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第三章 大阪船場の奇跡・イトマン復配す
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(1)「売ってから買え」の大号令
前章(3)で述べた管理職のヒアリングを終えた河村は、旧イトマン時代には思いもつかぬようなざん新な発想、アイディア、そして理念で、社員の繊維問屋的とも言うべき牢乎な考え方を洗脳、打破しながら、次から次へと新方針、政策を打ち出していった。
ヒアリングを通じ、河村はイトマンが内包するウイーク・ポイントの数々、問題点及び将来への展望等について、ほぼその核心をつかんだ。
彼の結論は「繊維の在庫が多すぎる」ということに尽きた。それと「相場操作の否定」である。相場を張る──在庫をもち相場を見ながら売っていって儲けを大きくしていく、従来の手法を頭から拒否した。「相場の動向に血道をあげる会社は販売力を失ない、やがては相場に潰される」これがバンカーから或る日突然商社マンに転じた彼の方針だった。あらゆる機会をつかまえて、繰返し、繰返し繊維担当の管理職に説いた。
「売ってから買え。見込みで先に買ってはいかん。在庫の相場操作はだめだ。各課の在庫は常にゼロにしろ」
一方通行の有無を言わせぬ指示だった。また当時の繊維各業界にいろいろの話題を提供し、波紋を投げかけた河村語録だった。この河村指示を受けたある管理職は、自家加工の綿製品を扱っている課長だったが、売契約ができてから、生地の手当てをし加工指図を出したため、納期が大巾に遅れ、お得意先から大きなクレームをくらったという事故があった。
河村イズムを金科玉條のごとくバカ正直に受け取り、実行したという笑い話めいた実話もあった。
とはいうものの社員の在庫というものに対する考え方に変化がでてきて、たしかに繊維在庫は大巾に減少した。他の加工問屋の平均在庫三ヵ月という時に、イトマン繊維部門の在庫はピーク時には二週間余分にまで減少した時期が一時的にあった。
旧経営陣時代の繊維部門は見込みを含め常に過大な在庫を抱え、回転率は悪化し、その金利負担にあえぎ、シーズン末期には在庫処分や返品による損失を計上するという悪循環を繰り返してきた。かつ、他の関西系商社に比し、いわゆる綜合化、脱繊維に乗りおくれ、企業内容はいわば中途半端といってよい形態だった。
「繊維ではもう食っていけない」との思い込みが、社員間に横溢し、沈滞ムードが漂っていたのも事実だった。この活気を失ったムード、前向きの努力への意欲を失っていることを感じとった河村は、「繊維は決して斜陽産業ではない。やり方ひとつだ。なるほど川上段階(素材メーカー)は構造的な不況下にあるが、川下段階(小売)のアパレルは好調に推移している。脱素材、川下作戦でいく。イトマンの繊維部門を縮少することは決してしない。あくまでも繊維を主体にメシを食っていく。これが河村方針だ」との檄をとばし社員のやる気と協力を要請したのだった。
(2)「中興の祖」河村良彦と(?)の萌芽
在庫に次いで再建上のネックは過剰人員であり、総人件費の削減だった。人員の削減については希望退職による人員合理化方針をうち出したが、当然のことながら労働組合は猛烈に反発し、ビルの周辺は赤い組合旗で取り囲まれ、会社内の廊下には組合員の座り込みが続いた。従来の労資交渉は最後には妥協に妥協を重ねてきた。
しかし、新社長河村は「このような安易な妥協の積み重ねは、いつかはツケとなってはね返ってくる。労使問題は絶対に理念を曲げてはならん」との信念にもとづいて、正常な労使体質を築きあげるために、一切の妥協を排し、ねばり強く説得を続けた。
労組との度重なる団体交渉は、時には深夜、払暁に至ったことも度々あったが、「労使は同じ船に乗り合わせた船長らと乗組員であり、全員が共同目標に向って櫂ををこぎ努力する運命共同体思想で力を合わせねばならない」との社長理念を説き続けた。と同時に「会社業績並びに財務内容については一切ガラス張りとし、毎月社員に公表する。かつ、社員一丸となって創出した期間利益は、業績への貢献度に応じ公平、公正に分配する」と新らしい考え方を打ち出し『成果配分方式』を公表し、諄諄と労組幹部を説いていった。これらの河村の考え方、理念は次第に労組役員、組合員にも納得されるようになり順次浸透していった。後年当時の労組委員長は、「河村さんが来てすぐ十二回〜十三回もストライキを打ったけれども何の効果もなかった」と当時をふり返り述懐している。
