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第六章 河村超ワンマン体制
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(1)異議ある者は船から降りよ
『狡兎死して走狗烹らる』(出展「史記」)
うさぎが狩りつくされると、それを追って働いていた猟犬は不要となり煮て食われてしまうという意味から、役に立つあいだは大切にされるが、役にたたなくなるじゃま物扱いにされて捨てられてしまうというたとえである。
この類語として「飛鳥尽きて良弓蔵められる」という成句もある。
さて、河村良彦の人事政策はまさにこの成句がぴったり当てはまる手法だった。人事問題については前に若干触れたが、以下具体的事例も交えてその恐怖人事ともいうべき詳細について述べてみたい。
実は、イトマンの元副社長三名全員が河村良彦ら事件の三主役の公判に於て、検察側の証人として順次出廷し、河村人事について証言台に立ち、後方の被告席に着席し表情ひとつ変えずジーッと聞き入っている河村の冷い視線を背に受けながら、生生しくかつ淡々と検事の尋問に答え証言した。
まず筆頭副社長(人事・総務・広報担当)の証言から紹介しておこう。ナンバー2の副社長といえどもその権限はすべて社長に握られていたと前おきして、次のように証言した。
「(一)、昭和五十七年中ころ、当時の筆頭専務だった住銀のOBは、京都の提携先の婦人衣料問屋に発生した不良債権情報が住銀へ洩れたということで、社長の決定によって任期途中で実質解任されたという事実があった。この専務から情報が流れたという節はなかったと思われるのだが、本人は住銀のあっせんによってその関連先へ再就職できたが、非常に残念がっていた。(なお本人はイトマンを去った後に六十才にならずして不治の病で他界している)
(二)、平成二年六月末ころ、二専務、二常務の四名(いずれも住銀OB)について、六十才を越えたので後進に道を譲るべしとの社長の意向をうけて、九月での退任(任期途中の実質解任)の事前アナウンスを担当した。しかし退任の真実の理由は聞いていないのでよくわからない。
うち二名は、企画監理本部(新規不動産開発事業のため新設された部門)内の与信審査担当業務に関して、当時の常務伊藤寿永光(事件の被告人、後に詳しく述べる)の意向に副わない言動があり、他の二名は出身元の住銀内に人脈も相当あるので、情報洩れの懸念もあり、社長が住銀の意向を意識したのではないかと思っている。また、審査担当者は、怪文書の件(当時マスコミを騒がせた大蔵省銀行局長宛のイトマン従業員一同名の内部告発文書事件、後に詳しく述べる)で伊藤寿永光にマークされていたと聞いたことがある。
いずれにしても、社長の方針に反した場合は、「退いてもらいたい」或いは「降りてもらう」の宣告があり、自らの積極的なビヘイビアをとることは極めてむつかしかった。「退いてもらう」ということは、左遷或いは解任を意味し、自らの不利益を覚悟する必要があった 」
(河村良彦らの第五回、第九回公判、平成四年三月二十四日、同年五月二十二日)
六十才超でも現役として留任している他の役員はいたのであって、この特定の四名については河村は極端に神経過敏になっていたので、彼らが怪文書に関し何らかの関与をしていたと判断したのではないかと私は推測している。
四名の中には社長の信任極めて厚く、住銀時代から河村に公私にわたり恩義があり、イトマン入社後も十年余にわたり文字通り股肱の臣として真面目に仕え、河村のためなら例え「火の中、水の中でもいとわず……」という人物も含まれていた。その忠臣の首を或る日突然、とってつけたような理由で撥ねるのだから、まさに本項の冒頭に述べた成句そのものの人事だった。
河村によって解任された住銀OB役員の四名のうち、地道に手がけていたプロパーの不動産部門を統轄していた本部長が平成六年四月〜六月の三回にわたり(五十一回、五十三回、五十五回)河村良彦らの公判に検察側の証人として出廷し、数々の証言を行った。その中で本件に関する証言があるので紹介しておこう。
「この人のためなら……ということで約十年間河村社長にひたすら仕え努力してきたのだが、新規不動産開発(伊藤プロジェクト)の窓口担当者として後輩の名古屋支店長が指名されたので、自分はラインから外されたのだなあ……という心境だった。そこえもってきて、副社長から退めといわれたが、河村社長自身の口から直接声がかからなかったのが非常に情けなかった」
