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第十七章 イトマン抹殺のシナリオ

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 (1)「自力再建路線」の突然の崩壊

 平成三年一月の社長河村解任のあとをうけて新社長に就任した芳村昌一は、早速再建計画の検討、策定に取りかかった。

 そして同年三月には「WELL 一一〇プラン」と称する再建三ヵ年計画を社内外に公表した。一一〇プランというのは平成五年には創業百十年の記念すべき年を迎えるので、こう命名したという。三年目に当る平成五年には売上高八千億円、経常利益約八十億円という実現すれば再建三年目としては素晴しい営業計画だった。当時、新聞紙上及びOB連中にも送付されていた社内報でこの計画をみた私にとって、正直いってずいぶんと背伸びをした計画だなあというのが偽らざる印象だった。公表したのは住金物産との合併発表のわずか一年半前の時期だった。社長芳村が自力再建断念の引き金となったと力説する子会社のノンバンク「イトマンファイナンス」の融資実態、滞留債権の内容も当然把握されていたと思われる。河村解任後新規の貸し出しは中止していたはずである。

 その後の一年間で不動産業界の極度の低迷によって融資先の経営状態が若干変化したという要因はあったかもしれないが……。ここで住銀専務西川善文の次の談話を引用し、つけ加えておきたい。

 「平成三年の夏からイトマンファイナンスの融資残の七〜八割が利息延滞、未回収になっていた。こんな状態をいつまでも続けることはできない」
(金融ビジネス「住友銀行の始末と責任」平成四年十一月号)

 さらに社長芳村は同年八月二十一日には、九月中旬決算見通しについて、経常利益十五億円について計画通り確実にクリアーの見込みと発表した。そして、来年三月期には「復配」を目指すと早早と強気の発言をつけ加えた。この時期に復配を口にするのは、対外的政治的配慮もあったのであろうが不用意な発言だった。この発表の約九ヵ月前には住銀から常務十河安義(元名古屋支店長)が四名のベテランスタッフを引きつれ、副社長含みでイトマンへ派遣されていた。もちろん河村政権時代だった。このチームの手によってイトマン並びにグループ企業の経営実態は的確に洗い出され、将来展望も含めて本店首脳へも報告されていた時期だった。

 次に、社長芳村は同社の社内報(同年九月発行、秋季号)に社長の基本方針を掲載し、

 「すでに長いトンネルの出口はわれわれの視野に入っている。その先きには“光り輝く未来”が確実に待っているのである」 と学生時代好きな演劇の世界に没頭していた芳村らしい文学的表現で結んでいる。合併発表の丁度一年前の秋口のことだった。

 さらに芳村は平成四年五月二十五日、平成三年三月期決算のプレス発表を行い「再建の第一次ステージは終り、これからは第二のステージだ」と強調し、次期については売上高六千億円、経常利益二十五億円を目指し再建に全社あげて努力すると強調した。

 この一ヵ月後に定時株主総会が開かれ、社長は記者発表時と同じく「経営三ヵ年計画に沿って懸命の経営努力を行った結果、再建を期した初年度としてはまずまずのスタートを切ることができました。引き続き三ヵ年計画に従い整斉と事業の拡大を進め再建に向け邁進する所存でございます」と出席株主の前で明言した。私の手許にある「第一二五回定時株主総会招集ご通知」を改めてひもといても、営業報告書の営業の経過及び成果並びに今後の課題の項に同様の趣旨のことが明確に印刷されてある。

 夫々合併発表のわずか約三ヵ月〜四ヵ月前に、最高責任者が堂々と第一次再建ステージは終り、第二ステージにむかって邁進するとだれはばかることなく公言していたのである。

 また、副社長十河安義が融資第三部長だった常務吉田哲郎にバトンタッチし退任するに当り、その挨拶文が社内報(同年七月発行、夏季号)に掲載されている。この内容、背景は重大なことなので、第三項で改めて詳述したいと思うが「第二次ステージとしての本格的再建に取り組んでもらいたい」と、社長芳村とは表現こそ若干違え、全く同様の趣旨の激励文をしたためている。合併発表のこれまた三ヵ月前のことだった。「がっぺい」のがの字もこの激励文から読み取ることはできない。