また、河村は団交の席上組合側から、「副社長、あなたはイトマンの株を一株も持っていないじゃないですか!」と突っ込まれた。河村にとってはこの一言はズシンと胸にこたえたようで、イトマンで骨を埋めるんだとの意気込みを見せるべく、住銀の退任慰労金を注ぎ込んで五万株を購入した。このことは組合幹部に刺激を与え、かつ、役員、管理職にも、「新副社長はやる気満満だぞ」との感動を与えた。
次に、河村は社員ひとりひとりが金利の管理感覚に疎いことを指摘し、商品コストと資金コストとは絶対に一緒にするな、営業の売買利益と金利は峻別すべしと「金利の分別管理システム」を提唱し、契約一件ごとその契約伝票に資金コストを明示させた。最初は「なんでこんな手間のかかることを、ここまでせないかんのや?」とのコンプレーンと抵抗が相当あったが、御大河村の指示・命令とあって逐次定着し、以前に比し金利感覚、金利コストの把握についてはその意識が高まっていき、シヴィアーな採算をとるようになったのは事実であった。
再建着手後の二年目からは、従前の減量経営から、早くも効率経営、さらには成長拡大政策への転換を逐次はかっていった。
まず営業課毎の独立採算制システムを導入し、課毎の経常利益を明確にしようとする制度であった。旧体制時代から課別独立採算の計算システムは定着していたのだが、新らしく最少営業単位の課別毎に、
人的効率 (社員一人当りの営業利益)
利益貢献度(一課当りの営業利益)
資金効率 (使用する資金一億円当りの営業利益)
の三視点からの点数による採点・評価制度を編み出した。前月の営業成績を翌月の十日までには点数をだし、点数順の課の序列を公表するという旧体制のイトマンにはなかった住銀イズムの中で、きびしい薫陶をうけ育ってきた人らしい新方式が導入されたのである。
当時約五十ほどの営業課があったと記憶しているが、これら営業課が効率得点の順番に並べられ、表彰をうけ、或いは不振の原因とその対策が追及されるという仕組みである。
計算方式の詳細はここでは省略するが、基準のハードルが年に一段、二段、更に上段へと引きあげられ、条件がきびしくなっていった。上期、下期の二回、そして年間通期の綜合評価も行われ、上位ランキング十課には、管理職全員が集合する月初訓示(後に説明する)の席で、社長から直直表彰状と賞金がランク別に支給された。
社員個人にも住銀と同様の業績、収益を中心としたきびしい人事評価システムが採用され、収益貢献度の高い者には、「社長賞」と称する特別賞与が加算され、個人名は社内通達で公表された。私が提携企業へ転出した後年のことであるが、管理職が集合する大ホールでの集会の着席は従来はフリーであったが、或る時から序列順に座席が指定されていたのには驚いた。恐らく人事評定(収益中心)によって順位が決定され、最終社長が決裁したものと思われる。
業績のあがらぬ課長は、月一回の社長自ら主宰するヒアリングに呼び出され、低迷・不振の理由を追及されるという仕組みも新らしく導入された。温情的なヌルマ湯的経営風土の中で育ってきた幹部、社員はど肝を抜かれる思いと同時に、こういう競争原理もあるのだなあということを銘記した次第だった。TVニュースでよく見かける場面だが、正月三ヵ日も返上のうえ、必勝の鉢巻きをした勇ましい姿で、全員合宿のうえ受験勉強に発破を掛けられている学習塾の小・中学生のようだった。
次に河村は組織というものは、ピラミッドの頂点の社長から順次下方にと権限の分割委譲が行われる。しかし、責任は逆三角形で上位管理者が負担しなければならないとの基本的考え方を度々説いていた。しかしこれは理念だけで、実際には委譲は行われずすべて社長が決済、決定するトップダウン方式だったのだが……。このくだりはいずれ詳しく述べたい。「競争が激化し、不況時の白兵戦ともいえる商戦を若い兵隊に任しておけば勝てるはずがない。業績(収益)の七〇%は部・課長で稼げ。役員、管理職は自ら先頭に立ってやってみせ、収益を確保することが必要だ」と叱咤激励した。
河村は住銀支店長時代、「預金集めの名手」と称賛されたが、支店幹部で「五人委員会」と名づけたチームをつくり、幹部が夫々五人ずつの第一線の部下をもち、支店長の号令いっか支店全体をあげて積極的に前へ打って出る体制をつくり、大成功を収めた実績をもっている。彼にはこの体験から生れた理念があり、試行錯誤と自らの体験で生み出した手法、ノウハウをもっていた。このノウハウが他の業界においてもすべて通ずると感違いした彼の考え方に錯誤があったのだ。
