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第二章 イトマンの経営危機

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 (1)創業以来二度にわたる重大経営危機

 イトマンの二代目社長伊藤萬助は、大正九年(一九二〇)の大恐慌について「いま思い出しても、ゾッとするほど大変なできごとであった。この年の大暴落は、日本の経済を根底からくつがえしてしまった。銀行がまず第一に店を閉めた。銀行の倒産である。繊維相場はまったくの底なし的な恐慌相場を出現し、七〇〇円台の綿糸が、いっきょに三〇〇円に崩落し、四,〇〇〇円の生糸もアッという間に一,〇〇〇円台に落ち込んでしまった。その暗たんたる惨状は、まったく目をおおわざるをえなかったといっても過言ではなかった」としみじみ述懐している。

(伊藤萬助著「私の履歴書」)

 船場では御堂はん(北御堂と南御堂)と警察しか残らぬだろうと噂され、商店の倒産が続出した。

 父親の初代萬助は、大正八年(一九一九)に六十八才で逝去していた。萬助は意を決しておかあはん(母親)に相談にいった。

 「おかあはん。えらいことになりましてん」

 「なんだんねん?」

 「実は大暴落でどれだけ損がゆくかわかりまへんけど、資本金の半分ぐらいはとんでしまいまんねん。どないしたらよいか、困ってますねん」

 「あんた! 何言うてんねん。わたしらそんなこと、きょうまで何べん会うてるかわかれへん。主人の存命中に度々あったことや。心配することあらへん。しっかりしなはれ!!」

 さすがは創業者の主人とともに、多くの辛酸をなめてきた船場のご寮はん(夫人)であった。この言葉は萬助に百万の味方を得たよりも強い力を与え

 「なにくそ。こんな時こそわが力を試す時じゃ。よし、しっかりやろう」 萬助は勇気百倍、この重大経営危機の乗り切りに邁進していった。

 大恐慌の到来前には、イトマンはなんと二十割配当を実施するという好業績をあげていた。しかし、前年に実施した増資後の資本金五〇〇万円の約半分の二三〇余万円という巨額の損失を計上せざるをえなかった。金融界では資金が硬塞して極度に貸し出しを警戒していた時期だった。意を決した萬助は主力取引銀行だった住銀の八代頭取に対し、窓口だった備後町支店長立会いのうえで(当時すでに備後町に支店があった)緊急融資の懇請を行った。八代頭取はこの要請を心よく受け入れ、六〇〇万円という大金を融資し、イトマン創業来ともいうべき重大な経営危機を救済してくれた。

 戦後入社の私はこの大パニックの状況は知るよしもないが、萬助は後年、この時の住銀の支援なかりせば……と思うと、今でもからだが引き締るのを禁ずることができないと懐古している。この懐古談の通り住銀の金融支援がなければ、イトマンは創業三十七年目にして、その幕が下りていたであろうと思われる。

 イトマン発展の基礎を築き、戦前の「天下のイトマン」の黄金時代を構築した二代目社長伊藤萬助は、昭和三十八年急性肺炎のため入院中の大阪大学付属病院で逝去した。享年八十三才だった。死の枕もとには「ライフ」のワールド・ライブラリイの邦訳が置いてあった。その西独編の中程に栞がはさんであったという。今際の際まで時代を先取りすべく勉強を続けた人だった。

 初代社長は六十八才(大正八年死去)、二代目社長は八十三才、三代目社長伊藤良三は八十五才、四代目社長伊藤寛は八十才で夫々他界した。創業者の伊藤家は長命の家系のようである。

 さて、創業以来日清、日露、第一次世界大戦、満州事変、日中戦争、そして太平洋戦争等の洗礼を受け、また幾多の経済恐慌もなんとかくぐり抜けて、一世紀余の長きにわたり、企業の灯火を絶やすことなく燃やし続け、発展を遂げてきたイトマンに、創業以来二回目ともいうべき重大危機が昭和四十九年後半に到来した。

 昭和四十八年十月、第四次中東戦争がぼっ発、石油危機への発展となった。OAPEC(アラブ石油輸出国機構)は、戦局を有利に導くために、石油公示価格を段階的に約四倍にも引きあげ、一〇%以上の供給制限を実施した。これまでの一バーレル、三ドルの石油が一一.七ドルにも急上昇した。