 少しくどいようだが、是非書き加えておきたいことがある。同年七月二十四日夜「イトマン社友会」と称するOBの親睦組織の年次総会が大阪の名門“綿業倶楽部”の大ホールで開催された。当時の会員数は全国で約六三〇名が登録されていた。当夜は例年よりは多い関西在住の約三〇〇名近いOBが古巣の現状、これからの先行きを憂慮して参集した。

 開会の冒頭挨拶に立った社長は──ほおの肉はこけ、頭髪は薄くなり、すっかり憔悴しきった同情すべき姿だった。

 「先輩各位にいろいろご努力願い発展をとげてきたイトマン・プロパーの繊維、食糧、産業機械、鉄鋼等の各部門はまずまず順調に推移し、軌道に乗ってきているのでご安心をいただきたい」と明言した。

 一年ぶりの再会で歓談、旧交を温め合ったOB連中は、この社長の挨拶でまずは一安心と安堵の胸をなでおろす心境で時の経つのも忘れ話し合った。八時前に閉会になったが、帰り際私の乗り合わせたエレベーターの中で、あるOB長老が「今の芳村君の話ではなんとか自力でいけそうやなあ。よかった。よかった。ほんまによかった」としみじみ言い、皆うなずき合いながら、ビールと水割りでほんのりとほおを染めたOB連中は上機嫌で足取りも軽く家路を急いだような次第だった。

 これまた合併発表のわずか二ヵ月前のできごとだった。  また、日経新聞(同年九月七日)は、九月期中間決算各社の見込み数字を掲載した。

 イトマンが日経新聞へ連絡した見込みは次の通りだった。

         (見込み)    (前年同期)
 表上高    三千億円    (二千九百五十三億円)
 経常利益   一二億五千万円 (一五億四千七百万円)
 税引後利益  一二億五千万円 (一三億五千万円)

 合併発表の十日前だったので、見込み数字の実態数字への大巾修正の仕様がなかったと思うが、九月十八日合併発表記者会見時の、期末の利益見込みは(−)一七〇億円、特別損失七三〇億円、当期損失九〇〇億円という散散の目を覆いたくなるような数字だった。

 以上自力再建可能をうかがわせる芳村発言他具体的な七事例について述べてきたが、株式市場、一般株主、取引先、社員並びOBらを欺瞞、愚弄するも甚だしいと言わざるをえない。

 また、平成四年三月度決算では重要連結決算子会社であるイトマンファイナンスの経営実態、その惨状は隠ぺいしていたのである。イトマンファイナンスを含む重要な子会社四社の売上高は合計一,〇六三億円、当期損失はわずか計三億円が計上されているだけである。

 再建イトマン丸の舵をとる最高責任者の船長の立場としては、いたずらに取引先、金融機関等に信用不安を与え、社員に将来の希望を失わしめるようなペシミスティックな言辞を弄することのできないことは充分承知をしているつもりである。しかし以上述べてきた具体的事例についてはその限度を越えて容認することのできない擬装する内容だったと思う。

 自力再建の内外への自信に満ちた社長表明と、非上場企業との五対一という合併、しかも百十年も続いた社名も消滅してしまうという屈辱的合併という事実を対比する時、両者の間には内容的に、かつ時間的な落差があまりにもひどすぎると思う。

 九月十八日の合併劇に至るまでの擬装プロセスはかねてよりの住銀作成の極秘シナリオ通り演じられたと敢て断言しておきたい。このくだりは第四項で詳しく述べるので期待していただきたいと思う。

 かくして社長芳村の唱えた自力再建路線なるものは、住銀の手によって音をたてて崩壊していったのである。

 本項の締めくくりとして、雑誌「潮流ジャーナル」(同年十一月号)の記述を紹介しておきたい。

 「過去の洪水的なイトマン事件の報道で、その経営実態はすべて明らかになったように思われていた。しかしそれは誤解だった。イトマンは最後の最後まで白々しい嘘をつき続けてきた。平成四年三月期の決算発表で芳村社長は「再建の第一ステージは終了した」と言える状況ではなかった。第二のステージなど想像だにできないはず。ぬけぬけとよく言えたものだ」ときびしく糾弾しているのである。まさにこの報道通りであった。