この証言から河村の非情かつ冷徹な人事政策の一端をうかがい知ることができるように思う。
次にもうひとりの副社長(東京駐在、非繊維部門担当)は、同じようなニュアンスだったが次のように証言した。
「河村の経営方針に対する疑念、意見具申、反対等はまずほとんど社内では見うけられなかった。カリスマ性でもって経営の執行がなされ、意向に反すれば、疎んじられ、とばされるという危惧があった。河村語録に『批判は許さない。批判する者は船から降りてもらう』というのがあった。河村方針に対し反対意見は言いにくく、やはり河村が怖かった」
(河村良彦らの第十一回公判、平成四年六月二十三日)
「河村が怖かった」というのは、当時の状況からして偽りのない、正直な感想であり、証言だとは思うが、冷静に考えればいやしくもイトマンの副社長だった人物のコメントとしてはいかがなものか。この一言が河村暴走に対し側近としてブレーキをかけえず、イトマンを破滅に追い込んだすべてを物語っていると思う。
また次に、さらに河村恐怖人事の生生しい新らしい証言がある。ナンバー3の副社長(財・経担当)が述べたものである。
「イトマンの自社株購入、株価操作のため(第十一章で詳しく述べる)のためのダミー会社三社に対する貸付金残は、社長からの指示により期末にはゼロにし、公認会計士には項目を削除し、記載しないように申し入れした。活字になると他の目に触れることになり、対外秘ではなくなるからだった。ダミー会社経由の自社株の買い集めについては、だれよりも社長自身がいちばん気にし、神経を尖らせていた。『本件は銀行はもちろんのこと他へは一切口外するな。君の腹の中へ収めておけ』と厳命をうけていたマル秘事項だった。
しかし、買いつけ額の増加とともに、ダミー三社の内容が次第にばれるようになり、公認会計士の方からも内容について指摘を受けるようになってきた。そこで社長に『対応がまずくて申訳ない』と実状を正直に報告したところ、『今の担当の経理本部長は君が適任だと推薦したのでもってきたが、彼は経理には合わんな、直ぐに代えにゃいかん』と顔色が変ったので、『異動については、いましばらく時期を延ばしていただいては……』と進言した。しかし(決めたらすぐ実行しないと気のすまないせっかちな)社長は、すぐその場で人事担当の副社長を社長室へ呼び、東京本社の副本部長への異動発令を指示した。本部長としての在籍わずか一年でいわば降格ともいうべき人事発令だった。さらに社長からは、より徹底した情報管理をやれと叱責と厳命をうけ社長室を退室した」
(河村良彦らの第四回公判、平成四年三月十三日)
まさに河村の人事方針とその性格を明白にあらわした間髪を入れない即断即決の人事だった。
「忠言は耳に逆らう」と昔からよく言われているが、河村が登用しお互いに次期社長を目指し競合させた三副社長が口を揃えて証言したように、ズバズバ献言したり、批判する者、或いは社長の意に副わない者は徹底して排除されていった。イトマンプロパーであれ、住銀OBであろうと遠慮会釈はなかった。
三副社長が申し合わせたように「社長への進言、直言は左遷とか退任につながるのではばかった」と検察側の主尋問に答えるものだから、伊藤寿永光被告担当の当時の主任弁護人から、弁護人の反対尋問の際に痛いところを突く鋭い反対尋問が展開された。
「社長への直言、意見具申を意識して避けるということは全く自己保身以外のなにものでもない。自分の現在の地位は会社が成り立ってこそ保たれるものだとの認識が欠如しており、代表取締役として無責任極まるのではないか」との突っ込みに対し、「自己保身ということでは決してない。会社全体の空気がそういうことであった」(河村良彦ら第八回公判平成四年五月八日)と証人の副社長からは極めて苦しい答弁がなされた。
このような降格、解任、左遷等の一方、河村はもちろん昇進人事を用意し、かつての自民党政権時代の大臣の乱造ではないが、時には不渡りに近い手形の乱発も行った。気に入った者、迎合し適宜ごまをすりながら擦寄ってくる者については、部長職への登用、理事、そして取締役、役付取締役への昇進というニンジンも充分用意していた。自分が独占して手中にしている人事権を真っ向からふりかざして、ムチとアメを適宜織り交ぜた恣意的な河村人事政策を展開していった。なかには十三年の長期にわたり経営陣に名を連ねた異例の人材もいた。彼は河村解任時には専務にまで昇進していた。