 その結果、輸入石油依存度の高いわが国は大きな経済的混乱を被るとともに、世界的にも長期不況時代へ突入した。これがいわゆる第一次オイルショックである。昭和元禄泰平ムードと、列島改造ブームがこの石油危機でいっぺんに吹きとんでしまった。

 特に繊維業界は昭和四十八年来の過剰生産と輸入による供給増大に対して、一般消費需要のかつてない程の冷え込み、沈滞のため、メーカー並びに流通段階における在庫は異常なレベルに達し、昭和四十九年初頭から各種繊維相場は大暴落の状態となった。

 ひるがえってイトマンの商品総在庫は一七〇億円の巨額に達し、うち一二〇億円が繊維在庫というポジションだった。東京の非繊維部門は比較的好調に推移していたが、繊維部門は在庫の約1/2の約六十億円が含み損失と試算されていた。まさに重大局面に遭遇したのであった。順調な非繊維部門からは繊維部門に対する非難、糾弾の声があがるという状況だった。

 急激な業績の悪化とともに、社内外の動揺は高まり、信用不安も日増しに増大していった。イトマンだけではなく、特に繊維専門商社は軒並みにダメージをうけて経営の危機をささやかれていた。当時船場の業界筋では「三蝶八萬」という訳のわからない隠語がひそかに流布されていた。

 これを解説すると、三共生興、蝶理、八木商店(現ヤギ)、そして伊藤萬(イトマン)を指していた。八木商店はいわゆるかつての船場八社の唯一の生き残り組だった。ちなみに船場八社をあげると、又一、竹中商店、田附商店、岩田商事、丸永商店、豊島商店、竹村商店及び八木商店であった。八木商店以外は倒産、合併により元の会社は現存していない。蝶理は土地投機の失敗等から、金融機関、並びに合繊メーカーの全面支援をうけて再建にあたったが、復配にこぎつけるまでに十年余の歳月を要したほどの深傷を負っていた。

 このような内外の情勢下、自力による再建は不可能と判断した当時の社長伊藤寛(四代目、故人)は、同四十九年の暮、永年にわたり親密な取引関係にあった主力銀行の住銀に、会長堀田庄三(故人)を訪ね、経営の詳細な実態について篤と説明のうえ、資金並びに人材の全面支援を懇請した。この要請をうけた堀田庄三は、緊急融資と次期社長含みで、住銀の「エース」ともいうべき人材を送りこむことを社長伊藤に確約した。

 大正九年の大恐慌時の住銀の支援については先に縷縷述べたが、戦前、戦後間もなく住銀本店の役員室にフリーパス、木戸御免で自由に出入りできたのは、本町イトマンの二代目社長伊藤萬助と、道修町の武田薬品(通称武長)オーナーの武田長兵衛ほか数名といわれたぐらいの親密な取引関係にあった。

 住銀の元主宰筆頭常務山内直元(故人)を戦後間もなくの昭和二十二年に相談役として迎え、同二十六年には監査役に就任してもらった。氏は昭和四十年に日本教育テレビ(現テレビ朝日)社長に就任したが、氏の監査役就任以降、イトマンと住銀の関係、特に人事関係は一段と深まっていった。約八十年になんなんとするつき合いである。

 約四十年間にわたりイトマンに籍を置いた者として、過去二度にわたる危急存亡時における住銀の全面支援と救済についての恩義は決して忘れることはできない。心から感謝している次第である。しかし、これから詳述していく住銀・イトマン事件に関する住銀の関与、むしろ主役ともいうべき行動及びその経営責任についての追求と怨恨の念と、過去の恩義とを相殺し消去することは到底できない。

 さて、話を元へ戻すが、社長伊藤に全面支援を確約した堀田庄三は、言葉を次いで、

 「伊藤さん。住銀としてはこれ以上の人材はいないというほどのイトマンの再建にはうってつけの人間を送ります。ついては、こんごの貴社の経営全般は、当行に任せてもらいたい。よって、あなたは経営の第一線は引退し、関西財界、繊維業界を中心とする公職活動に専念してもらいたい」

 さらにつけ加えて

 「代表権のある会長職というものは、業績をあげ功成り遂げた社長が就くものであって……」 と冷やかに申し渡した。かくして社長伊藤寛は代表権をはく奪され、取締役会長に棚上げされたのである。

