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第十七章 イトマン抹殺のシナリオ

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 (4)綿密に練られたシナリオ

 「企業とは、なぜこうも、こんなに、簡単に、消え失せてしまうものなのか!」

 これは百十年の老舗イトマンの今回の抹殺、七十三年の歴史をもつ名門商社安宅産業の昭和五十二年十月の無残な解体についての関係者らの偽らざる感慨である。

 年商二兆円の大手商社、かつては石橋をたたいてもなお渡らぬといわれた程の堅実経営を誇った安宅産業は、伊藤忠商事に五対一で合併され(奇しくもイトマンと住金物産との合併比率と同じである)完全に姿を消した。社名も残されていない。おまけに合併とはまさに名ばかりで「生体解剖」といわれた大手術のあと、わずか数千億円の商権(鉄鋼、化学品が主体)だけが営業権(のれん代)六十億円で伊藤忠商事に引き継がれた。繊維はもちろんのこと大手商社中一位の取扱い高を誇っていた紙・パルプ部門さえ、伊藤忠商事は引取りを拒否した。

 社員は最終的には一,〇五八名だけが伊藤忠商事へ行き、残りの七割強に及ぶ二,六二三名はさまざまの思いを胸に秘めながら、住みなれた安宅を去っていった。

 合併を前提とした昭和五十一年一月の伊藤忠商事との業務提携の発表以来、正式合併に至るまでの約一年半余にわたり安宅産業は、キズ口を大きく開いたまま棚ざらしにさせられた。商社というものは、絶えず動いている生きものであって、その活動が一時的にせよストップすれば、たちまち商権は死んでしまうものである。安宅産業の場合もご多分に漏れず永年にわたり培ってきた商権は四散、散逸し、同時に不良債券額も膨らんでいった。その結果同五十二年三月期の同社の決算は売上高は前年同期比二五%も減少し、総資産にいたっては三一%も目減りした。そして当期損失として一,三三一億円という巨額の欠損を計上した。

 産業史上最高の欠損といわれた三菱石油の同五十年(石油タンクの油漏れ事件発生)の三五〇億円の五.五倍に当る天文学的損失だった。この安宅産業の「生体解剖」は、戦後の経済史上の最大の悲劇といっていいだろう。

 この生体解剖の主治病院はご承知の通り住銀であり、執刀は当時の会長堀田庄三と副頭取の磯田一郎が担当した。そして磯田はこの合併について後世に残る名セリフ(?)を吐いた。天下の住銀の副頭取としては不用意きわまる発言だった。しかし彼の経営哲学と性格がもろに出たと見るべきであろう。

 「一,〇〇〇億円をドブへ捨てたようなものだ」と。

 住銀は同五十二年十月の正式合併発足を待たず、同年六月安宅産業問題の責任をとったのか、会長堀田庄三は取締役相談役へ、頭取伊部恭之助は会長へ夫夫退陣し、副頭取磯田一郎の頭取就任を発表した。これで堀田天皇の独裁政権が終焉したことになる。

 なお、作家故松本清張はこの安宅産業解体を題材にして、「空の城」という大作を月刊「文芸春秋」に発表した。(「文春文庫」に収録)

 いまは時間がないが、この原稿を脱稿すれば、住銀の手による安宅産業の生体解剖とイトマンの抹殺とを比較しながら、じっくり検討したいと思っている。参考までに巻末に私の手許にある安宅産業解体関連の書籍の一覧表を添付しておきたい。

 ここで話を十年前の同四十一年に戻したい。住銀はプリンス自動車と東洋工業(現マツダ)の二自動車メーカーのメイン・バンクだった。自動車メーカーはその傘下に数多くの部品製造下請会社を抱えているので、高度経済成長時代にはメイン・バンクとしては、多角的取引の展開をするのに大きなメリットがあった。

 プリンスは名車「スカイライン」を誕生させたが、住銀は当時の頭取堀田庄三の「国際競争の強化のため自動車産業の集約化は時代の流れだ」との大義名分のもと、日産自動車への合併劇を演じた。

 当時住銀はプリンス自動車へ約一三〇億円の融資があったようだが、プリンスを育成強化する方策よりも、自行の債権保全をはかりながら、合併により日産自動車へ入り込み第三位の取引銀行としての地位を確保し、そのメリットをとるといういかにも住銀らしい方策を選択したのだ。かくして名門プリンス自動車は消滅してしまった。