アメとかニンジンというような抽象的な表現ではなくその具体的事例について、好奇心が強く、物好きな私はある内容について時間をかけて克明に調査してみたので、ここに披露しておきたいと思う。それは河村政権時代の閣僚(取締役)についてである。
さて冒頭に述べたいのは取締役定員のことである。河村の十五年に及ぶ長期独裁政権時代に、定款の取締役定員の増員を株主総会に付議し、昭和五十二年、同五十六年、同五十九年、同六十二年の四回にわたり、三年〜四年おきに、三十名→三十五名→四十名→四十五名と五名ずつ増員をしていった。増員に別に制約はないが、年商約六,〇〇〇億円、従業員約一,三〇〇名の規模の中堅商社にとって四十五名という取締役総数は異常に多いのではないかと思われる。
次に閣僚がどれくらいの延人員に達していたか、その結果は驚くなかれ、イトマンプロパーから五十二名、住銀OB二十三名、問題の被告伊藤寿永光はじめ国税局、防衛庁、三井物産他外部からの招へいの外様八名を含め、合計八十三名にも及ぶ新任取締役が登用されている。河村内閣誕生後二年目の昭和五十二年には、なんと一拠に十一名にも及ぶ新任の取締役が選任された。うち半数の六名は高卒者だった。私も新任の一人だったが、社員一同その多人数の登用に唖然としたのだった。かつてのイトマンでは考えられない役員人事だった。単純計算すれば、十五年間に毎年平均五・五名の新取締役が誕生したことになる。一方では、新陳代謝がなければ便秘症状をおこすので、退任、解任等が不定期に頻繁に行われた。
次に閣僚のうちイトマン・プロパーでは約三〇%の十六名がノン・キャリア組だった。学歴無用、実力中心時代に、今さら学歴云云を主張するつもりは毛頭ないが、一部上場企業の従来の慣例では例をみない大巾な高卒者の抜てき人事だった。住銀がイトマンの合併相手とした非上場の住金物産の役員名簿に目を通したが、全員が学卒者だった。平成六年六月に山一証券の三木社長が“大激震人事”を断行し、役員の四分の一を入れ替え、高卒叩きあげ組四人を役員に一挙に昇格させたが、大阪の夕刊紙はこれを大きく報じた。まだこのような人事が新聞ダネになるような世の中である。先に述べたように、河村自身がノン・キャリア組だったが、住銀のエリートがひしめく中で、実力・業績中心でのしあがり、常務にまで昇進したエースだった。自分のキャリアも影響していたのかもしれない。河村抜てき人事の特色の一つだった。
高校卒で常務にまで昇進した抜てき組のひとりが、雑誌「経済界」の主幹佐藤正忠の取材をうけた時の、次のようなやりとりがある。興味深い内容なので引用しておきたい。
主幹が「学歴がないのに、よく常務にまで出世できましたね」と水を向けると、「みんな河村社長のお陰なんです。もう一度生れてこれたら、また河村社長にお仕えしたいと思っています」と臆面もなくこの常務は答えている。また主幹の佐藤は、彼の印象を「朴とつとした感じで、頭脳明晰とは思えないが、親分のためなら、火の中、水の中でもザブンととび込んでいくというタイプであった」と結んでいる(同誌平成二年七月二十四日号)
正常な感性をもっている者が、このちょうちん持ち的な、「よいしょ」の談話を読むと、全身がむず痒くなるような思いにかられる。
しかし昭和一けた生れの軍国主義教育を受けた私の世代の表現でいうならば、「七生報国」的なこの思想が自然と生まれてくる──これこそ河村独特の人事政策、いわゆるアメとムチの真骨頂だった。
さらに河村政権時代の取締役の退任、解任についても調査してみたが、その総数は五十二名にのぼっている。(任期中の死亡者三名を除く)特筆すべきはそのうちの半数以上の三十名が任期満了前の退任若しくは解任だったということである。「任期満了前」について私自身の身近な実例をあげてわかり易く世間の受け取り方を説明してみよう。
私は河村から昭和五十六年十一月四日付で、新規提携企業への転出を命じられた。と同時に同日付で取締役も退任との通告をうけた。一ヵ月半後の十二月二十二日の株主総会終結時に二期目の任期満了を迎える予定だった。だが、河村は約一ヵ月半が待てず、十一月四日付という中途半端な時期に取締役名古屋支店長委嘱を一方的に解かれた。
