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第七章 住友銀行のドン磯田一郎

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 (3)休日の突然の辞意表明

 「私、昨夜、会長辞任を、頭取に申し入れました。一部の者の犯罪とはいえ、銀行の公共的使命からして、誠に重大であり、トップが責任を取るのは当然と考え、会長を辞任することにいたしました」

 身長一七五cm、京都大学時代ラグビーのセンター・スリークォータバックとして活躍し、鍛えあげた肩巾の広いガッチリした大男が、用意された椅子には腰をおろさず、並んだマスコミのマイクを上向きにするよう指示し、直立不動のままか細い、と切れ勝ちの言葉で辞意を表明し、深々と最敬礼し頭を下げた。傍らにはやゝ小柄の男が上目遣いに気遣うように立っていた。

 この突っ立った二人は住銀会長磯田一郎と、頭取の巽外夫だった。住銀のドンといわれ、アメリカの国際金融誌「インスティチューショナル・インベスター」のバンカー・オブ・ザ・イアー(年間の最優秀銀行家)に選ばれた面影が全く失われた磯田の姿だった。

 住銀の北青葉台元支店長(東京)が、支店の顧客から仕手グループ「光進」代表の小谷光浩へ巨額の融資をさせる仲介をして、出資法違反容疑で平成二年十月六日逮捕された。この責任をとって翌日には早々と会長が辞任するという緊急記者会見だったのだ。

 住銀はこれまで「支店長の個人的立場によるもので、銀行による組織犯罪ではない」と繰返し主張してきたが、この日は一転して最高首脳の辞任にまで発展した。しかし会見内容は歯切れの悪い弁明に終始したものだった。

 時は同年十月七日の日曜日午前十一時からという異例の休日の記者会見だった。翌日の月曜日に一日ぐらいずれても一向に差支えが無いと思われるのだが、なぜわざわざ日曜日を選んだのか全く理解に苦しむ会見だった。

 住銀の東京公報部員はこの日、休日の心地よい眠りを午前六時ころの朝まだき、緊急電話でたたきおこされ招集がかかった。そして日銀記者クラブ加盟の二十三社に「会長と頭取が緊急会見する」との連絡がなされた。しかし会見の中味は全く聞かされていなかったようだ。金融担当の各社の記者も折角の休日早朝からたたき起され、会見場の東京丸ノ内住銀本部十二階の大会議室へ足を運んだ。

 住銀本体の光進へのう回融資についてのかかわり合いについて、詰めかけた記者団から質問が集中した。

 会長「事件は調査中で私は聞いていない」

 頭取「う回融資はなかったと信じている。光進の代表者小谷さんへの通常の融資はあったかもしれないが、それは今回の辞任と全く別の問題だ」

 会長「頭取も辞めたいといってきたが、今回は思いとどまってもらった」

 さらに、会見の最後の方になって、記者団からイトマン問題について鋭い質問が続出した。記者が聞きたかったのはむしろこの方だったかも知れない。

 「今回の辞任理由に、住銀が深くかかわっているイトマンの経営問題は絡んでいないのか」

 「それは全く別のことだ」

 磯田は急に気色ばみ、吐き捨てるようにいった。そしてこれ以上の質問をさえ切らんばかりに会見を打切った。約十三分間の二人とも直立のままの短い会見だった。この日は奇しくも頭取巽の六十七回目の誕生日だった。

 この辞任発表で住銀の十三年半に及ぶ磯田体制に終止符が打たれたことになる。磯田の辞任は金融経済界に大きな衝撃波となって、波紋を広げ特に住友グループ首脳にも衝撃を与えたようだが、その反応は割合厳しい見方が多かった。

 その代表的なニ例を紹介しておこう。

 「辞任は当然のこと」(住友商事名誉会長津田久(住友評議員会の前委員長))