 このようにして、業容の拡大、何ものにも優先する自己利益の確保のためには、なり振り構わずあらゆる方策を講じ、一方、かつて「ドシャ降りの豪雨の時でも貸したカサの返却を強引に迫ってくる」「手のひらを返すよう心変りが早い」「逃げの住友」等々といわれたことがあるが、将来性のない企業、見込みのない取引先については、遠慮会釈もなく合併、抹殺、整理等を冷徹な合理主義に基づいて執行していった。

 さて、いよいよ本論のイトマン抹殺について論じたいが、まず第一に住銀の当時の頭取巽外夫のイトマン合併発表後のマスコミの取材に対する談話を紹介しておこう。曰く

 「イトマンの合併による解体は当初から私の頭の中にありました」(「日経ビジネス」平成四年十月十二日号)

 「うちにはほかにやらなくてはならないことがある。いつまでもイトマンにかかわってはいられない」(「AERA」平成四年九月二十九日号)

 「うちの行員にしても事件の悪いイメージを引きずっていくのはモラールにかかわる。肩の荷を降ろした気持だ」(「実業界」平成四年十二月一日号)

 「ああいうイメージの悪い会社を引き取ってくれた住友金属の会長に感謝したい」(前出「AERA」)

 次に頭取の片腕として暗躍した専務の西川善文は次のように語っている。

 前にも引用し重複して申訳ないが「イトマンファイナンスの内容は世間のノンバンク以上に悪い。平成三年の夏から七〜八割が利息延滞になっていた。こんな状態をいつまでも続けることはできない」

 「合併を一つの選択肢として考えてきた」
(「週刊東洋経済」平成四年十月三日号)

 これらの短い談話がイトマン抹殺のすべてを端的に物語っているように思う。

 新社長芳村昌一が社内外に強力に打し出していた「自力再建路線」(本章(1)で詳しく述べた)とは裏腹に、上の住銀二首脳の語録の行間からうかがい知れるように

 「イトマンの合併・解体」に加えて、

 「イトマン(伊藤萬)の社名の永久抹消」 のシナリオが特定のスタッフ限りで極秘裡に作成され、着々と実行に移されていった。

 合併会社の新社名の例として商社の実例をあげれば、日商(岩井)、兼松(江商)、金商(又一)、丸紅(飯田)のように被合併会社名が一時的にせよ残っていたが、安宅産業の解体時と同様にイトマンの場合は、業界から完全に抹消してしまうという当初からのシナリオだった。蛇に見込まれた蛙という言葉があるが、逆に蛙(非上場会社)が蛇(一部上場会社)を飲み込み、社名も一緒に蛙の胃袋の中へ入り完全に溶けてしまうという悲惨なものだった。

 住友金属(住金物産の親会社)のある首脳は「イトマンの名前が消されるのも、イメージが悪すぎて、そのままだと誰も手を出さないから」と語るに落ちるようなウラ話を明かしている。(前出「AERA」)

 イトマン社長芳村とともに自力再建路線を声高らかに合唱してきた副社長十河安義(住銀常務から平成二年十一月出向)は、彼の従来のハト派的路線が解体に差し支えるのであろう、更迭され平成四年六月通称サルベージのベテランといわれる吉田哲郎(融資第三部長)にバトン・タッチした。監査役だった中西弘之も同時に出向してきて夫夫副社長に就任した。この時点で大まかな住銀のコンテはできあがっていて、最終の仕上げの担当のため出向してきたと思われる。

 実は本章(1)で述べたが、同年七月末にイトマンOB会の年次総会が開かれた。冒頭の楽観的な社長挨拶終了後、住銀から出向の二副社長の紹介があった。当然のことながら、イトマンの再建、そして今後の業容の拡大等について、本人の抱負、決意とか方針の表明があるものと期待していた。OB連中は、どういう挨拶をするのか、興味と期待をもって聞耳をたてていた。ところがである。期待に反して、二人からは何の挨拶もなく、ただ「よろしく」と二人揃って頭を下げただけであった。心配して参集してきたOB達の中には「ふた言、み言、何らかの挨拶、決意のほどの表明があって然るべきではないか。失礼極まる」と激怒していた人もいたほどだった。