名古屋支店長を辞するに当り、当時取引のあった銀行十数行の支店長に挨拶まわりを実施した。そのうち特にじっ懇にしてもらっていた三行の支店長から、異口同音にこう聞かれた。
「イトマンさん。この間からちょいちょい役員さんの任期途中の中途半端な時期の退任があるようですな。まことに失礼なことをお聞きしますが、野木さんも何かありましたのですかなあ」
聞かれた方は返答に窮するわけだが、経済界における一般常識というか、慣例からすれば、任期満了前の役員退任について、このような疑問が生まれるのは当然だと思う。河村はかねてから「既成観念にとらわれるな」「発想を変化させよ」「過去にとらわれるな、白紙でスタートせよ」とさかんに説いてきた。河村は任期満了前の役員の退任、世間の風評、憶測等には一向にとん着することなく、自らの独善的な考え方に基づいて平気で慣例、常識等を破っていった。
なお、イトマンには「理事」といういわば準役員待遇の制度があった。その登用基準はいまひとつ明確でなかったが、次期ぐらいに役員に登用する予定者、役員に登用しないが業績他で理事処遇が適当と考えられる者、住銀OBで役員に登用しない者、役員を退任した者等が理事として処遇されていた。ピーク時にはその数約三十五名にも達していた。私の現役時代は理事もオブザーバとして取締役会に出席していたので、その出席人員は約八十名になんなんとする大世帯だった。玉石混交の濫造といえば言い過ぎであろうか。ここにも河村人事の真髄をうかがい知ることができると思う。
以上役員人事の具体例をあげて河村人事の輪郭を解説してみた。
このような人事政策を永年にわたり展開してきたのだが、年次別構成をみてみると、ビシビシ処断されてきたせいで人材に断層が生じたり、幹部の養成、教育も充分できない状況も見うけられるようになっていった。気骨のある商社マンらしい人材は放逐され、イエスマンの幹部が残ったことになる。
現実におこった生生しい事例をあげてみよう。住金物産との合併後、イトマン側の新体制の経営陣に、前社長芳村が代表権のない副会長ポストにおさまったので、ポスト芳村の人材に事欠き、特に営業経験の首脳に適任者がなく、イトマン側の代表責任者について、すでに関連会社の社長に転出済でイトマン本体に籍のない人物をわざわざ呼び戻さなければならない状況だった。イトマンプロパー現役役員の中には適任者がいなかったということになる。
かくして人事権を振りかざし、すべてトップ・ダウン方式で独裁政権を、親元の信頼する親分住銀元会長磯田一郎と全くウリ二つともいうべき体制を構築していった。しかし、すでに述べたように時間の経過とともに当初は清流だった川の流れも、次第に澱みはじめ、芥がたまり、やがてゆるりと流れる無気味などす黒い色をして悪臭を放つようになり、腐敗していくようになった。絶対的安定政権と考えていた河村に、信奉していた親分磯田から横槍が入り、退陣を求められる事態となる。
イトマン並びに住銀OBの役員、幹部は収益至上主義、恐怖政治に腑抜けの状態となり、去勢されて、さらにわが身(家族)が可愛い宮仕えのサラリーマンの悲しい性も複雑に入り交り、河村強引商法、暴走(乱脈)経営、イトマン崩壊にだれひとり歯止めをかけることなく、取締役会での河村解任決議は時すでに遅きに失していた。
河村は前述した通り、人材もトップからどやしつければかえって育っていくものだとの持論を主張していたが、その結末はまさに悲惨なものだった。
(2)「河村天守閣」(東京・南青山)築城の野望
「南青山がすべての始まりだった。この地上げ失敗で金が回らなくなり、土地や絵画などおかしな取引にのめりこんでいった」住銀の専務西川善文は住銀・イトマン事件を振り返ってこう呟いたという。
(朝日新聞・平成五年三月十八日付「イトマンの遺産」)
河村良彦は昭和六十三年東京青山通り沿いの一等地(南青山二丁目)に、東京本社ビル新築の大計画を発表した。高さ一二〇メートル、ホテルニューオータニ新ビルや帝国ホテルタワービルよりもハイクラスを狙った六〇〇室のホテルや、国際会議場の設備も装備するという大型ビルであった。そして四階までは高級輸入グッズ販売のテナントの入居も考え、建築費三〇〇億円に達するという大構想だった。
河村はこの東京本社ビルの建設計画の実現にすさまじい執念を燃やし、ジャーナリスト前屋毅のインタヴューに応えて「東京本社ビルも立派につくってみせますよ」と強気の発言で胸をはった。