 擬装的自力再建路線の本章(4)で述べるコンテに書かれた通りの崩壊だったのだ。
  
 (2)御前会議なきポツダム宣言の受諾

 話は遠く五十年前の太平洋戦争の敗戦時にさかのぼる。当時の鈴木貫太郎内閣は連合国側から提示のあった「ポツダム宣言」の受諾を決定し相手側へ通知した。この受諾によって、かつて大東亜共栄圏の建設を夢見た皇紀二,六〇〇有余年の輝く大日本帝国はもろくも崩壊してしまった。この運命の日は昭和二十年八月十日だった。

 この受諾に至るまでには、最高戦争指導会議、或いは閣議でも、受諾派、徹底交戦・本土決戦派及び国体・天皇制護持の条件派らに分れ、侃侃諤諤の白熱した議論を繰返えしたが、どうしても結論がでなかった。そこで遂に八月九日深夜から翌払暁にかけての御前会議に臨席された昭和天皇の“耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び……”との聖断が下り、ポツダム宣言の受諾が最終的に決定されたという経緯があった。最後まで本土決戦を主唱した阿南陸軍大臣は、自らの責任をとり官邸で日本刀で自らの腹を割き切り壮絶な自刃を遂げた。

 ひるがえって話を現代のイトマンに戻すこととする。社長芳村昌一は住銀頭取巽外夫を訪問し、「合併を視野に入れた新再建策が必要……。自力再建路線は放棄せざるを……」といわば無条件降伏を主力銀行頭取に申し入れた。不謹慎な言い方をして叱責をうけるかも知れないが、社長芳村が頭取巽に呼びつけられ──またまた太平洋戦争の例を挙げて恐縮だが、太平洋戦争開戦当時、南方方面へ破竹の進撃をした大日本帝国陸海軍はマレー半島も制圧し、シンガポールで当時の陸軍の軍司令官山下奉文大将がイギリス陸軍のパーシバル将軍を相手に無条件降伏を迫り、「イエスかノーか!」と二者択一を強要したという有名な逸話が残っている。先年私がシンガポールへ旅した時、戦争資料館内にろう人形によってこの場面が再現されていたのを思い出す。イギリス、シンガポールにとってはまさに屈辱的な永遠に忘れ去ることのできない事件だったのだろう──

 芳村が「合併のうえ存続か、然らずば会社整理か」と迫まられたのが真実ではなかったのかと、私は独断で推測しているのだが……。

 イトマンにとってのこの運命の日は、平成四年九月一日だった。翌年四月一日の合併吸収を考えるならば、八月末がまさにギリギリのタイム・リミットだったと思う。この九月一日に一世紀余の百十年に及ぶのれんを誇る老舗イトマンは、無残にも崩壊し抹殺されたのである。太平洋戦争の例でいうなれば、まさにポツダム宣言の受諾だった。

 九月十八日のイトマン取締役会の形式的承認や、対外発表、十一月三十日の合併契約書の調印は単なる手続き、セレモニーに過ぎなかった。

 昭和二十年八月十五日正午からの昭和天皇による終戦詔勅の玉音放送や、東京湾上アメリカ戦艦ミズウリー号上におけるマッカーサー元帥と重光外相による降伏文書の調印に類するものだった。イトマンのすべての運命は平成四年九月一日に実質的に決せられたのだ。

 ポツダム宣言の受諾に伴い、阿南陸軍大臣は割腹自殺により自らの責任をとり、そして鈴木貫太郎内閣は総辞職し東久邇稔彦内閣が誕生した。ひるがえってイトマンの芳村内閣は一人の重要閣僚の辞任も、また降格もなく居すわり、最高責任者の芳村は遺憾ながら、新住金物産のわざわざ新設された副会長のポストへ横すべりなだれ込んだ。代表取締役としての経営責任をいかように考えているのか、無責任極まる対応だったと思う。本件については過ぎ去ったことではあるが、エピローグ(2)項で採りあげ糾弾するつもりである。

 さて、ここで本論に関連する見逃すことのできない重大事項が潜在しているので特記しておきたいと思う。

 イトマン消滅について大々的に報道し、各種のシリーズものや特集を組んだマスコミも全くこれから述べる点には触れてないし、イトマン内部のこととは言え指摘も全くしていない。

