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第七章 住友銀行のドン磯田一郎
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(1)超ワンマン・利益至上主義とその崩壊
いま私の机上に近藤弘著「住友銀行七人の頭取」(日本実業出版社刊)が積みあげた資料の上に置いてある。出版された当時(昭和六十三年秋)行きつけの書店の平積みの中から、題名に興味を抱いて購入したものである。しかし当時は現役時代の多忙さにかまけて「積ん読」で放置してあった。
この原稿を執筆するにあたり、改めてひもといているのだが、巻末の「住友銀行戦後史の歩み」をみると、戦後の昭和二十年以降、歴代頭取(昭和二十六年までは社長と呼称していたようだ)は、野田哲造、鈴木剛、堀田庄三、浅井孝二、伊部恭之助、磯田一郎、小松康、巽外夫と交代している。現頭取の森川敏雄をいれると九名が戦後頭取の座についたことになる。
このなかで、堀田庄三が頭取十八年半(頭取の座についたのはまだ五十三才の若さだった)会長六年、計二十四年余の長期にわたり権力の座についていた。会長になっても人事権を一手に握って実質において「堀田体制」の院政を敷いてきた。
次に住銀・イトマン事件の住銀側の主役でもあった磯田一郎が堀田庄三に次いで十三年半(頭取六年半、会長七年)君臨してきた。
一方、短命内閣は浅井孝二が一期二年、伊部恭之助が二期四年、小松康が任期中に解任されて四年足らずだった。
歴代頭取の中では、堀田、磯田の両名が長期政権を確立し、権力の座について「法皇」とか「ドン」、「天皇」とか呼ばれて君臨してきたことになる。
磯田一郎は堀田庄三によって頭取に抜擢されたが、前出の「住友銀行七人の頭取」を読んでいたら、堀田は「磯田君は、安宅産業や東洋工業(現マツダ)の経営問題が起らなくても頭取になる男だった」と語っている。一方ではこういう磯田の人物評もある。磯田の二代前の頭取だった浅井孝二が次のように語っているのが目についた。興味深いので紹介しておきたい。
「彼はね、タムキですよ。タムキ。タヌキとムジナとキツネがいっしょになっているところがある。やさしいことをいっとるが、腹の中は何を考えているのかわからん。腹が太いですよ。安宅(産業の解体)のとき、『一,〇〇〇億円をドブに捨てた』といったのもそれですよ。顔の表情からハラの中は読めん」と。
また、住友不動産のある元会長は磯田を評して「きれいなヤクザ」といったといわれる。
モンタネツリーのローマの歴史によれば「魚は頭から腐る」といわれる。また、ローマの歴史家タキトウスの言によれば「人間は地位が高くなるほど、足もとが滑りやすくなる」という。更に「権力というものは腐敗の因子を内蔵し、絶対的権力は絶対的に腐敗する」という故事成語もある。
住銀における通算十三年余に及んだ磯田一郎体制、超ワンマン政権の末路は上の成句の通りの結果となり、平成二年十月七日の突然の辞任発表、かつてのたのみとしていた磯田人脈の離反もあって取締役も辞任する破目となり、「磯田イズム」は終焉をとげた。そして本人自身は平成五年十二月三日心不全で蓋棺の身となった。享年八十才だった。
彼の死去を報じた朝日新聞は「型破りのバンカーだった。頭取就任と同時に『逃げない銀行』『積極路線』へ大きく転換させ、金融自由化の流れに乗り、実行力が注目を浴びた。しかし順次強大な権力をふるうようになり、かつ路線の転換が収益至上主義の土壌をつくり、これが銀行家としての評価を失わせたのかも知れない。晩年には『イトマン事件』などの負の遺産を残した。銀行家としては、功罪相半ばする評価だ」と評論した。まさに簡潔にして当を得て妙なる論評だと感心しながら読んだ。元首相故田中角栄についても、磯田一郎とはスタンディングは違うが、死後功罪相半ばするとする評価が多かったのと同様である。