 「住銀元支店長が起こしたあのような事件は、「浮利に走らず」とする住友の精神からはまったく考えられない。ともかくもうかればいいという「現代合理主義」から出たかもしれないが、私にはまったく賛成できないことだ。創業三〇〇年になる住友グループとして、まったく恥ずかしいし、社会に対して申し訳ない。磯田君が辞めるのは当然だ。あまり驚きはない」(上山保彦住友生命保険社長((大阪商工会議所副会頭))(当時))

 さらに「磯田さんの辞任は直接的には元支店長逮捕ということでしょうが、住銀はこれまで強引というか、高圧的な姿勢で取引先の評判を落とすことがあった。それは磯田さんが最高実力者として君臨し続けた中での現象だったわけで、この機に退かれるのも一つの決断だったと思う。そして磯田さんの剛腕からすれば、会長を辞任されてもしばらくは、実力は温存されるでしょう」とつけ加えた。

 いずれも朝日新聞記者の取材に対するコメントである。(平成二年十月八日付朝日新聞)

 日曜日のため夕刊が無いので、TV・ラジオのニュース等で磯田の辞任の報を知った住銀行員の間にも、衝撃とショックの波が広がった。翌八日の月曜日住銀の全支店では始業前に異例の朝礼を一斉に聞き、頭取巽外夫(当時)の訓示を支店長が読み上げた。

 「当行にとて誠に慚愧に堪えない事態が発生し、会長は責任を痛感され、辞任の意向を表明された。銀行の公共的使命を改めて認識し、整斉とした業務運営に邁進されたい」

 一方、イトマンでは河村政権誕生以来強力な「後ろ楯」となっていた会長磯田の辞任は、河村御大はもちろん、首脳陣にも大きなショックを与えた。日曜日にもかかわらず緊急招集が副社長ら幹部にかかったようだ。

 翌八日イトマンは朝十一時からナンバー2の副社長(人事・総務担当)が緊急記者会見を大阪本社で開いた。何故か新規不動産開発事業担当の副本部長(同年六月取締役に選任。自営の設計事務所の代表者)が同席していたが、場違いの感じだった。副社長は、

 「磯田会長の辞任と当社は無関係。これまで通りの良好な関係を続けていく。河村社長本人は辞任というような考えは全くもっていない」 と強気の会見をした。記者会見には必ず出席し、持前の強気の──時には「はったり」を利かせた発言をしてきた社長河村の姿は何故か見かけなかった。磯田辞任の発言のあった日曜日の夜には、イトマンの首脳陣はほとんど自宅へ戻っていなかったようだ。

 磯田辞任発表の翌月曜日の株式市場は円高傾向もあって相場全体が急騰し、前週末比東証終値は八〇二円高を示したが、住銀株は他の都市銀行十一行など銀行株全体が堅調な中にあって、売り物が続いて、終値は一〇円安の一,六四〇円、イトマン株は売り一色で大引け間際にようやく取引が成立し、前週末比一〇〇円安の八四三円のストップ安をつけ、兜町はすばやい反応を示した。

 行員総数一八,〇〇〇名余、全国支店網約三二〇ヵ店の住銀の一支店長が犯罪を犯したからといって、実力会長が責任をとって辞任していたのでは、首がいくつあっても足りないはずである。今回の会長の突然の辞任並びに頭取の留任は、イトマン問題とその処理がからんでいるのだという見方が、当時関係業界、マスコミ間では根強く流れていた。辞任の“真相はこうだ”については、後に詳しく述べることとしたい。

 朝日新聞大阪本社社会部は、磯田辞意表明の翌十月八日から、専任のプロジェクトチームを組んで、住銀・イトマン事件の本格的取材をスタートさせた。エポック・メーキングな辞任だった。

 前出の龍谷大学経済学部教授奥村宏は、平成二年十月七日(日)、歴史はこの日から大きく変ったと論じ、それはまさに、「太平の眠りをさます」記者会見であったと名づけた。(現代教養文庫 奥村宏/佐高信著「揺れる銀行・揺れる証券」)
  