 しかし、今にして思えば、すでに住銀作・演出の「イトマン抹殺劇」のマル秘の台本が手許にあり、そのディレクターを担当する彼ら二名が例えば「イトマンの再建、そして往年の名門商社として名声を呼び戻すために、住銀も重大な責任を感じているので、資金、人的両面からの全面支援、協力を惜しまない所存」とはもとより、「合併を一つの選択肢として考えている」というようなことは口が裂けても絶対言えなかったわけだ。だからただ頭を下げての「よろしく」だけだったのだと思う。

 イトマン経営陣のうち大多数のヒラ取締役は合併発表当日の朝の取締役会で衝撃的な事実を知らされたわけだが、この衝撃をよそに舞台ウラでは諸準備は住銀出向者、本店の担当者らの手によって着々と進められていた。

 私の取材した二〜三の具体例をあげてみると、大株主に対する合併説明の役員の分担一覧表が発表当日の取締役会終了時に早早と手際よく配布された。各役員はこの分担一覧表にもとづいて午後から一斉に説明にかけずりまわった。戦前からの大株主に対し、在阪の本部長クラスが説明、了解に出向き、社長の訪問が後日になったので、先方の首脳は恩義知らずとその非礼に激怒したというオマケ話までがついていた。また、株主、取引先等からの合併に関する照会、抗議等に対してどのように返答するかQ&Aのマニュアルまで出来上っていた。

 社長と住銀より出向の副社長が声高らかに合唱する「自力再建路線」を頭から信じ込んでいた社員、OBらは完全にだまされたのだ。過去の関西相互銀行(当時)の強引な合併作戦にこりた住銀らしい表面を巧みに糊塗した欺瞞作戦だった。

 住銀の綿密に練られたシナリオに「一千億円無税償却の件」という一幕が書き込まれていたと思われるので、次につけ加えておきたい。

 それはイトマンの関連会社(不良債権受皿会社)トータルリゾートライフに対する住銀の貸付金一千一〇〇億円(伊藤寿永光の東京・銀座土地地上げ案件中心)のうち、一千億円について「回収不能」として放棄することを平成五年一月末の取締役会で決定した。平成五年度決算で一括無税償却する方針という。

 住銀は、かつて昭和五十二年九月期に安宅産業の解体で、一千一三二億円を一括償却した実績がある。いずれにしても無税償却と有税のそれとでは対象金額が巨額にのぼるので、住銀の負担は大きく違ってくる。前々からシナリオづくりの構想の中にあった無税償却だった。

 次に二人の両極端なコメントを挙げておきたい。

 「あんな不詳事は住友グループとして本当に恥ずかしい。オール住友マンとして(イトマンが)消えてうれしい」(住友グループ、白水会の企業のある首脳)

 「安宅産業の解体は安宅の失敗の尻ぬぐいであるのに対し、イトマン解体は銀行が手ごめにしたうえでの解体だから、これは文字どおり解体屋の名にふさわしい本当の解体である。マスコミについては住銀がメイン・バンクとしてイトマンという会社をどのように利用し、そこを解体していったのか、そこを突っ込まなければ事の本質は見えてこないではないか」
(龍谷大学教授、奥村宏。「週刊東洋経済」平成四年十月十日号)

 白水会メンバー首脳の「イトマンが消えてうれしい」という談話については、ついつい本音がでたのであろうが、遠足の前夜の小学生のようにはしゃぎまわってもらっては困る。これを読んだイトマンの社員、OBらは「怒髪天を突く」という激怒の領域を通り越して、声なき声をあげ、ただただ号泣、血涙を流したことを訴え、本項につけ加えておきたいと思う。

 もう一言。くどいかも知れないが安宅産業労働組合の書記長の解散パーティー(伊藤忠との合併の前夜)における特筆すべき最後の挨拶を掲載させていただきたい。

 「この一年九ヵ月、“合併”の名のもとに住銀の強行した安宅の解体は、文字通り生体解剖であり、日本の経営史上でもはじめて経験する『企業破壊』だった」

 住銀の意図した合併のシナリオについて読者各位のより深い理解を得るために、さらに参考までに時系列的にそのスケジュールを追ってみたい。そう込み入った複雑な交渉のプロセスは不思議なことに全くなかった。

 九月一日=イトマン社長芳村は八月の後半に住銀頭取巽にアポイントを採り、白旗をかかげ無条件降伏を申し出る。

 九月三日=頭取巽は早速住金物産社長山本順英に対し具体的話をし、先方社長は前向きの検討を約す。

 九月七日=芳村、山本両社長初会談、基本的に合併については早くもほぼ合意す。(住銀専務西川善文が立ち会う)