とにかく管理職はあらゆる角度からきびしい業績管理、評定に雁字搦にされた。やがては河村路線からの脱落者、造反組も生まれてくるようになり、もがいた揚句どうにもならず数字のドレッシングをせざるをえない者も散発するようになってきた。一方では御大河村の絶対的信奉者、表現を変えれば、社長の迎合者というか、親衛隊が河村のまわりを取り囲み、群がるようになってきた。独裁者のご機嫌伺いをする情けない悲しむべきサラリーマンの性に苛まれた幹部連中だった。
この時すでに河村が超ワンマン独裁体制を逐次築きあげ、かつこれを阻止することができない経営風土が醸成されつつあったといえる。
河村は次に毎日早朝の八時から「朝会」と称するミーティングを彼自らが主宰し開催した。役員及び営業本部の代表部長、管理部門長らが集り、緊急案件の審議、各部門の業績の進捗状況、他部門への協力要請、前日の営業活動のポイント及び他社の動向等の報告が出席者から行われ、速やかに決裁を要するものは社長自らその場で決裁した。この朝会は、本社、東京、名古屋の本・支店はもとより、地方支店、関連の子会社も本社に準じて毎朝の開催を要求された。
船場界隈の口うるさい人達は、「イトマンが早朝八時から毎日会議をやっとるそうやが、そのうちにポシャルでえ……。」と陰口をたたいた。しかし河村が取締役会で解任される当日の朝まで一日の休会もなく、約十五年の長期にわたり続行された話題性に富む名物会議だった。
しかし、河村が出張等で不在の時には、大阪本社では何かホーッとしたような空気が流れ、いつもより早く終ったり、「鬼の居ぬ間の洗濯」とばかり、住銀OBの役員自らがビルの地下街の喫茶店でモーニング・コーヒーでくつろぐといった、サラリーマン役員らしいほほえましいと表現してよいのだろうか、そういう場面も見うけられた。
私の現役時代、河村がある時「野木君。オレは銀行時代、人前で一時間もしゃべった経験がないんで、事前の準備と話し方の工夫がたいへんなんだよ。」としみじみ私に語ったことがある。その話の苦手な未経験の彼が、毎月一日に、これも朝の八時から(細川護煕元内閣総理大臣は深夜が好きだったが、河村は早朝を殊の外好んだ)大ホールに全管理職を集めて「月初訓示」と称する集会を開催した。マクロの世界情勢、経済動向から始まり、金利・為替の動向、ミクロのイトマンの営業政策、留意事項等について正味一時間みっちり九時まで訓示を行った。
回を重ねる毎に彼の話術は巧みになり、また内容についても充実し、例えば金利・為替動向の予測も大きく外れることはなかった。朝、大阪本社を終えてすぐ名古屋支店へ向い昼前から行い、簡単な昼食をとって新幹線を乗り継いで東京本社は夕刻から実施するという、一日で終了してしまう超過密スケジュールだった。国内外の他の支店、海外の現地法人等へは録音テープを送付していた。
本人は休日等を利用して前もって訓示内容の骨子を自らペンを採ってまとめ、B5判二〜三枚のレジメが全員に配布されていた。出身の住銀調査部や幹事証券会社他から資料を取り寄せ、相当の時間をかけ調査・研究を行ったものと思われる。この事例にも見られる通り、労を惜しまぬ研究熱心の頑張り屋であり、仲々の努力家だった。
さらに毎週月曜日には、これまた早朝八時から「ポジション会議」なる新設の会議を開催した。各営業部長に自部門の売・買約定の納期限月別の残高、在庫の動向、特に仕入れから三ヵ月以上動いていない滞留在庫の推移等のポジションを、オーバーヘッドプロジェクターで大きなスクリーンに映写して報告させた。河村はショート・ホープの紫煙を深く吸い込み、目をつぶりながら、(その後一度は失敗したが、二度目からキッパリと禁煙した)じーっと聞き入り、最後に各部長に指示を与えていた。この報告によって彼の頭の中には大体の各部門のポジション並びに問題点の概要が把握されていたものと思われる。
また関連会社といえどもグループの一員であり、運命共同体だとの考え方から、社長も事業本部長扱いとし、その経営内容のヒアリングを月一回実施した。また本社の課長も「トップヒアリング」と称して、一人五分程度業績、問題点等について報告させた。これによって副次的に関連会社社長、部・課長等の能力、特長、性格等も把握していき、人事政策展開の一助としていたようだ。