 (4)磯田対河村の礼賛から怨恨への豹変

 河村良彦はイトマンの社内報(昭和六十一年七月発行二三二号)に「私の会った魅力ある商人」と題し、住銀磯田一郎(元頭取・会長、故人)について口を極めた称賛の一文を寄せている。その内容を少し長文だが紹介しておこう。

 「私が住銀に勤めていた時、磯田副頭取(当時)からいろいろな心構えと指示を与えられたことが今でも鮮明に頭に残っています。その内容は極めてありふれた話ではありましたが、磯田個人の人間的魅力に打たれ、この人のためならばと己れをなくし、これから赴く会社(イトマンのこと)の業績発展に全力を尽くす覚悟をしたことを思い出します。同氏とは銀行の若い現役時代、部下として数年仕えたことがあります。当時から、部下を思いやる気持ちの中から人間の特性と能力を見極め、公平な皆が納得のいく部下の使い方をしておられたことは、理屈を離れて見事というほかはありません。常に前向きに仕事を考え、思い切って仕事を部下に任せながら、その責任は自分で取るという仕事のやり方を貫いておられました。

 その結果、部下は自分を棄て、その仕事と運命を共にするまで働く気になったのです。

 こうしたやり方は、すべて同氏の人間的な魅力から生まれてきたものなのです。

 人生の中には幾度か大事な節があり、その節の時に生まれる人間関係が、人生の中で最も大切な友人関係を作り上げるといわれています。一生を通じて心に残る人間関係は魅力ある人間との利害を離れたつき合いであり、これはお互いに常に相手のことを考え、反対給与を考えないことから始まります。

 GIVE AND TAKEではなくGIVE AND GIVEの気持ちがあって、初めてお互いに未知の人間関係から信頼関係が生まれてきます。また、人間の魅力も他人のために尽くすことから生まれてくるものではないでしょうか。仏教の教えにもあるように、私達はなに気なく生きているのではなく、神仏の意図によりある目的を持って生かされているという考えから、己れをなくし、友人、会社、国家のために尽くし、また会社の仕事に命運を賭ける覚悟が生まれてきます。この考え方こそが、人の魅力を創り上げてくるものだと思います」(原文通り)

 今では刑事被告人として一年余の拘置所生活を送り、現在月二回法廷の裁きの庭に立つ河村が自らペンを採り起草した仏教の説法まで説いているこの一文を、河村にいま一度静かに読みかえしてもらい、八年後の読了後のコメントを是非聞きたいものだと思っている。

 磯田一郎賛歌のこの一文をイトマン社員やOBの前に披露した河村は、平成三年一月に社長を解任された後、直ちにペンを採り、前出の「文芸春秋」の手記の中で──この手記は同誌の表紙や新聞広告にも大きく印刷され、いわば四月号の目玉記事だった。──

 数々の恩義のある古巣の住銀とドン磯田一郎に対し、いまさら引かれ者の小唄といった感がしないでもないが、一転して数々の恨みつらみとエクスキューズを織りまぜて綿綿とその心情を吐露している。

 これを要約して紹介しておきたいと思う。

 「私と磯田さんは言うまでもなく住銀での先輩と後輩です。磯田さんが営業部長のときに、巽氏(前頭取)がその下の営業部次長、そして私が部長代理という関係です。そのときに私は非常に業績をあげ、磯田さんに大変喜ばれたものです。その後磯田さんは常務になり、出世していくわけですが、私はそうした磯田さんの栄進に大きく寄与したという自負を持っています。

 また平和相互銀行株式の川崎定徳(旧川崎財閥の持ち株会社)の佐藤茂会長(平成六年八月死去)から住銀への橋渡し役は全くの無償行為として行ったのです。論行功賞は一切ありませんでした。