 九月八日=イトマン副社長(住銀出向)吉田哲郎、具体的詰めを住金物産側と交渉。

 (イトマン社長はこの日、河村良彦らの第十五回公判に証人として終日出廷し証言を行った。次回の公判にも引続き出廷したが、主任検事から「今にして思えば、前日の七日に住金物産社長と込み入った交渉をされたのか、相当疲れた顔をしておられましたなあ。大変でした」と慰めの言葉を受けていた)

 九月十七日=イトマン、住金物産双方正式に合併について合意に達す。

 九月十八日=記者発表。社員、OB、取引先等、青天の霹靂とばかり驚愕す。

 住金物産にとっては会社開闢以来初めての超重大意思決定だったと思う。検討する時間さえ長ければ解決する場面ではないが、土・日の休日を除外すると、なんと中一日という常識的には到底考えられない短時日で基本的に合意とする意思決定がなされた。今さらこれ以上のウラを詮索することは止め、賢明な読者各位の判断に待ちたいと思う。

 住銀頭取巽の次の談話で本項を締めくくりたいと思う。

 「住友金属(住金物産の親会社)の新宮会長に対しては、ゴルフや食事をしながら折にふれ『イトマンの状況を、マスコミに出ない話も含めて伝えていた』」(「週刊ダイヤモンド」平成四年十月三日号)
  
 (5)屈辱的合併発表の日

   ──平成四年九月十八日──  平成四年九月十八日(金)の午後五時十分過ぎだった。私の自宅のリビングの電話がけたたましく鳴った。あわてて受話器をとる。

 「野木君、えらいこっちゃ。イトマンが住金物産に合併されるそうや。詳しいことはまだわからんが、NHK大相撲中継を見ていた孫がそう言うてるんや、ニュース速報のテロップが流れたようや。とにかくまず君のところへ一報を入れたのや」

 イトマン元専務からの緊急連絡だった。この人は戦前の入社で半世紀にわたりイトマン並びにイトマングループ企業に勤務し、国内繊維部門長の担当が長く、かつては「相場の神様」と称せられた長老である。

 受話器を置く手が心なしか震えていたように思う。最近の流行の言葉で表現するならば、一瞬「頭の中が真っ白」なったような気がした。全く予想もしていなかったことで、まさに青天の霹靂「驚天動地」(これは住銀新頭取森川が前頭取巽から後継の指名をうけての記者会見の席上使った言葉で、日常あまり使わない用語だが、私の驚きの度合いを示すために敢えて使用させていただくこととする)の心境だった。

 大相撲秋場所(於東京両国国技館)六日目を中継していたNHKテレビが、五時過ぎに臨時のニュース速報を流したのだった。横綱不在の場所で西小結貴花田(現横綱貴乃花)が十四勝一敗で(一敗は対霧島戦)、初場所に続き二度目の優勝をとげた場所だった。人気力士お兄ちゃんこと若花田(現大関若乃花)は未だ前頭九枚目の地位だった。

 さて、各テレビ局の夕方のニュースの時間帯にはまだ早い。詳しいことは全くわからない。イトマンの関連企業の幹部たちや、OB連中の自宅へ電話をかけまくった。興奮気味でプッシュホンのボタンを押す手が小きざみに震えていた。

 「今日三時すぎから管理職全員を集めて社長から説明がありました。合併の相手先は住友金属工業の子会社の住金物産(非上場)で、合併比率は五対一、来年(平成五年)四月一日に合併、三月末日現在の従業員は全員引き継ぐという概要です。管理職は全く寝耳に水で皆茫然自失の有様です。それと残念ながらイトマンの社名は残らないようです」

 相手が非上場会社、合併比率が五対一、OB達の古巣の名前と百十年の歴史が消えてしまうという。さらにショックが加わってきた。とっさにあの住銀がすべてお膳立てをしたんだなあと直感した。

 午後六時からの民放各局のTVニュースのチャンネルをリモコンでめまぐるしくまわしながら、そして七時、九時からのNHKニュース、十一時からの民放ニュースの映像をくい入るように見つめていた。