 実は、イトマン開闢以来の会社存亡にかかわる超重大意思決定が必要であるにもかかわらず、無条件降伏申入れの九月一日以前に、代表取締役で構成される経営会議が正式に開催され、会社の存亡を決する白熱した議論がなされた形跡が全くない。「合併発表の九月十八日の朝はじめて知らされた」とマスコミに公言した代表取締役副社長すらいたほどだった。とんだハプニングと言うべきか。 非常に重要な証言なので本件に関するマスコミ記事を次に引用しておこう。

 「イトマン副社長(筆者注・東京駐在)は十月からスタートするイトマン・住金物産合併準備委員会設置を前にして、イトマン側の合併に対する基本的考え方を語った。発言の要旨は次の通りである。

 『この種の案件は管制が厳しいもの。副社長の私ですら合併を知らされたのは記者発表当日の十八日の朝だった。自力再建を目指していただけに驚いた。ただ、ファイナンス分野での厳しさは理解していたし、経済環境も悪化しており、いまにして思えばこの道しかなかったのかも』(繊維の業界紙「日本繊維新聞」平成四年十月一日付)

 この副社長は安宅産業出身でイトマンが安宅の繊維部門を吸収した年(昭和五十二年七月)の十二月に安宅移籍組の中から一人だけ取締役に登用され、爾来矢継ぎ早やに常務、専務と昇進し、芳村政権になってから副社長に登用された人材だった。持ちまえの商才と柔軟性、巧みな社交術で河村側近として重用され、約十五年の永きにわたり河村政権の重要閣僚として活躍した人物だった。イトマン旧経営陣の中では最長老であり、もちろん社長芳村よりは役員就任期間ははるかに長期だった。このように経営の中枢にあった副社長がつんぼ桟敷に置かれていたのは特筆に値し、今回のイトマン合併、消滅劇の舞台の裏側が見通せるように思う。

 社長芳村昌一の次のような証言もある。週間経済誌の「日経ビジネス」記者のインタービューに答えたものである。

 「イトマン側の作業は極秘で進め、九月十七日両社が合意に達するまで、合併について知らない役員もたくさんいました。実は伊藤会長にも内緒でした。限られたトップだけの秘密事項で、それも私が個別に話をしました」
(「日経ビジネス」平成四年十月十九日号)

 後日イトマンに伊藤会長を表敬訪問した折、本件を確認したら「発表前日の九月十七日夜に芳村社長から聞いた。彼は淡々としていた」とのことだった。一週間前の十日ごろに是非話したいことがあるとの申し出が芳村社長から伊藤会長にあったようだが、双方のスケジュールが合わず、前日の夜になってしまったとのことであった。

 すでに述べたように九月一日に全面降伏の申し入れをしたのであるから、伊藤会長には──たとえ代表権のない会長職であっても──九月一日以前に実態を詳細話す筋合いのものだし、創業者伊藤家に対する誠意があって然るべきだったと私は思うのだが、極めて残念だった。九月一日以降であれば前日であろうと一週間前であろうと実質的には同じことである。イトマン株式会社としての意思決定がすでに社長によってなされてしまった後だからである。

 ちなみに前に述べており重複するが、伊藤会長は創業者伊藤家の直系であり、三代目社長伊藤良三の次男である。

 合併発表の当日朝九時から開催の経営会議で合併覚書の調印を決定、引続き十時三十分からの取締役会で承認された。前日の十七日に両社合意しているわけで、全く商法上の形式を整えるだけのセレモニーだった。恐らくヒラ取締役のほとんどはこの日にはじめて合併の事実を聞かされたものと推測される。彼らにとってはまさに青天のへきれきだったろう。議事進行、司会を担当した常務によって上提されたが、内容の説明終了後すぐさま次の議案へ移り、意見とか質問とかを発する精神的、時間的余裕は全くなく虚を衝かれたようなかたちだったようだ。

 さて、河村政権誕生以前の私の育った時代──すなわち昭和二十年代〜四十年代──のイトマンの資本金は、六億円→十二億円→二十四億円の過少資本金だった。従って株主も金融機関及びメーカー等の取引先、社員を中心とする安定株主層が中心だった。しかし今や資本金も五四〇億円にも達し、発行済株式数は約二億株余、株主総数も約一四,〇〇〇名弱に達する規模にまで膨張していた。これら株主からの委託をうけて経営の任に当っているイトマン経営陣は「合併を視野に入れた再建策の住銀への申入れ」「合併覚書の具体的内容の子細な検討とその承認」これらについてどういう社内手続きを経て検討、議決したのか。