 私はこれまで磯田さんのいうことはなんでも聞いてきました。自分で磯田一家の第一か第二の番頭格のつもりでやってきたのです。世間ではイトマンのことを、「住銀のタン壷」だとか「住銀の風呂焚き」とか称しているようですが、私は人から何といわれようと、人のためにするというのを人生哲学として、今日までやってきたのです。私にはものを頼みやすいし、すぐに引き受けてくれる、そのくせ反対給付はいらない(?筆者)というので、いろいろと頼みやすかったことは事実でしょう。今回のためにするイトマン騒動の中で、私がここまで頑張ってこられたのも、そういうことが大きな理由のひとつにあるのです。

 私と磯田さんの関係は長くそして深いものでしたから、黒川夫妻(筆者注・磯田一郎の長女園子夫妻、第十章(1)で詳しく述べる)とも以前からつき合いがありました。黒川君経営のアパレル「ジャパンスコープ」を設立する時など、払い込みに必要な資金以外の手続きはすべてイトマンで面倒をみたのです。そのうえ経理担当者としてイトマンの課長を無給で出向させたほどでした。「ジャパンスコープ」が赤字の時などイトマンから融資もしたのです。

 私は住銀、そして磯田氏のためにこれだけのことをしてきたのに、なんでこういう仕打ちを受けなければならないのかという思いで胸が一杯です」

 イトマン社内報での磯田賛歌と河村の人生哲学、これと社長解任後の磯田に対する恨み節、そしてイトマンの抹殺を並べて対照するとき、何回か繰返えし読んだが、私の頭の中では消化不良となり、二手記とも極めて後味の悪い読後感だった。手記にみられる彼の人生哲学、倫理観に基づき経営が整斉と運営されていたなれば、イトマンの消滅もなかったのではないかという思いが極めて強い。彼を取り巻く環境の大きな変化はあったにせよ、対磯田一郎観の見事なまでの豹変ぶりである。

 また、河村はこの手記を次のような無気味な一文で締めくくっているのでこれも紹介しておきたい。

 「最後に改めてこの手記を書いた動機のひとつは(社長を解任されて)一浪人となった私の立場としては、イトマンの生死を手中にする大きな力(筆者注・住銀のことか?)に対する抑止力として、事実を明確にできる証拠を現時点においては伏せて置きたいと決意したからなのです」

 執筆した本人はなにを言わんとしたのか、もちろん充分承知の上だが、読者にはもうひとつその真意が判然としない。私は、「(河村は)強烈な爆発力をもつ時限爆弾を抱えていますよ、住銀、磯田一郎サン、いつでもタイマーをセットして爆破できるのですよ。その時はあなた方は吹っ飛んでしまいますよ」という意味に受けとっているのだが……。

 一方、イトマンの社長として河村を推薦し送りこんだ磯田一郎の河村良彦評は次のとおりである。評論家佐高信のインタービューに答えて曰く。

 「河村が何をしたというんですか。いろんなことは言われてますよ。でも全然心配してません。商社ですから、それは何かやってますよ。石油業転をめぐる裁判や、「つぼ八」(筆者注・居酒屋チェーンの経営をめぐるトラブル(第五章(1)で詳述済)のことも聞いてますが、商社は銀行と違って何千、何万という取引がある。そんなことを言っていたら商社の経営はできません」

 佐高信特有の辛口の切り込みに対し、河村を上のように全面的にかばった。(雑誌「プレジデント」平成元年十二月号「磯田一郎と安藤太郎」)

 また、磯田一郎は日経新聞記者の東京私邸での夜討ち取材(平成二年三月二十九日夜)に対し、次のように答えている。なお、日経記者はイトマンの不動産過剰投融資に関し、同年二月から積極的取材を開始していた。この私邸での夜討ちの取材は三回目だった。

 「河村君をみんな悪く言う。でも、繊維の問屋の面倒を随分見たし、銀行のために役にたった。(筆者注・東京の立川、丸正(いずれも二部上場)、神戸の近藤忠商事(現セルコン)等のイトマンとの業務提携によるてこ入れを指すものと思われる)十年も粉飾していたはずがない。あってもここ一〜二年だろう。不動産がうまく行っていないのは確かだが、安宅産業ほどのことはないだろう」