磯田の関連会社を含む一切の人事権を一手に掌握する等の人事政策、超ワンマン体制、「向う傷を恐れるな」の何ものにも優先する利益第一主義の数々については、一般マスコミ、経済マスコミ等が繰返し採りあげてきた。週刊誌、月刊誌はもとより単行本も数多く出版されている。なかには「住友銀行残酷物語」と題したセンセーショナルなものも私の書棚の片すみに残っている。
もの書き素人の私がこれらマクロの住銀物語をここで再度採りあげることは遠慮して、身近かなミクロの問題について紹介し、読者各位に「なるほど住銀の収益第一主義とはこういうことだったのか」とご理解をいただければ幸と思う。
プロローグの頂で少し触れたが、私の旧制専門学校、大学時代の同窓生で、江商→安宅産業→イトマンといずれも一部上場の商社でありながら、合併又は解体によって元の社名が業界及び証券市場等から永遠に抹消されてしまい、なに人も経験したことのない奇異なサラリーマン生活を転戦してきた私の朋友がいる。
彼は住銀の手による安宅産業の生体解剖に伴い、当時輸出繊維部門長だったので、伊藤忠商事の繊維引取りの拒否にあい、イトマンへ部下とともに入社してきた。
イトマンへ入社後しばらくして輸出繊維部門内に新らしく設けられた新規事業開発部門の責任者となり、その後は子会社の伊藤萬石油販売の社長として、第五章(1)で詳述した石油業転事件の逆風をまともにうけ、村八分的業界の雰囲気の中にあって、一人前の企業にまで育てあげた男だった。根からの商才にたけた商社マンだった。
住銀がらみのある事件が彼の身辺に発生した時、彼から直直生々しい話を聞いた。このある事件については彼自身が、雑誌「新潮45」平成四年十二月号に詳しく記述している。また私自身も前出の「月刊Asahi」の私の拙稿で引用した。住銀磯田イズムを端的に象徴していて、読者各位によく理解していただけるものと思うので、ここでこの事件を再録したいと思う。
昭和五十三年に輸出繊維本部内に、業容拡大のため非繊維事業を拡大すべく、新らしく物資部が新設された。先に述べた通り彼が部長に就任した。「紙・パルプ課」「物資開発課」「燃料課」の三課をおき、特に紙・パルプ課では人材手薄のため、すでにパルプ・メーカーへ転職済の元安宅産業のベテラン課長をスカウトした。安宅の紙・パルプの取扱いは商社中一位だった。
ところが入社してわずか二ヵ月後の六月の休日、当日は早朝からドシャ降りの豪雨だった。彼は取引先と一緒にゴルフに行く途中、西名阪道路で大雨のためハイドロプレーン現象をおこし、中央分離帯を突破してきた大型トラックに馬乗りされて、彼の小型車はペシャンコになって即死した。新設の紙・パルプ課のまことに悲そうな門出となった。
これからを期待していた有能な部下の突然の交通事故死という悲運にあい、茫然自失の担当部長は翌月曜日に出社したらすぐ社内各部署へ連絡手配をすませた。自席へ戻りホッとしたが、やはり自然と何ともいえぬ悲しみがこみあげてきた。そこへ秘書課から管理部門担当常務(住銀OB、元本店支配人、故人)からの「チョット役員席へ来てほしい」との連絡が入った。
「きみ、たった今、住銀奈良支店長から電話があって、交通事故で亡くなったうちの課長について、四十才すぎの働きざかりで、生命保険金や補償金が多分一億円以上入る見込やそうな。その金が入金になり次第すぐに住銀奈良支店(故人の自宅は奈良近郊にあった)へとにかく預金するよう、遺族の方へきみが早速責任をもって手配してくれたまえ。ええな。頼んだぞ」
大きな期待をかけていた課長の突然の事故死に気も動転し、涙も乾いていなかった部長は、なんと表現してよいのか、呆れてものが言えなかったようだ。部下の死と引きかえに、預金のノルマを常務から与えられた格好になった。