 ここで是非書を留めておかねばならない重要なことがある。
 住銀からのイトマンへの社長送り込みに際し、会長堀田庄三は社長伊藤寛(オーナー)に対し、立て直しが終ったら派遣社長は銀行に戻すと約束したといわれる。イトマンの再建が終ったときには、堀田はすでに引退し(取締役相談役)、頭取は伊部恭之助から磯田一郎に変っていたけれども、社長はそのまま居残らせ約束を果たさなかった。いわゆる「大政奉還」は実現しなかったのだ。いわばこれが今日の事件を引き起こす遠因となった。

 名古屋に「タキヒョー」という名門の繊維問屋がある。この社もオイルショック時に経営破綻を来し、主力銀行の東海銀行の支援をあおぎ、銀行は社長を送り込み再建に当った。約十五年の歳月を要したけれども、東海銀行は平成六年春にオーナーの滝家に大政奉還を実行した。名古屋証券市場第二部への上場も平成七年一月に実現させた。顧客の面倒見が極めて良いといわれる東海銀行の面目躍如たるものがある。
  
 (2)住友銀行会長堀田庄三からの緊急電話

 昭和五十年の正月、松の内明け早々、住銀人形町(東京)支店長取締役河村良彦の机上の電話のベルが鳴った。東京本店の秘書課からだった。

 「堀田会長が、河村支店長さんに折り入ってお話ししたいことがあると申しております。できるだけ早く会長室の方へお越しいただきたいのですが……」

 メリハリのあるハキハキした口調の会長付きの女性秘書からの緊急電話だった。受話器を静かに置いた河村の脳裡には一瞬とまどいと、不安の念が横切った。

 「住銀の天皇といわれたあの会長が一支店長の私に会いたいといっておられる。何が起ったのだろうか。どういうことだろう。心当りは全くないのだが……」

 河村は急ぐ書類に目を通し決済をして、複雑な思いと不安を胸に秘めながら、丸の内の本店会長室へと車を急がせた。靴がめり込むようなぶ厚いじゅうたんが敷きつめられた、いわゆる“松の廊下”を通り、会長室のソファーにやや緊張気味に体を固くして腰をおろした。そして堀田会長の口許をジッと見つめていた。

 堀田がおもむろに口を開いた。

 「河村クン。実は大阪のイトマンがオイルショックの影響をもろに受けて、その経営が極度に悪化している。当行としては永年にわたる有力取引先でもあり、この社の再建について全面支援を実施することにしたんだ。ついては、河村クン。君にイトマンへ行ってもらいたいんだ。再建の手法はすべて君に一任することとする、一切任す。よろしくやってくれ給え」
堀田は具体的指示も条件等についても一切口にしなかった。

 当時イトマン担当であり、河村が師と仰いでいた副頭取の磯田一郎(元頭取、会長、故人)も「すべてお前に任せる。何も言わんから思い切ってやってこい。」と激励した。

 堀田と磯田から「イトマン行き」を命じられた河村は、名門の人形町支店長に赴任してからわずか九ヵ月だった。河村は予想だにしていなかったことなので、一瞬体から血の気が引く思いだった。それと、二首脳からの「すべて君に一任する。」という示達に、何かひっかかるものがあったのは事実だった。反面、二首脳が私を信頼してくれているから、すべてを一任してくれたはずだとの複雑な感慨にかられながらも、気を引き締めて堀田に深々と一礼をして会長室を後にした。

 河村の後日の言を借りれば、「最初はやりたくなかった。丁度五十才になるかならないぐらいだったし、役員にも割合早くなっていたから、やれやれこれから楽ができるなあと思っていたところでしたからね。」という心境だったようだ。

 ところで、イトマン次期社長として重大使命を与えられた河村良彦という人物は、昭和十六年に山口県の山口商業(旧制)を卒業し、翌年一月に住銀に入行した。本人は大学への進学希望が強かったが、家庭の経済的事情等もあって断念せざるをえなかったようだ。本店営業部次長を経て、栄町(名古屋)、渋谷、銀座、人形町(各東京)の有力支店の支店長を歴任し、行く支店、赴任する先先で抜群の業績をあげてきた。特に銀座支店長時代には読売新聞をはじめ多くの新規取引先を開拓して、前任者時代の約三十億円の預金残高を一拠に五十億円にも引きあげた手腕は、後々までの語り草となっている。