 さらに言葉をついで「河村は伊藤寿永光を使えば(前述のとおりすでに二月一日に理事としてイトマンへ入社済)不動産がうまくいくと思っているようだが、きっと失敗するような気がする。俺はここ何年かあいつに相当迷惑している。でも何もいわん。それにしても雅叙園観光だけは余計だった。(筆者注・イトマングループが平成二年一月に資本参加、第三者割当増資九七〇万株引受け(第九章(3)で詳述する))どうしてこんなことになったのか……。河村が伊藤を副社長にするなど、素っ頓狂なことをやらんでくれればいいが……」と続けた。

 その後も日経の取材は続いたが、約五ヵ月後の八月十四日夜、磯田は

 「審査部長の時、副部長巽君(現会長)、次長が河村君だった。彼とは一年くらいしか一緒に仕事していない。それ以後河村君とは、四〜五回しか会っていない。親しいわけでも何でもないのだ」と河村とは頻繁に会っているのに「(イトマンへ入社以降)四、五回しか会っていない」などと空々しいウソを口走った。(以上日経新聞「事件」)

 このように磯田の河村に対する見方も、時間の経過、住銀・イトマン事件の火勢の拡大、延焼の懸念とともに、河村と同様これまた大きく変化していった。住銀の会長ともあろう人物が見え見えのウソもつくようになった。

 翌平成三年四月には(河村の文芸春秋手記発売後)東京の磯田一郎の私邸前で待ちうけていた週刊「テーミス」誌の記者に対して、次のように語っている。

 「イトマン問題については僕は一切しゃべらん。河村には好きにいわせておくよ。僕は(イトマン問題を)墓までもっていく。河村なんかと今後話し合うこともあり得ません」と。磯田に同行して外出先から帰って来た夫人も横から「河村さんは、気が違ったのとちがいますか」と口をはさんだという。(同誌平成三年四月二十四日)

 この時期になると番頭格だった河村も、磯田夫人に狂人扱いされてしまった。

 河村はかつて住銀時代机を並べて仕事をし、同じカマのめしを食った磯田、そして巽から奇しくもイトマン社長の辞任を迫られ、引導を渡されることとなる。しかもかつては師と仰ぎ、崇拝し、尊敬の賛辞を呈していた大先輩の親分からである。運命の皮肉、いたずらと言うべきか。河村はこれに対し頑強に最後の最後まで抵抗するのだが……。

 実は平成二年十一月七日、磯田、河村、伊藤(寿永光)の三者会談が、大阪駅前のヒルトンホテルの二十三階にあるイトマン専用室二、三二六号室(月額一三五万円で借りていた)で行われた。なぜ専用室が必要だったのか私にはよくわからない。

 「河村君も伊藤君もイトマンを辞めたらどうか。そうすれば、イトマンが伊藤君に融資している二,〇〇〇億円については住銀が肩代りして伊藤君に融資しよう。イトマンの面倒も住銀でみますよ。しかし、二人とも会社に残るようであれば、イトマンの会社更生法を申請する」

 「磯田さん。それは話が違うじゃないですか。そういうことはできません。イトマンはイトマンで必ずやっていきます。潰すということはできません」(文芸春秋河村手記)

 かくして磯田、河村会談は真っ向から決裂し永年にわたる公私に及ぶ親分子分の関係に大きなひび割れが生じ、完全に終止符が打たれた。そして翌八日には伊藤寿永光は皮肉にも河村の手によって、その裏切り行為のため首をはねられることになる。伊藤の深慮遠謀というか、彼の計略は途中で挫折した。

 住銀のドンはこの席上「伊藤の二,〇〇〇億円を住銀が肩代りする用意がある」旨の注目すべき発言をしている。私にとって、この磯田発言は今回の事件のナゾの一つでもある。


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