。

 一方の、参考人、容疑者、被告らに対する検事調書の内容は一言一句供述通り記録されるのではなく、前に具体的事例をあげて説明してきた通りである。

 片や一言一句たがわず記録し、証人に念を入れて確認のうえ、訂正或いは追加する。一方では申し立ての内容とはニュアンスの違う、時には全然異る内容の調書を作成し、承認、署名指印(押印)を強要するという相反する極端なことが時には同じ法務省管轄下の部門で行われているということは注視すべきである。

 「正義の味方」の看板はどこへ消え去ったのであろうか、看板に偽りありというべきか。

 日本の刑事裁判の有罪率は九九%と極めて高いという。その理由は、検察が証拠の固い事件しか起訴しないことと、次に容疑者が素直に自白することだと言われているようだ。

 以上列挙したのは身近かな極端な数件の事例であって、供述なり自白のすべてに任意性が欠けているのではないかというような暴言を吐くつもりは毛頭ないが、九九%の有罪率のかげに隠されているものがあるのではないかと、釈然としないものがあるのは事実である。

 一庶民の立場からあえてここで問題を提起すべくこの一項をわざわざ設け記述した。願わくば、旧刑事訴訟法は戦前、戦後間もなくの時代の話であり、一連のゼネコン汚職事件の例や住銀・イトマン事件のケースについては公判の場を通じて、供述調書の任意性について、検察当局の事情説明なり、或いは弁護人側の反証によって、裁判所の判断を待ちたいと思う。


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