 河村の後任支店長をして「彼の歩いた跡にはペンペン草も残っとらん。」と嘆かせたというエピソードもある。いずれにしてもノンキャリア組の中で若くして異例の取締役にまで抜てきされ、ノンキャリア組のせん望の的であり、教祖的存在でもあったようだ。先にも述べた通り住銀としては「これ以上の人材はもういない。」(会長堀田庄三)というほどの、いわば切り札的エース級のリリーフ登板だったわけだ。

 しかし、つらつら思うに、昭和五十年一月某日の住銀会長堀田庄三の河村良彦に対するイトマン行きの宣告が、十五年後にエース河村が刑事被告人として法廷に立ち、司直の裁きをうける身となり、かつ百十年に及ぶのれんを誇る老舗イトマンが、エースの出身母体の手によって非業の最後を遂げるという運命につながろうとは。すでに故人となってしまったが、堀田庄三はもとより誰が予想しえたであろうか。エース河村も当初は期待通り、プロ野球千葉ロッテの伊良部投手張りの一五〇キロ以上の快速球で、時には巧みにチェンジアップも織りまぜながら、パーフェクトに近い試合の展開を行い、三割打者に例えてもよい難題を次から次へと三振か凡打に打ちとって解決していった。回を重ねる毎に、さらに色気とスケベエー根性と利益至上主義がでてきたためか、制球は乱れスピードは落ち、最後にはメロメロになってチームは壊滅状態になったという構図だった。皮肉な運命のいたずらというべきか。

 今さらこんな繰言を言っても詮ないことではあるが、堀田庄三の指名が河村以外の別人であったならば、イトマンの運命も変っていたものと思われるのだが……。持てる資産はすべて売り払い縮少均衡的銀行式の再建手法で、小じんまりした企業規模に縮少されていたかも知れないが、少くとも百十年の“のれん”は死守し懸け続け得たのではないだろうか。
嗚呼。
  
 (3)住友銀行常務河村良彦 イトマン社長に就任

 住銀会長からイトマン再建の重要使命の示達をうけた河村良彦は、その直後ににわかに常務取締役に昇格し、人形町支店長職は解かれ本店支配人に就任した。彼は昭和五十年四月七日とりあえず理事の肩書でイトマンへ入社した。

 思い起せば五十年前太平洋戦争の敗戦後、連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥は、多数の各界の優秀なブレーン、専門スタッフを随行のうえ、例の長いパイプをくわえたまま、さっそうとした雄姿で東京厚木基地へ降り立った。昭和二十年八月三十日のことだったが、爾来五年八ヵ月にわたり敗戦国日本のG・H・Qの最高権力者として、マッカーサーは君臨することになる。

 一方、イトマン進駐の最高司令官河村良彦は、住銀サイドからのスタッフを数名つけるとの要請をも断り、秘書もつけずに、文字通り身ひとつで大阪本町へ乗り込んできた。しかも次に詳しく述べるが、猫の子一匹いない早朝七時半ころに自ら役員室のキーをあけて意気込んで出社してきたのだった。彼なりのイトマン再建手法についての秘策を胸に秘めていたのであろう。

 彼は約十六年間の長期間にわたりイトマンの最高権力者として、超ワンマン体制を構築し君臨していくことになる。

 河村着任日に、イトマンの幹部連中、特に秘書室、企画部らのゼネラルスタッフが肝をつぶすような事件が発生した。秘書室長は気をきかしていつもより早く朝八時半前に出社してみたら、河村はもうすでに役員室で書類に目を通し執務していた。

 当時のイトマンの勤務時間は朝九時十五分から午後五時三十分までだった。当時のオフィスは初代伊藤萬ビルは老朽化のため建て替え中であり、本町通り安土町の三十一階建の「大阪国際ビル」に仮入居中だった。河村はこのビルの一階にある警備室へ立ち寄り、自ら役員室の鍵を受け取って開錠して入室したようだ。どうやら七時半ころには出社した模様だった。この事件は秘書室長から幹部に伝わり、たちまち社内中に噂がひろがっていった。