(雑誌「WILL」「商売は売ってから買えが極意」昭和六十三年八月号)
住銀専務西川のいった「南青山がすべての始まりだった」というのはこの東京本社ビル建設用地一、五〇〇坪の地上げのことである。河村はこの用地の地上げに約九〇〇億円に近い巨額の資金をつぎ込んでいった。この投下資金の固定化と金利負担が後後イトマンの経営圧迫の最大といってよい要因となっていった。まさに住銀専務指摘の通りである。
この地上げは、最初は名古屋の不動産業「慶屋」が担当していたのだが、トラブル、訴訟問題発生のため、原田不動産(東京)にかわり、その後は例の伊藤寿永光が担当した。原田不動産の事務所が何者かに発砲されるというややこしい、う散臭い副産物までついていた。
地上げ業者は三代にわたったが、その成果は対外発表した進捗状況とは裏腹に虫くい状態で、予定通りの買収はできずじまいという惨澹たる結末となった。
イトマン元副社長(財・経担当)の法廷証言を引用すると、当初の地上げ担当の「慶屋」との間に、河村が仕組んだ利益出しのための奇妙な取引が行われた。その詳細を紹介すると、「慶屋」が地上げした土地を、伊藤萬不動産販売が一たん買取り、さらに「慶屋」へ売戻すという、いわばキャッチボールのような架空の取引だった。この取引に伴い、まず「慶屋」から売買(往復)の仲介手数料計約十四億円を徴収、「慶屋」が契約上の引渡し時期までに買戻しを実行しなかったとして、延滞損害金約四十七億円を請求し、合計六十一億円という巨額の臨時収入を昭和六十年九月期の営業収入勘定に計上したという。
(河村良彦らの第二回公判、平成四年一月二十八日)
ちなみにこの期の経常利益は約五十二億円だったので、この特別収入の方が単純に計算すれば一一七%とオーバーしていたことになる。なお、この証言終了後の閉廷間際に当時の担当裁判長の河上元康から「六十一億円にものぼるペナルティーは、実際に入金になったのですが、契約そのものは「慶屋」が了解し、“喜んで”契約したのですか」との異例の質問があった。法律の専門家ではあるが、経済音痴の裁判長もこの異常な商行為にびっくりしたのであろう。この質問に対し証人は「「慶屋」の契約の態度は“普通”でした」と答えたので、傍聴席を含む満場失笑で幕となったことを鮮明に記憶している。いまこの原稿を書きながらこの場面を思い出し再度苦笑している次第である。
公表済の利益計画を達成するためには、手段を選ばぬ粉飾まがいの決算操作だった。公認会計士にはどういう説明をし、監査報告書の適正意見を手に入れたのであろうか。イトマン側の監査担当窓口責任者の苦衷は察するに余りあるものがある。
地上げずみの南青山土地の受皿、並びに完成後のビル運営のためにイトマンビルディング(株)が昭和六十三年四月に、資本金二億円で設立された。副社長(財・経担当)は河村から早急に五〇〇億円に増資するように指示をうけていた。副社長は指示通り忠実に実行し、常識的には到底考えられないような急テンポで増資を実現させた。具体的には、設立月に直ちに四倍増資、五月には約一週間おきに夫々四倍増資を繰り返し、五月下旬には指示の五〇〇億円の資本金が実現した。ペーパー上の増資承認の臨時取締役会さえ開催する暇もない急テンポで、世間にあまり例のない増資だった。
この増資は子会社のノンバンクであるイトマンファイナンスが全額負担したのだが、同社に君臨していた実力会長(住銀OB、三宮(兵庫)、難波(大阪)の元支店長、故人)から「増資資金については運用利益が全くなく、配当も勿論見込めないので、大きな収益圧迫要因となってくる。イトマンからの借入れ金利を軽減されたい」とのクレームがついたほどだった。河村からはノーリプライのためこの会長は一方的に軽減された金利で、イトマン側へ支払ってきた。
当時イトマングループでは、土地取得原価に借入金金利を算入する会計処理方式を採っていたので、地上げ資金の借入れ増加とともに、簿価と実勢価格との間に非常に大きな乖離が生ずるので、河村はこのような常軌を逸した増資方法を採ったものと思われる。