 証券市場の後場終了時の四時半からの、そして土・日の休日を控えての金曜日の夕方を選ぶという念の入った政治的配慮をした発表だった。

 翌日の全国各紙朝刊の紙面は、第一面トップはもとより、経済面、社会面にはイトマン合併、消滅を報ずる大きな活字の見出しが躍り、関連記事で埋っていた。

 「自主再建を断念、本業軽視ツケ重く」
 「創業一一〇年“泡”と消え」
 「イトマン“消滅”・傷跡深く、無念の老舗」
 「住銀主導で具体化・住銀ギリギリの“買い手”探し」
 「河村商法の帰結、創業一一〇年の商号消滅」
 「住銀主導の荒療治・繊維業界は好意的」
 「“中興の祖”招いた破たん・夢と消えた老舗再建」

 私はお人好しすぎるのか、前に述べた社長芳村の自主再建路線を頭から信じ込んでいたので、合併のニュースはまさに寝耳に水「驚天動地」だった。加えて私のこの信じ込みをさらに確固たるものにした住銀の注目すべき動きがあった。

 合併発表の一ヵ月余前の八月十日に住銀系の不動産管理会社である田村町興産(本社・東京、社長住銀OB、イトマン元専務木下久男)が、大阪府民信用組合元理事長南野洋(不正融資の背任罪で起訴、判決懲役二年六月の実刑。本人控訴中)がオーナーの新千里ビルとグループ三社から、イトマン株二,七五〇万五千株を新らたに取得し、すでに保有していた四十万株余とあわせ一三.三二%を占める筆頭株主に一挙に躍り出た。取得価格は前週の市場価格の一株三五〇円、計九十六億円に達した。このイトマン株は、南野元理事長が伊藤寿永光、許永中らから貸金に対する「代物弁済」の形で取得したものと推定される。

 当時イトマン側はこの件について「南野氏から買い取り先の紹介依頼があり、再建に協力していただいている田村町興産にお願いした」と説明し、田村町興産側は「安定株主として長期保有する」とのことだった。(朝日新聞、日本経済新聞、八月十五日付朝刊)

 さらにイトマンは「筆頭株主が安定株主化したことは、経営安定化という観点から当社にとってプラスになる」と歓迎した。(毎日新聞、八月十五日付朝刊)

 一方、住銀首脳は「田村町興産は住銀とは関係のない会社。株取得は田村町の英断」と同行の本件についての関与を全く認めていない。(朝日新聞、八月二十一日付朝刊)

 イトマンの社長芳村は河村良彦らの第十五回公判(同年九月八日)に証人として出廷し、すでに終了した検察側の主尋問に対する弁護人の反対尋問に答えて、

 「田村町興産への今回のイトマン株の移動については事前に住銀からの話はなかった」と重大な証言をした。

 弁護人からはこれ以上の追求は残念ながらなかったが、イトマンの広報担当が発表した前述したコメントは、明らかに異る。このコメントが正しいとするならば、イトマンサイドから住銀→田村町興産に積極的にワークしたのであり、芳村証言をどう理解したらよいのか、判断に困惑する。

 うがった見方をするならば、イトマン抹殺、合併の青写真はイトマンの意思とは全く別個に住銀サイドの首脳間で極秘裡に練られ、この株式の買取りもシナリオの第X幕かに書き込まれていて、着々として閉幕に向けて準備されてきた。この時点ですでに芳村内閣は全くの傀儡政権化し、イトマン内では住銀出向の副社長ベースで事が運ばれていたと断定してもいいのではないかと思う。

 田村町興産のイトマン株の取得について、朝日新聞は(八月二十一日付朝刊)

 「イトマンの再建には刑事被告人らとの関係を断ち、安定株主が不可欠という住銀の戦略に沿ったものとみられる」 と解説した。私も本件については、これで住銀は本腰を入れて再建を支援するであろう。ただし、三年ぐらいは自力で経営し先行き見込みなしと判断すれば、住銀らしい冷徹な大ナタを振るうであろうと思い込んでいた。しかしこの思い込みは私の今日まで育ってきたイトマンの経営風土にも影響したのであろうか、極めて甘っちょろい皮相的、楽観的な見方に過ぎた。経営風土云々……については次の述べたいと思う。

 さて、事の真相、住銀の隠された意図はさに非ず。住銀グループが大株主となって、フリー・ハンドでイトマンの解体料理を思いのままできる外堀りの埋立て作戦だったのだ。副社長だった吉田哲郎は田村町興産の買取り以外にも、イトマン株集めに九州までとんだりして奔走していたという情報も後日私の耳へ入ってきていた。