後日この担当部長と会社の近くの炉端焼きで盃を交しながら、この常務からの血も涙もないような無理難題について話題が移った。担当常務は人間性豊かな温厚な人柄の人だった。しかし、彼が三十余年にわたって育ってきた企業環境、企業理念──すなわち住銀のなにものにも優先する利益至上主義、儲ければいいのだという方針、きびしいノルマを中心とした人事評価、昇進制度等々──が、彼をして非情なセリフを吐かせたのだ。常務の身には、入社以来の住銀イズムが染み着いているのだ。糾弾されるべきは住銀の磯田イズムそのものであり、常務個人ではないとの結論に達した。磯田が標ぼうした利益至上主義については、この事件に象徴され、すべてを物語っているのであって、これ以上の多言は要しないと思う。
なお、私の自宅の机の引出しに、イトマン時代に面談した方の名刺が残してある。全部だと大変な量になるので相当数整理したが、住銀の奈良支店長がこの事件に関して、たしか社長、常務及び人事担当だった私に表敬訪問に来社したようなおぼろげな記憶があった。そこで名刺の束を面倒だが一枚一枚くってみた。ブルー色の名刺(当時住銀はブルーの名刺を使用していた)の中の一枚を見つけ、思わずアッと声をあげた。そこには住友銀行奈良支店長、大上信之と印字してあるではないか。支店長の名刺は普通の白を使用していた。
住銀・イトマン事件の主役であった伊藤寿永光と親交があり、「伊藤番」を担当していた元常務名古屋支店長であり、その後本店営業本部長へ昇進した人物である。今回の事件で見えかくれする住銀側の重要人物であり、法廷の証言台に立って是非証言してほしいと願っている人物でもある。
イトマンの住銀OBの管理部門担当の常務とは、「利益」という至上命題の一つ穴のムジナだったが、運命の悪戯というか、イトマンとは腐れ縁のある人物だった。
彼も住銀と伊藤とのかかわりが問題になると子会社の東京総合信用に転出させられている。
磯田一郎はノンキャリア組のただひたすら収益の倍増、いや三倍増を目指して私生活をも犠牲にして頑張る働き蜂をことのほか寵愛し、いわゆるアメとムチとの人事手法で引き上げていった。異例の昇進を認められた者は恩義を感じ、さらに業績をあげて応えていくという構図だった。
その代表格が副頭取にまで出世コースをのぼりつめていった西貞三郎であり、常務にまで昇進した河村良彦だった。西は住銀へ入行後に大阪の関西大学二部(夜間)を七年もかけて卒業した苦学生であり、仲々の努力家だったという。
一方河村も旧制帝国大学をはじめ一流大学卒のエリートのうごめく中にあって、名古屋市内、東京都内の有力支店長を歴任して業績を大巾に向上させ、イトマン入社直前に常務に昇進したこれまた抜てき組だった。
この二人はノンキャリア組の目標であり、一種のはげみでもあったし、かつせん望の的でもあったという。
この抜てき組は住銀と磯田一郎個人双方のダーティ部分を社内外で分担し、お得意というか、十八番の水面下で水かきで目立たぬように、そして波紋が拡がらないように水をかきまわすこともしばしばあったという。
このことを裏づけるように、河村自身「文芸春秋」の平成三年四月号(三月十日発売)イトマン問題と私の副題で、「なぜ磯田一郎氏を恨むか」という独占手記(以下「文芸春秋手記」と称す)で「磯田さんのいうことはなんでもきいてきました。自分で『磯田一家』の第一か第二の番頭格のつもりでこれまでやってきたのです」と心情を正直に吐露しているほどのいわば親分、子分の間柄だった。
この三人のキズナはアフター・ファイブの私生活にまで延長され、東京六本木の高級クラブ(奥に『西さんの部屋』と称せられる専用室があり、密談や限られたメンバーとの歓談によく利用されていたという情報も事件当時さかんに流れていた)や浅草の料亭などで盃を重ね、時にはあの「星影のワルツ」の歌手千昌夫もグループに加わって、深夜までカラオケなどに興じたこともよくあったという。
歌手千昌夫は芸能マスコミがいみじくも「歌う不動産王」とネーミングしたように、日本国内はもとより香港、オーストラリア等の海外にもビル・ホテル等の不動産を保有するアベ・インターナショナルの代表者でもある。