平成二年五月二十四日、日本経済新聞(以下日経新聞と称す)が、例の「イトマンの不動産過大投融資」問題(第十四章(1)で詳述する)についてスッパ抜いたので、痛いところを突然突つかれ苦悩した河村は、表面を糊塗する防衛手段として、副社長に対しまたまた再増資実行の厳名を出した。イトマンファイナンスからは前述の通りクレームがついたので、今回は伊藤萬不動産販売が(同年七月十九日)、名古屋伊藤萬不動産が(同年七月二十九日)、夫々二〇〇億円を負担し、計四〇〇億円という巨額の増資が実現し、遂に九〇〇億円という過大資本金のグループ企業に変身していった。ちなみにイトマン本体の資本金は、当時約四七〇億円だった。まさに親子の資本金は逆転してしまった。当時イトマンビルの借入れは計八五〇億円もの巨額に達していたが、この借入れを返済して手許に五十億円の現金が残った。
この南青山土地の強引な巨額の資金投入については、公認会計士も注視するようになり、住銀サイドも虫くいの敷地だし、完成後のビル経営の採算性についても懸念を抱くようになっていた。いかに強気で鳴る河村といえども、経営上の圧迫要因として危機感は勿論もっていたし、住銀からもとやかく言われないよう呻吟していた。マスコミ対策もさることながら、この二者に対し、表面を糊塗する見え見えの苦肉の増資策だった。
(以上元副社長の法廷証言による。河村良彦ら第六回公判、平成四年四月十日)
この東京本社の館の建設は、河村のかねてからの念願、執念であり野望だった。だが、ビルの採算性も全く度外視した無軌道極まる地上げ投資は自らの首を締め、冒頭に記した住銀専務の指摘を待つまでもなく、イトマン崩壊のきっかけとなった。
しかしイトマンビルの代表者であり(本人は名前だけのキャップ(帽子)であり、経営、運営には全くタッチしていなかったと言っている)かつ、イトマン不動産部門全般の統轄本部長(代表取締役専務)でもあった住銀OBは、平成六年六月二十一日の河村良彦らの第五十五回公判に証人として出廷し、弁護人の反対尋問に答えて南青山土地の担当責任者としての当時の偽らざる心理状態について、次のように心情を吐露した。なお証人は持病のアレルギー体質がさらに悪化し通院している身であったが、延べ三回出廷し誠実に証言した。次から次への尋問攻めに会い、相当疲労したようだった。
「南青山への東京本社ビル建設の大構想は、河村社長ひとりの悲願であって、私は早く買収済の土地を他へ転売して一応の利益をあげ、金利負担も多大だったので、これで“一巻の終り”にしたいという希望が極めて強かった」
この証言から察するに代表取締役及び他の首脳陣の全面的同意をえたものではなく、本件も河村の野望にもとづく独走だったといえよう。
天正十一年(一五八三)の豊臣秀吉の大阪城築城ならぬ東京・南青山の一等地に位置し、完成したビルの最上階の社長室からは、赤坂御所や神宮外苑のみどりが眼下に見下せるという「河村天守閣」築城の河村の悲願というか野望は無残にも打ち砕かれ、地価が暴落した虫くいの土地だけが残ってしまった。
朝日新聞に掲載された航空写真をよく見ると(前出、平成五年三月十八日付)土一升に金一升の当該地には、平屋と二階建の飯場のようなプレハブがポツンと建っているだけだ。
バブルの置土産、後遺症といってしまえばそれまでだが、無残というほかない。
たったひとりの兵の見果てぬベラ棒にコストの高くついたというよりもイトマンの屋台骨を揺るがせた夢だった。思わず涙のでる思いにかられてしまう。
(3)河村良彦の心の喝きと神・仏頼み
二代目イトマンビルは昭和五十一年三月に竣工した。初代ビルの解体から三年、当時の総工事費約四十五億円、赤御影石の外壁、防災設備の先取り設置、自動制御の空調機器、大きく厚いガラス窓等近代建築技法の粋を集めたビルだった。
屋上には近代ビルには似つかわしくない赤い鳥居の「稲荷神社」が祀られていた。この神社は阪急電車宝塚駅(兵庫県)の近く、裏側には武庫川の清流(最近は汚濁によって清流とは表現し難いが……)が流れるという風光明媚の地にあった「萬朶荘」という建物の庭園にあったものを遷座したものである。
この「萬朶荘」のことについて少し説明しておきたいと思うが、そもそもはイトマン二代目社長伊藤萬助個人所有の別荘だった。その後厚生施設として会社資産に移った総桧造りの立派な造作の建物であった。緑に囲まれた広大な庭園があって、大広間から眺める泉水には、赤、白、黄、黒等の色とりどりの錦鯉が遊泳しているという、今再建築せよといっても恐らく不可能と思われる豪華な木造の施設であった。グループや、部・課の懇親会や忘年会などに利用したりして、中堅以上の社員にとっては、馴染み深いなつかしい郷愁を感じる思い出の多い場所だった。