 「こんどS(イトマンでは住銀のことを略してSと呼んでいた)から来た男はエライヤツやで! 朝七時半には会社へ来とるらしい。これからわれわれにもいろいろ発破が掛るで……」

 大阪市内或いは近郊から通勤している社員であれば、朝の七時半といえば、起床、若しくは朝食の時間だと思われる。しかも、河村は秘書室員とかゼネラルスタッフの連中には、「朝八時には出社しておくように」とは一言も指示しなかった。いわば無言の率先垂範だった。スタッフは言われぬ感動を覚えたものだった。

 同年五月三十日開催の臨時株主総会で取締役に選任され、とりあえず副社長に就任した。そして、“モーレツ河村”の面目躍如たる活躍が正式に始まっていくのである。

 まず彼はイトマンの経営実態の把握と、社員の生の声をきくため、管理職、係長クラスを中心にマンツーマンの個別ヒアリングを始めた。平日は朝八時〜九時と、終業後の五時半以降、土曜日は(当時は完全休日にはなっていなかった)午後から、日・祝日は終日これに費した。丁度六月〜九月にかけてのむしむしする梅雨期と連日三十度を越える猛暑の時期に当っていた。土曜日の午後と日・祝日はビルの空調、冷房は稼動しない。窓の開閉はできず、換気のできない小会議室はまるでムシ風呂のようになっていた。扇風機がよどんだ部屋の空気をかきまわすように、その首を振って生暖かい風を送っていた。こうした悪条件のなか、連日ヒアリングは進められ、その延人数は一,〇〇〇人近くにも達した。

 朝からむし暑いある休日、ヒアリングに熱が入り昼を過ぎ、時計は一時をまわっていた。スタッフとして同席し提出書類の整理、記録等を担当していた企画部長(後に河村によって筆頭副社長に登用される)が「副社長、そろそろ昼メシにしましょうか」と彼は湯沸室からコップに生ぬるい夏のカルキ臭い水道水を注いでもってきた。

 実は休日の本町界隈の食堂は利用客が全然ないため閉店しているので、食事をとることができない。梅田か心斎橋あたりまで足を運ばなければならない。時間の無駄を省くため河村は、当時阪急電車の豊中駅近くの住銀の社宅に東京から単身赴任していたが、朝梅田駅で駅弁を買い求め、それをぶら下げて出社してきたのだ。

 二人はコップの水を飲みながら、冷くなった幕の内弁当をつついた。このようにしてこのヒアリングは休みもなくぶっ通しで半年近くも継続された。

 河村は精神的には勿論のこと、肉体的にも極めてタフで、休日をとることもなく押し通しヒアリングを完了させた。一方「しみじみとした人柄で女子大の教授といった感じ」(雑誌「経済界」平成二年七月二十四日号)の企画部長は、河村より十才近くも若いのだが、ひ弱なため途中で先に過労でダウンしてしまったほどだった。

 河村はこのヒアリングを通じて
 「イトマンは何故不況に弱いのか」
 「どこをどう改革したらよいのか」
 「当社はこれからいかにあるべきか」
等等、部・課長・係長のひとりひとりに熱っぽく問いかけていった。そして

 「リスクから絶対逃げるな。衆知を集めて全員で解決せよ」

 「ひと握りの優秀な人材よりも、“多数精鋭”を育てよ。全員によるフル操業だ。みこしは皆でかつぐんだ。ブラ下りは排除せよ」

 「各本部間の垣根を外せ。何かあれば全社挙げて取り組め」 と諄諄と説き伏せていった。

 社内全般に漂っていた沈滞ムードも、河村の粘り強い連日の面接、河村イズムによる洗脳によって、次第に、そして目に見えて変化が現われてきた。

 「こんどのS(住銀)からきた副社長は、今までの男とは相当違うぜ。ただものではないぞ」と管理職中心に、河村の情熱とリーダーシップによって彼の理念は次第に浸透していき、再建のバックボーンが形成されていった。

 しかし時間の経過、三年経ち、五年経過してくるに従い、管理職、社員の対河村観、信奉度等について、漸次、表現方法は極めてむつかしいが、微妙な変化が見えはじめてくるのである。そして次第に色褪せ、残念ながら表面上は糊塗はしているが、幹部連中は内面心理的には河村から次第に離反していくのである。

 このプロセスは順次章を追って解明していくこととしたい。


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