バブルの崩壊で今や「歌う借金王」に様変りし、負債総額は二千億円に達するといわれ、一日の支払金利は約五千万円近いという。住銀とも取引きがあり、会長磯田とも極めて親しい間柄だったようだ。住銀のドン磯田の交友関係も、右から左(?)までずいぶん多岐多彩にわたっていたものだ。
さて、話がまたまた余談にすぎたが、磯田は周辺をこのような人物、かつての部下らの親衛隊で固め、行内でも磯田派の発言力が順次増大していった。かくして磯田グループに対しては次第に余人が口をさしはさむ余地が縮少されていき、イトマンの経営も磯田腹心の子分の河村がその任に当っていることもあって、漸次聖域化され、極論するならば治外法権的な取扱いがなされるようになっていった。
かくしてイトマンは、世間で住銀の「タン壷」だとか「フロ焚き」とかいわれるようになり、「住銀商事」として別働隊的な機能も住銀からの要請によって果すようになっていった。
このような行内における体制が、のちのち河村暴走経営にメインバンクとしての打つ手がおくれ、また機能の欠落を来たした一因となっていく。そして磯田個人も腐敗し、数々の私的スキャンダルが周辺でキナ臭くささやかれるような、おきまりの結末となっていくのである。
社長を解任された河村自身、自分が育ってきた、そして或る時には自らも信奉していた住銀・磯田イズムについて、週刊誌記者の取材に応えて「今回の事件は住銀の利益追求第一型経営の当然の結末だと思う」と淡々と語っている。(週刊現代「河村良彦イトマン前社長が“反撃”を開始」平成三年四月二十七日号)
次に住銀に関するたいへん興味深いアンケート結果があるので、是非とも紹介しておきたいと思う。
「週刊ダイヤモンド」誌(平成元年六月十日号)の財界トップ六〇〇人のアンケート調査によると、住銀をメインバンクとしたくない財界人は、前年調査時の一五〇人から一八六人と二四%も増加している。平成元年六月といえば、同年末には日経平均株価が三八,九一五円の史上最高値を示した例に見られるように、バブル経済の最盛期であり、住銀自身不動産融資他であくどい商法によって利益をあげていた時代である。住銀・イトマン事件もまだ発生していない時期である。
さらに、同誌はバブル経済が崩壊し、長びく不況下企業トップ五六九人に同様のアンケート調査を実施した。(平成五年四月十日号)その結果は、メインバンクにしたくない銀行として住銀をトップにあげている経営者は一九五名に達した。他行を抜いてだんとつのワースト・ワンに躍進(?)し、実に三人に一人という割合になる。不信票は昨年の調査結果と比較しても、二十七名も増加している。逆に三菱銀行については一二二人がメインバンクにしたいと支持票を投じている。何がそのギャップを生むのであろうか。住銀への企業トップの苦言、直言の主要なものを列挙してみよう。
1. 自己の利益最優先の取引姿勢
2. 不明朗、ダーティー・イメージが強い
3. 自己中心的体質
4. 変り身が速い
5. 日ごろの対応が冷たく、ドライ
6. 逃げ足早し
7. 関西的体質に肌が合わない
8. 取引が強引、えげつない
9. 取引条件が厳しく、いろいろ注文が多すぎる
10. 世間、業界での評判の悪さを伝え聞く
いずれにしてもイトマンを非上場の住金物産へ合併させたことが、住銀の利益第一主義の取引姿勢と相まって、アンケートに応えた企業トップにとってマイナス・イメージの拡大に働いたことは否めない。
住銀の法皇堀田庄三、ドン磯田一郎と二代四十年間に及ぶ利益至上主義は崩壊してしまった。
磯田一郎によって小松解任後に頭取に引きあげられた元頭取巽外夫は、新頭取森川敏雄へのバトンタッチ(平成五年四月二十八日の取締役会で内定、記者発表)を前にして、朝日新聞記者のインタービューに答えて次のように語っている。
「もうけ主義とか、ダーティーな印象を変えたい。収益至上主義と言われないためには、社会に受け入れられる範囲で歯止めをかけることが必要だ。行内でやかましく言っている。高い授業料を払った。もうけ主義には戻らない」と。