赤字、業績不振の社長、部・課長はこのヒアリングが胃の痛くなる会議となり、月一回がアッという間にまわってくるような気がしていた。業績不芳部門に対しては、発想を転換せよ。新規の商売のネタを見つけよ。他の部門とバッティングしてもよい、強い者が勝つ自由競争だ。滞留在庫は早期に処分せよ。ときびしい檄がとび交った。
赤字部門の存続可否については担当本部長の意向は無視して、社長独自の判断で決定された。人事異動もきびしく、新陳代謝はしょっちゅう行われ、赤字部門の管理職は概して新規開発事業部門へ配転された。商社活動の第一線の部・課長は商品知識、業界事情の熟知、取引先との人間関係等が必須だが、二年半〜三年で定期的に配転される銀行の支店長や次長クラスとは異質の要素が多分にある。しかしこんなことは一切配慮しない遠慮会釈もない人事政策だった。国内繊維関連で商品企画を担当し、独特のノウハウと経験をもち好収益の源泉を担っていた職人的管理職が突然配転になり、急速に業績の悪化した関連企業及び本体内の部門もあったほどだった。
河村は「イトマンの方針、戦略は社長自らが決定する。基本的には役所的なピラミッド型の組織では、これからの構造変化にはついていけないし、先取りすることはもちろんできない。新らしいアイディアは社長自身が率先して出していかんとダメだ。役員も例外ではない。ボトム・アップではダメ。イトマンは『トップダウン』だ。これでないと伸びない。人材も上からどやしつけるとかえって育っていくものだ。人材育成もトップダウンでなければ育たない」
これが彼の経営哲学であり、持論だった。そして機会ある毎に、役員、管理職、関連会社社長らの前で熱弁をふるい説き伏せていた。河村の大阪地裁での公判法廷における証言又は上申書の内容は完全な「ボトムアップ方式」であり、社長が先行して決裁したことは一切ないと断言し、法廷では一八〇度変節しているのだが……。
かくして河村の手によってイトマンは二年目にして累積赤字を一掃し、三年目の昭和五十四年には四年ぶりに世間が目を見張る復配を果した。首都圏における「東京スポーツ」紙と同様に、大きな活字の見出しで売る(最近はカラーフルな印刷になっている)大阪の夕刊専門紙は、これ以上の活字はないと思われる大活字で「船場の奇跡・イトマン復配」と大々的に報じた。またマスメディアは河村を「中興の祖」と称賛した。ある週刊経済誌は表紙に大きな河村の顔写真を掲載し、企業ドキュメントとしてイトマンの再建を採りあげ、河村の経営手腕に対し最大級の賛辞を呈した。
以上言いつくしていない面もあるが、河村良彦の一連の経営理念・哲学及び諸施策によって、一応目先きの再建を果し得た経緯をみてきた。しかし、この時すでに後年の河村独裁、ワンマン政権の樹立、住銀磯田一郎体制及び収益至上主義と結びつき、やがてはブレーキを掛ける者のいない暴走・乱脈経営へ突入していく伏線が形成されていたのである。
心ある首脳、幹部の胸中には「このまま突っ走っていいのかなあ?」との一抹の不安が横切っていた。やや強引ともいえる商法、片よった人事政策、この時期すでに小規模ながらダミー会社を利用しての自社株の売買、株価の人為的操作も行われていた。イトマンの従来の取引先でもない先が大量のイトマン株式を買い集め保有し、(河村も株集めに協力していた)或る日突然高値で売り逃げ放出、イトマンが買戻しのうえ他株主をさがしはめ込むのに苦労したということもあった。東京支社繊維の取引に関して住銀支店紹介の案件について、従来のイトマンとは全く馴染みのない人物が介在していたこともあったときいている。
復配当時公表されていなかったので、少数の関係者しか承知していなかったが、復配の源資となった営業利益の中には、稼ぎ頭だった繊維の関連企業からの上納金が含まれていたという事実がある。これは経営指導料とか商標使用料等の名目で利益を本体へ吸いあげたものだった。
早春の候、近くの河川の堤防を散策すると、地表のあちこちからわずかに頭をもたげ、芽を出している土筆んぼをよく見かける。
奇跡と称せられた復配を果し、春近しを思わせたイトマン社内外のあちこちに土筆のような(?)の萌芽がひと知れず頭をもたげ始めていたのだ。
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