 社長本人の前述した証言の通り、少数のトップに個々に話しただけという。経営陣の中枢にいた最長老の副社長は事前に相談をうけていないという。とんだオマケまでついた仕末。経営会議若しくは取締役会での「社長にすべて一任」の議決すらとっていない。

 なお、後日イトマン首脳は、副社長の「合併の事実は当日朝はじめて知った」という新聞記事は事実ではない。誤報であってそんなことはあり得ないと頭から全面否定したが、私の手許には前出の日本繊維新聞の記事コピーがあり、これを第一に信用し、イトマン首脳の発言はここでは捨象したので申し添えておきたい。

 これら一連のイトマンサイドの意思決定とは裏腹に、住銀の専務西川善文(今回のイトマン合併劇の総合プロデューサー)は週刊経済誌「ダイヤモンド」の取材にこたえて図図しくも次のように語っている。(平成四年十月三日号)

 「イトマンの社内がしっかり現実を認識してくれないとどうにもならない。合併というものは押付けや強制ではうまくいかない。単独で自力再建は難しいとの判断が浸透してくれるのを待った。それが七月ごろだった」と。だから九月一日の芳村社長の申入れがあったとし、イトマンサイドのコンセンサスの集積による自主判断だったと言いたげである。

 「七月ごろだった」という時期の特定があるが、読者各位は前(一)項で述べた七月下旬のイトマンOB会における社長の開会挨拶を思い起していただきたいと思う。「イトマンプロパー部門は順調に推移し軌道にのりつつあるので、先輩各位はご安心をいただきたい」

 また、くどいがイトマン長老副社長の言葉を再度引用することをお許しいただきたい。

 「合併は、自力再建を目指していたのにビックリした」

 住銀専務西川は対マスコミ、あるいは世間一般に対し今回の合併について完全な理論武装をしたつもりであろうが、得てして作り事は、どこからか水が洩れたり、あるいはボロがでるものである。先に述べたようなイトマン内部の意思決定の状況、御大芳村社長、副社長らの発言との間には大きな落差があり過ぎる。イトマン社内におけるコンセンサスはどこをさがしても見当らない。

 さらに住銀頭取巽外夫は同志編集部の

 「イトマンの認識が遅れて十月になったらどうしたか」という質問に対し、苦笑しながら

 「それはそれ、以心伝心というものがあるじゃないですか」と語るに落ちたというか、住銀の意向が裏で働いていたことを暗に認めている。  要するに住銀サイドが前もって極秘裡に慎重にベールをかぶせて敷設したレールの上を社長芳村が、住銀管制塔のコンピューター制御をうけながら脱線しないように、極秘レールは秘匿しながら安全運転をしてきたということだ。敢てここで低俗な表現をするならば住銀サイドのうち鳴らす太鼓によって踊らされた猿まわしの猿に等しい存在だった。傀儡政権の単なるかざりに過ぎなかったのだ。そして芳村を取りまくイトマンプロパーの経営陣は河村時代に去勢され飼い馴らされたふ抜け集団だった。プロパー役員は総勢十六名(内代表取締役二名)もいたのだが……。

 なぜならば、「百十年の歴史を誇るイトマンは住銀出身の河村とそれをとりまく住銀OBの役員、理事らの手により、そして住銀本店にもさんざん利用されて、主力銀行としての機能も充分果さずにあげくの果ては無残にも抹殺されてしまった。大方の責任は住銀サイドにある。責任をもって再建処理をしてもらいたい!!」とプロパー役員十六名が辞表を束ねて社長芳村に預け、声明文を公表して住銀頭取巽外夫にたたきつけるぐらいの勇気と決断があって然るべきだったと私は思っている。若しこうした事態が発生しておれば、仮定の問題なので住銀の対処方法は予測し難いが、世論、マスコミは全面的に理解、応援してくれたものと考えている。

 昭和二十年八月、鈴木貫太郎内閣は度重る重要会議で白熱の議論を重ねるも、ポツダム宣言の受諾について最終結論がでず、遂に昭和天皇臨席の御前会議の結論にまで持ち込んだ。大日本帝国の命運を決するターニング・ポイントだった。