また、イトマンの重要なお得意先を年一回招待のうえ「萬昭会」と称する園遊会をこの「萬朶荘」で開催して、屋台がでたり仮設舞台では余興の漫才や落語等の演芸があったりして、イトマン側は役員をはじめ営業関係者総出でお得意先の首脳を日頃のご愛顧に感謝し、手厚く持て成したものだった。
このように有効に利用されてきた「萬朶荘」も、昭和五十年河村政権になってから、再建のため遂に処分せざるをえなくなり手放すことが決定された。ある中堅ゼネコンに売却し、建物は取りこわされ整地されて高級マンションになってしまった。
イトマンの当時の経営陣は「企業の明日への再起のために……」と祖先の霊前にこれを詫び、かつていつの日にか萬朶荘以上のものの奪回を堅く誓ったのだった。
話がチョッと横道に外れてしまって恐縮だが、「萬朶荘」の売却に伴い「お稲荷さん」をイトマンビルの屋上に遷座したという経緯があったのである。
この遷座はイトマンをはじめ、イトマンビルへ入居のテナント各社の繁栄と、従業員の安全並びに商売の繁盛を祈って実施されたものである。私は無神論者に近い考え方をもっているので、先に近代ビルに似つかわしくないお稲荷さんと表現したが、大阪の各百貨店や主要ビルの屋上にはほとんどといっていいくらい設けられているので、前言は取り消さなければならないかも知れない。
さて、多分社長河村の指示によるものと思われるが、同六十一年四月には稲荷神社の立派な新社殿が建立された。社長はもちろんのこと、当時の会長伊藤寛、イトマンビルテナント各社の代表者も列席して、旧社殿からの遷宮祭がおごそかにとり行われた。
社長河村の日課は、遅くとも午後十一時までには就寝、朝は五時五十分までに起床、六時五十分には家を出て(冬期はこの時間未だ夜が完全に明けていない)、会社へは七時三十五分〜四十分に入り、八時からは先に述べた「朝会」に必ず出席するという早朝のルーチンだった。社長在任中の十五年間、前夜接待の宴席、情報の収集等で帰宅が午前様になろうとも、毎朝寸分の狂いもないスケジュールだった。
さて、河村が早朝七時三十五分ごろに出勤すると、いつの日からかは定かではないが、屋上へすぐさまあがり「お稲荷さん」へお参りをするようになった。朝まだき澄み切った空気の中で、柏手を打ち、敬虔な参拝をするのだった。御堂筋には未だ車の通行も少く、通勤者もまばらで騒音もほとんど無く、河村の柏手の音が静寂な空気を打ち破るような感じであった。
河村のこのお稲荷さん詣でを伝え聞いた関連会社のある幹部は、早速河村に同行し参拝するようになった。また、ある関連企業の代表者が年初一月四日の早朝に、年始挨拶のために社長室に入った時(河村のスケジュールは終日ぎっしり詰っていたので、早朝出勤時につかまえて報告なり決済を受ける必要があった)
「おい、君。屋上へ一緒に来んか!!」
との誘いをうけ、朝早くからなんの事か、ラジオ体操でもするのかと思い、怪訝に思いながらついていくと、玉串を奉てんして河村と一緒に柏手を打ったというエピソードもある。
ここらで河村政権時代の歴史を繙き、その歴史の針を少し巻き戻してみたいと思う。
昭和六十年には河村の甥をイトマンへ入社させ燃料部長に就任させたが、河村自らこの甥と共に手がけた石油業転事件が発生、約一〇七億円の未計上債務が発生し訴訟をおこした。
同年、河村は住銀と平和相互銀行との合併(同六十一年十月)について水面下でオーナーの小見山家の株を肩代りした川崎定徳(佐藤茂社長、平成六年八月死去)にイトマンファイナンスが住銀のダミーとして五〇〇億円を融資する等地ならしを行う等暗躍を続けていた。
同六十二年には提携先の居酒屋チェーン「つぼ八」の創業者との間でゴタゴタが続いていたが、彼の解任を強行し経営権を完全に掌中に入れた。いわゆる「つぼ八事件」である。
さらに同六十年ころ、関連企業の大日本コンピューター(代表者住銀OB)が経営不振に陥入り整理、約一一二億円、同六十一年ころにはおもちゃの自動販売機の製造販売会社に対するイトマンサイドからの過大投融資が蹉跌をきたし、これまた約一一二億円の損失を夫々被った。イトマン本体の当該部門の責任者も住銀OBだった。(これらについては第五章で詳しく述べた)