 私はイトマンへ入社以来、温厚な、人間的暖かみのある、どちらかといえば学者肌のオーナーのもと、社員個人間、あるいは部門間の競争原理のほとんど働かない“仲良くお手々つないで”という家族的、温室的ともいえる経営風土、表現を変えればヌルマ湯の中で育ってきた。いわば秋霜烈日下にさらされていない育ちだった。イトマン社員全員がそうだったと思う。中には個性の強い豪傑もいたが、私の現役時代、繊維業界紙のあるベテラン記者にこう言われたことがある。

 「業界の会合がある場合、一番前の上席にドーンと座っているのが伊藤忠商事の社員だ。前の方の席が未だ多く空いているのに、後方の席の片すみに座ってジーッと待っているのが、イトマンの社員だ。おとなし過ぎるよ。もう少しいい意味での「ガメツサ」が欲しいね」
全体的におとなしいお人よしが多かったように思う。

 ひるがえって、住銀行員はきびしいノルマと収益中心の人事評定、評価制度、峻烈な競争原理のもと、他人をかきわけ押しのけて競争に打ち勝って来た人達。そしてエリートコースを外れた行員は五十才でもって第二の職場(関連企業、提携企業、取引先等)へ追いやられるという冷徹、峻厳な経営風土。その底流には住銀独特の冷酷な資本の論理が脈脈と流れていた。このような経営環境の中できびしく鍛えられた猛者連中だった。イトマンへ出向していた住銀のスタッフも副社長吉田以下エリート組ばかりだった。住銀本店サイドの担当グループも同様だったと思う。

 住銀グループのこのイトマン株の買取り作戦他のシナリオは表面を巧みに糊塗し、過去幾多の事例を経験して蓄積してきたノウハウをも充分に生かした住銀らしい巧妙なおん密、忍者作戦だった。まことに天晴れと言うべきか。

 五対一という合併比率、イトマン株価の大暴落をも想定し、巨額の株価評価損をも考慮に入れての長期戦略にもとづく、九十六億円という巨額の資金を投入しての買取り作戦だった。

 先にイトマンと住銀の経営の規範というか、その哲学の相反する極端な相違について忌憚なく述べた。今回の住銀の筆頭株主となってのフリー・ハンドによる解体料理作戦については(これだけではないけれども)役者が揃い、イトマンよりは一枚も二枚も上だった。温室育ちの人のよいイトマン育ちでは到底立案することも実行に移すことも無理だった。完全に“してやられた”というのが正直な実感であり、感慨である。

 さて、ここで付け加えておくと、田村町興産なる会社は昭和五十一年住銀が平和相互銀行の合併を決定した直後の六月に設立され、平和相互の不良資産の処理に当った企業である。社長には住銀OBでイトマン元専務が社長河村により解任され、しばらくイトマン系の情報処理会社の社長になっていたが、そのご間もなく就任している。その他の幹部も住銀OBで占められている。イトマンの抹殺にあたっても不良債権一,三〇〇億円を買取るなど「住銀の別働隊」と称せられて活動してきた。

 住金物産との合併発表の翌十九日以降二〜三日は、何をすることなく無為に一日をボーッと過していた。わが女房殿からは「あんた、どないしはりましたんや。元気がおまへんで。そんなにイトマンがこたえていますのか?」といわれたほどだった。

 親しいOB連中からは、しばらくの間夕食後の八時ごろしきりに電話がかかってきた。

 「野木君か、えらいことになってしもたなあ。住銀もえげつないなあ。ほかの銀行やったらここまでの荒療治はようせんで。あんまりムシャクシャするもんで、いつもより晩酌のビールを一本余計に飲んでしもたわ。野木君なあ、来年の四月一日付で漢字のなつかしい伊藤萬株式会社を設立し、法務局へ登記しとけへんかあ。仮名のイトマンはあかんで。河村良彦のあの忌わしいダーティー・イメージがつきまとっとるからなあ。くれぐれも漢字やで。とりあえず発起人になってくれよ」

 ほろ酔い機嫌もいくらかは交っていたが、国内繊維部門のベテラン営業マンだった先輩からのど真剣な迫力のある訴えだった。古巣伊藤萬株式会社に対するいわれぬノスタルジアがにじみ出ていた。

 私にとっても平成四年(一九九二)九月十八日は一生忘れることのできない日となってしまった。


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