 一方、イトマンではその命運がつきはて、社名までもが永久に消滅してしまうという重大転機に、経営陣の決議による正式の実質的な意思決定が全く存在しなかった。当日の取締役会の決議が形式的にせよ存在するのだから、商法上は瑕疵はないとしても、実質的な意思決定について合併覚書をくつがえすような重大な瑕疵があったと敢て断言したい。今さら言っても犬の遠吠えのようなものだが、声を大きくして記録としてとどめておくため指摘しておきたいと思う。

 本項のタイトルに敢えて「御前会議なきポツダム宣言の受諾」とつけた──若い世代には理解してもらえないと思うのだが──所以もここにある。
  
 (3)副社長(住銀出向)の奇怪な退任挨拶

 平成二年十一月十六日、イトマン河村社長と住銀の巽頭取がそれぞれ別個に午後三時から記者会見をした。イトマンの経営健全化を進めるため、住銀の十河安義常務・名古屋支店長が十九日付で、イトマンの副社長含みの顧問に就任することなどを柱とする派遣人事を正式に発表した。巽頭取は「十河君はイトマンの副社長級の顧問ということで、河村社長に了解してもらった。彼は東洋工業(現マツダ)や関西汽船の再建を私と一緒に手掛けたこともあり、今回の問題に取り組むのにふさわしい人物と判断した」と同常務の選考理由を述べ、「銀行の押しつけでは決してない」とわざわざ断りの文句をつけ加えた。

 一方、河村社長は巽頭取と一応口裏を合せたのか「私からの要請だった。社長補佐役として不動産投融資の圧縮の責任者にすえる」との方針を明らかにした。両者は双方の合意人事であることを殊更のように強調した。

 また、かねてから住銀会長、頭取から強い要請をうけていた自分自身の経営責任進退問題については「会社が赤字になったわけではないし、家族を含めグループ二万人のトップとしてまだまだやることがある」と社長職に引続き留まることを強調した。巽頭取も「進退については一切話はしていない」と河村発言をカバーした。本来なれば共同記者会見をやってもいい場面だったと思うが、多少のきしみはあったにせよ表面上は実態とは裏腹にとにかく蜜月ぶりを演出した記者会見だった。

 会長磯田の辞任以来、住銀サイドは常務伊藤寿永光の退任と、河村自身の勇退、及び不動産投融資の大巾圧縮等をきびしく迫り、河村はこの要請に対しはげしく抵抗し、水面下では丁丁発止のせめぎ合いが熾烈に火花を散らしてなされていた時期だった。

 さて、イトマンへ派遣された常務十河は昭和三十七年の入行組。十五年後の昭和六十二年には早くも取締役に登用され、平成二年十月には同期生のトップを切って常務に昇格したエリートだった。イトマンへの出向辞令時は名古屋支店長だった。住銀頭取としてはいわばエース級の投入だったと思う。

 私の現役のイトマン名古屋支店長時代、住銀との取引窓口は名古屋支店だった。この名古屋支店は東海地区七ヵ店の母店で、歴代支店長はエリート組で、私のわずか二年半余の勤務期間に、住銀支店長は早早と三名が交替した。いずれも常務取締役であった。あまり長期にわたり同一支店にいるとエリートに傷がついても困るのか、一年余ぐらいの就任期間で本店へ異動し、程なく専務取締役に昇進するというプロセスだった。三人の元支店長は大阪ロイヤルホテルの会長、明電舎の会長、NHK関連企業の首脳として活躍中ときいている。このように名古屋支店長はエリート組の通過ゲートのひとつであり、十河安義もそのメンバーの一人だった。

 このエース十河は新設の社長室(社長直轄)の担当となり、十河とともに出向した前営業審査部長が社長室長に就任した。メンバーは総員五名だった。そこへイトマン社員約十五名が加わり、不動産投融資、債務圧縮のプロジェクト・チームを結成し、併せイトマン本体並びに主要関連企業の実態の洗い出しを精力的に実施した。過去河村方針に基づいて住銀への報告を意識的に実施しなかったり、あるいは秘匿していたものも明白になってきた。その極端な実例をここで一つだけ挙げておきたい。