いずれも三桁億円にのぼる巨額の損失であり、旧経営者時代のイトマンの立場からは想像すらできない、まさに天文学的巨額の損失だった。河村政権時代でもこれだけの高額の損失、過去に新らしく手がけてきた事業の相次ぐ蹉跌による不良債権の累積を、通常の営業活動であげ得る収益で吸収償却することは不可能な最悪の事態となっていた時期だった。
このような経営の実態について、かつては自信にあふれ、強気と剛腕で鳴る河村自身も思い悩み、心理状態が不安愁訴状況となり、その心身の疲労は極限の域に達していたものと思われる。
このように崖っ淵に立たされ、相撲の例でいうならば土俵際で両足が徳俵に足がかかり、あとが無い状態に追い込まれた河村は、自分の心の安らぎをお稲荷さんへのお参り、早朝の柏手に求めたものと思われる。ビル屋上のお稲荷さんの新社殿の建立ができたのは先にも述べたように、六十一年の春だった。
彼はお稲荷さん参りだけではなく、仏様詣も熱心に実行していた。
朝日新聞は平成三年七月二十四日(イトマン社長河村逮捕の翌日)から、前から準備していたのであろう「バブルの履歴書・イトマン事件」と題する特集を七回にわたり掲載した。その第三回に「株買い集め、社長に執着」と題する河村特集を組み、“住銀会長磯田一郎からの退任要求に自己防衛、解任されて住銀に恨み”云云の解説がなされている。その特集面に「『合掌』恒例の参拝。山中の寺で信徒らと一緒に手を合わす河村容疑者(当時)、お経が流れる」というタイトルで、本堂前で合掌し念仏を熱心に唱える河村の写真が大きく掲載されていた。他紙には見られないいわばスクープ写真だった。この特集は「梅雨の週末、河村は夫婦でいつもの山寺を訪ねた。般若心経の唱和が一時間続いた。まぶたを閉じた河村のみけんに深いしわが浮んでは消えた」と結んでいる。
この写真は同年六月二十二日午前十一時半ごろ、朝日のカメラマンによって撮影されたものだが、大阪地検特捜部による河村逮捕の丁度一ヵ月前のことだった。この時すでに大阪地検による参考人としての事情聴取もうけていたものと推測されるし、マスコミも「逮捕近し」とのいわゆる前打ち記事を連日のように掲載していた時期だった。心理的にも極めて不安定なイライラの眠れぬ夜を幾夜ともなく過していたと想像されるが、頬の肉はたるみかつ痩けて憔悴の跡がうかがえた。そこには私の現役時代に接していた元気溌剌たる面影は全くうかがえなかった。
河村が般若心経を唱えていた山中のお寺は、実は西宮市等の大阪や兵庫の衛星都市にあるのではなく、驚くなかれJR福知山線道場駅下車(私の中学時代、飯盒炊さんのハイキングによく行った所である)鏑射寺(三五〇メートル)の脇道を入っていった奥にある鏑射寺という山寺だったのだ。近くには有名な有馬温泉のあるところである。
この山寺は近畿三十六不動尊第十一霊場に教えられ、約一千三百年前に聖徳太子が建立したと伝えられている真言宗の名刹である。
河村はこの鏑射寺の住職に心服し昵懇だったようである。どういう切っかけだったかは定かではないが、イトマンの社長になった昭和五十年代の前半から、この山寺に通ずる坂道を登るようになったという。そして河村が計画していた新規事業や社内の重要人事に至るまでここの住職に相談し、また自分の悩みまで打ち明けていたようで、河村にとってはここの住職は師と仰ぐ人になっていたようだ。
イトマン社長の全盛時代でわが世の春を誇っていた時期には、信徒代表も務め、本堂の改修工事のために相当額の寄進もしたという情報もある。河村が保釈後に、この本堂改修完成を記念してのパーティーが宝塚のホテル(兵庫県)で開催された時、秘かに出席していたともいわれる。
河村は心の喝きをいやし、第十二章で詳しく述べる東京・立川株をめぐる十億円の個人的費消についても罪の意識に苛まれていたであろうし、不安定な精神状態を少しでも和らげるため、一時間余にわたる般若心経の唱和と、定例の鏑射寺詣に精を出したものと思われる。まさに溺れる者はわらをもつかむというか、苦しい時の神・仏だのみだった。
いかに強気一点張り、負けん気の強い、強引極まる経営手法を展開してきた河村も、やはり人の子であり、弱い人間性の一面をもろに見せた場面だった。
社長就任以来がむしゃらに全速力で飛び続けてきた河村にも、羽根を一時休めるとまり木が必要だったのだ。
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