(朝日新聞「ダーティーな印象を変えたい」平成五年四月二十四日)
(2)主力銀行としての機能の欠落
いま私の手許に平成六年二月五日付の朝日新聞朝刊がある。私は朝刊の見出しを見ながら朝食をとる行儀の悪いくせがあるのだが、第一面から順次頁をめくっていくと、十四頁〜十五頁の二面ぶち抜きで全面広告がでていたので、思わず頁をくる手をとめた。
「私たちは『ボディ性能』のマツダです」
との販売全車種の写真をのせた広告だった。一頁大の広告は過去よく見かけるが、二面ぶち抜きというのは、不況下広告掲載量が大きく減っている昨今、全く見かけなくなった。
マツダ株式会社(広島)が、二月五日、六日の両日「春の商談会」を開くという巻き返しの大キャンペーン広告だった。
いま自動車業界にはバブル崩壊の「不況風」が吹きまくっているが、マツダも高級車の売り出し、販売店の増強等の積極拡大路線が裏目に出てその例外ではなくなっていた。
平成六年三月期決算は、売上高が前年比一九.三%減、売上げ台数は二〇%減と業界大手五社の中で落ち込みが突出、経常赤字が四四一億円に達し、上場以来初の無配に転落するという最悪の業績下にある。
このマツダの主力銀行は読者各位もご承知の通り、以前から住銀である。かつて第一次石油危機に直面して業績不振に陥入った時、住銀からの人材派遣、資金援助によって立ち直った経過がある。しかし祖父、父の後を継いで社長だったオーナーの松田耕平は経営責任をとり、放逐され昭和五十五年には取締役に退いて、広島東洋カープの運営に当っている。
現社長も住銀OB(元神戸支店長(兵庫県))で昭和五十八年専務としてマツダ入り、平成三年十二月に社長に就任している。
平成四年十月二十七日付の日経産業新聞はその第一面で、「マツダ苦悩の決断、北米の高級車販売網中止」と担当記者の署名入りで報じた。その要旨は「北米における高級車販売網(アマティ)の整備、拡張計画の続行を主張するマツダ生え抜き派と、リスクが大きすぎると計画の修正を迫る住銀との間でせめぎ合いが続いていた。住銀は終始「冷徹」そのものだった。社長はまず社内で議論をつくすことが先決だ。銀行の意見はきくが、重要なことはすべてマツダが独自に決定すると銀行とは一線を画す姿勢を明確にし、一切銀行色を表面に出さないでいた。しかしマツダ首脳陣も軌道修正止むなしとの判断を固めたようだ」というものだった。
住銀頭取巽にとって(一)に年々販売シェアーが低下し、その業績低迷に呻吟していたアサヒビールは新製品「スーパー・ドライ」が起死回生薬となり見事再生を果たしたし、(二)に大きなお荷物となりその処分に苦悩していたダーティー・イメージのイトマンも合併の強行で一応のケリが付いたのだが、その(三)としてマツダが気がかりな企業となっていた。だから頭取自身も自ら当事者感覚でマツダに接していたようだ。マツダの急激な業績悪化というきびしい現実を前にして、住銀の例の冷徹な対応が前面にでてきて、今回の中止勧告となったのであろう。
同年十二月にはマツダの象徴的存在だった会長山本健一が勇退し、かつ国内販売不振でその責任をとり他の経営陣も刷新され、住銀の指導力の強化がはかられることとなった。
さらに、平成五年十二月には米フォード・モーターと、「新らしい戦略的協力関係を構築し、提携を強化する」と発表した。
住銀サイドは、国内販売の不振、円高傾向、対米摩擦等から輸出は低迷し、収益の拡大も極めて望み薄と判断して、平成四年に入ってから秘かに具体策を検討して、マツダの経営安定のために根まわしを行ってきた。この結果、平成六年二月には、副社長としてフォード・ベネズエラの社長を迎えるほか、専務二名を受け入れることを発表した。この結果マツダのフォード側の役員は計七名となった。