 河村は常に「子どもも成人したし、わたしはもう金はいらない」と幹部ら周辺に話し、報酬は据えおいていた。副社長(財・経担当)の法廷証言によれば、彼の最終時の年収は、二,八〇〇万円、社長河村は二,〇〇〇万円とのことだった。世間の常識では考えられない副社長の方が四割もの高給をとっていたことになっていた。住銀から退任を要求されていた河村は「イトマンには家族を含めグループで二万人の生活がかかっている。私利私欲で社長の椅子にしがみついている訳では決してない」と大見えを切っていた。これらはあくまでも表向きのことであり、彼の得意のパーフォーマンスだった。ところが裏では自分の年間報酬を取締役会にかけることもなく、平成二年十二月に一挙に三倍半の七,〇〇〇万円に引き上げる決定を勝手に行い、六月の株主総会以降十二月までの増額分の差額三,〇〇〇万円を受取ることを自分で決定した。そして同月二十日には税引後の二,二〇〇万円を小切手で受取っていた。しかし、悪いことはできないもので社長室の住銀派遣チームがこれを発見し、約一週間後には回収するというとんでもないハプニングが起った。報告をうけた住銀頭取巽は「会社がつぶれかかっているのにお手盛りなんて何事だ」と激怒し、この報酬の大巾引き上げは認めなかったという。河村は側近や周辺に「金利の支払が大変だ」とよくこぼしていたという話である。イトマン株購入のための地銀からの借入れ金五億円の金利(当時の月額支払金利の推定約二〇〇万円)の支払いのことだった。

 かくして十河をチーフとする社長室チームはイトマングループ全体の経営実態、特に底辺に滞留堆積しているヘドロについての精査は終了し、再建策の検討、実行という前向きの作業にとりかかっていた。しかし残念ながらチーフ十河は僅か一年半余で平成四年六月に融資第三部長の常務吉田哲郎にバトン・タッチすることとなった。私は当初この住銀の人事異動をきいて、折角馴れて実態もよく把握した人物をなぜこの時期に変えるのか不審に思ったが、実はこの時すでにイトマン抹殺の基本シナリオはでき上っており、吉田はその最後の仕上げのため交代したのだった。

 この十河がイトマンの副社長を退任するに当り、社内報(平成四年七月発行、夏季号)に奇怪千万な挨拶文を寄せている。いよいよ本項の目的であるこの不思議な挨拶文の解明に入りたいと思う。この号の社内報の表紙には、バルセロナオリンピックに出場するイトマン・スイミング・スクールの千葉すず選手の真紅のユニフォームを着てにこやかに笑う横顔が載っている。

 「応急処置と経営正常化に重点を置いた再建の第一ステージは何んとか一つの区切りをつけることができたのではないかと考えます。そして、これからは第二のステージとして営業力の強化を中心とする経営体力の増強に主眼を置いた、本格的な再建に取り組まなければなりません。

 当社の現状を個人の家にたとえれば、突然の出火に対して家族全員が懸命に火の粉を払って消火にあたり、一応人が住めるような家になるまで修復しなおした処ではないかと思います。

 次のステップとして安定した生活が営め、子供の教育とか隣近所との付き合いも十分できるような、いわゆる「一人前の家」にしていくことが目標であります。

 イトマンが一日も早く名門会社としての栄光を取り戻すことを念じます。私といたしましてもイトマンOBの一人として気持の上では、これまで以上に支援を惜しまぬ所存であることを申し添えます」

 これが退任挨拶の重要な部分の引用である。

 「再建の第一のステージは終了、これからいよいよ第二ステージへ……」というくだりは社長芳村の対内外発表のコメントと同じである。この文章から、しかも住銀から乗り込んできた副社長ともあろう人物の書いたものから、だれがあの忌わしい合併を想像し得たであろうか。行間から合併の気配すら察することはできない。

 私はこの退任挨拶を読んだあと、イトマンのある幹部と面談の際、この原稿は社内報の編集部が退任挨拶欄の企画をたて、特に副社長に原稿の起草を依頼したのか、それとも副社長自らの意思で原稿をもち込んできたのかを問いただしたことがあった。答えは後者であり、自らペンを採り作成し掲載方の依頼のあったものであることが明白になった。

 この挨拶文の内容、真意の解釈をめぐり相反する二説がある。これを紹介しておくと、その(一)は住銀の手によるイトマン抹殺の基本シナリオは、この時点に於てすでにできあがっていたし、着々と水面下で諸般の詰めが行われていた。副社長十河もこのシナリオづくりの重要スタッフとして参画していたが、イトマン社長芳村と口裏を合わせ、相呼応して自力再建路線を意識的に打ち出すべく演出したというものである。

 本件に関しある全国紙の経済部(商社担当)の記者と情報交換をしていた時、彼は事もなげに淡々と言ってのけた。

 「住銀の常務ともなれば、これくらいのことは平気で書きまっせ!」と。

 その(二)はイトマン抹殺のシナリオは、特に限定された首脳間、すなわち、頭取巽外夫、専務西川善文、常務吉田哲郎(融資第三部長)ら──で超極秘裡に練られ、厳重な緘口令が敷かれ、イトマン出向の副社長といえども蚊帳の外、合併を知らされたのは極論すれば前日ギリギリだったかも知れないというものである。

 現にこの副社長は住銀本店へ復帰後も、イトマンの月次営業成績を気にかけて、月の上旬には前月度の業績について問い合せの電話が東京から大阪本社の担当役員のところへかかってきていたという情報もある。

 ここでひと休みして、時計の針を十五年余前の昭和五十三年六月に戻してみたいと思う。

 住銀系列に関西相互銀行(現関西銀行)がある。歴代社長には親銀行の役員が天下りで就任していた。同行の前身はいわゆる無尽会社で、そのスタートは「山城無尽」だった。

 当時の社長河田龍介(住銀元常務)は、住銀との合併内定を彼が最も信頼していた側近の社長室長にだけ、打ち明け協力を要請した。社長室長は当初はよく理解していたようだが、七月三日付の主要全国紙の第一面には、関西相互銀行と住銀との合併構想と、従業員組合の絶対反対を報ずる大きな見出しが躍っていた。社長が最も信頼をおいていた社長室長が全国紙他に極秘情報をリークしたのだった。

 合併の背景、住銀の強引な合併手法等については本項の目的ではないので省略したいと思う。そこで、従業員組合も、新らしくできた管理職組合も「自分達が選んだ関西相銀とつましく生きていきたい」と強力な反対運動を展開していった。また取引先グループまで「住銀は“駄菓子屋”や“八百屋”の面倒はみてくれまい」と一緒になって反対運動に立ちあがった。かくしていかに強引な住銀といえども取引先をも巻き込んでの猛反対には抗し切れず、九月下旬には合併問題は白紙還元することを決定した。住銀に対する関西相銀関係者等からの風当りは冷たくかつきびしいものがあった。

 そもそも上手の手から水が漏れたというか、ひょんなことからの極秘情報の外部への漏洩が住銀の野望の命とりとなった。合併が実現していれば預金量では第二位の富士銀行を抜いてトップの第一勧銀に肉迫できるところだった。この破談で住銀は高い授業料を払い、数多くの教訓をえた。現に関西銀行(元関西相互銀行)は独立した企業としてバブル経済崩壊の後遺症はうけているが、立派に営業活動を続けている。

 さて、イトマン抹殺のシナリオづくりに取りかかろうとした住銀首脳陣の頭の中をよぎったのは、この十五年前の関西相互合併のあの忌しい極秘情報漏れの悪夢だった。万一イトマン抹殺の情報が事前に漏洩するようなことが起れば、社会的信用不安を惹起させ、ややオーバーな表現かも知れないが日本経済が困乱におち入る危険性があったといっても過言ではない。住銀による安宅産業解体時のように、また住銀本店の周囲が或いは労組の赤旗で取り囲まれる事態になっていたかも知れない。

 よって住銀サイドは、イトマン抹殺劇のシナリオづくりのメンバーから、出向中の副社長を意図的に外したという見方が正しいのではないかと私は思っている。

 それにしても、住銀の天晴れな(?)、欺瞞作戦だった。イトマン社内報は社員はもとより「社友会」のOBメンバー全員には郵送されており、一部取引先にも配布されていた。

 現役社員、OB、そして取引先を欺き、自主再建路線を信じこませた住銀とイトマン社長の罪は極めて重いと言わざるをえない。

 いずれにしても罪作りな住銀出向副社長の退任挨拶文だった。


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