このように対マツダ対策の底流には、住銀らしい冷徹なきびしい資本の論理があったにしても、長期的観点に立って主力銀行としての機能を充分に発揮し、熱心な責任ある経営指導を実施してきた。
私が仮にマツダの幹部だとしたら「内政干渉」だと生理的に拒否反応を示すのではないかと思われるほどのきわどい指導、アドバイスの場面もあったのではないかと思われるほどだった。
また一方、同じく住銀がメインのゼネコン大手熊谷組は、総事業費七千億円に上る海外開発事業の大巾赤字、国内における受注の大巾減、未収工事代金の増加等の「三重苦」にあえいでいた。住銀は平成五年三月専務を先方の副社長として送り込む人事を発表、同時に日本長期信用銀行からも海外事業担当役員を迎え入れることとした。両銀行の支援、主導のもと、海外事業の縮少、整理、人員削減を含めたリストラが着々と進行中である。熊谷組が副社長を金融機関から迎え入れるのは、はじめてのことだという。住銀は間髪を入れず、タイミングよく、リストラへ向けての積極策を打ったのである。
本項で本論とはおよそ関係のないマツダや熊谷組の住銀の手による再建のことに何故ふれたのかと言えば、この二社に比し、イトマンについては住銀の主力銀行としての機能が全く欠落していたことを指摘し、読者各位に訴えたいがためである。以下本旨にもどり、時系列的に住銀のイトマンの緊急事態に対する対応について解説してみたいと思う。
- 平成二年三月十六日
住銀の大物顧問弁護士が頭取巽を訪問し、イトマンへ理事として入社した伊藤寿永光(第九章において詳しく述べる)なる人物及びイトマンへ与える悪影響と、その危険性について警告。
- 同月十九日
頭取巽は会長磯田と伊藤寿永光の人物、素性をめぐって協議、両者共通の危機感をもつ。
- 同月二十日
日経新聞記者イトマンの過大不動産投融資について、住銀会長私邸での夜討ち取材。
磯田、巽、西(副頭取)が今日かかり切りで三者会談を開催。磯田が巽にとにかくイトマンの実態を調べるよう指示し、自分もバックアップすることを確約したことが判明。磯田は「河村が伊藤寿永光を本部長に据えたこと」に非常に立腹していた由。(筆者注・河村は伊藤寿永光を同年二月一日付で理事待遇で入社させ、新設の不動産開発関連事業部の本部長に登用している)
- 同月二十二日(三月二十一日は春分の日で休日)
住銀本店で巽・河村会談開催。巽は不動産投融資の早急な削減、伊藤寿永光の即時退社を要求。河村は頭から拒否し突っぱねる。
- 同月二十九日
日経新聞記者住銀会長に対する三回目の夜討ち取材。「巽君がおとなしくなってしまい、皆がびびっている。度胸のあるのは西君ぐらいだ。本店営業部で少しずつ調べている。四月末ぐらいかかる。伊藤寿永光には一,〇〇〇億円ぐらいやれば縁が切れるだろう」と恐ろしいことを話したという。日経記者はこの言葉が頭にこびりついて離れず、バブル経済破裂の象徴的な事件になるだろうと確信したようだ。(筆者注・住銀の頭取ともあろう大物が河村会談後なぜびびったのか、また、会長磯田の「伊藤寿永光に一,〇〇〇億円ぐらいやれば……」云々の奇異な発言の真意は奈辺にあったのか、今もって不詳である。今回の住銀・イトマン事件のナゾがここらに秘められているのかも知れない)
- 同月三十日
住銀はイトマンに対し、銀座の土地(伊藤寿永光関連)を担保に三〇〇億円を融資。以降の融資は停止す。
- 同年四月二日
磯田、河村会談開催。河村は会長に勇退、西(副頭取)が社長に就任の磯田人事案を提示。河村は猛烈に反発、拒否す。
- 同月二十四日
磯田は伊藤寿永光の素性を承知の上で彼と初会談。於ホテル日航大阪の一室。(筆者注・この二者会談の紹介者、立会人及び会談の目的、その内容等は全く不明。私にとっての事件のナゾの最大のものと言ってよい)
- 同年五月二十二日
日経記者住銀会長邸で四回目の夜討ち取材。磯田曰く「徹底的に調べさせる。安宅産業のようなことはないだろう。伊藤寿永光君は二年で辞めさせる。とにかく調べるまで待て」と。(筆者注・頭取巽は三月二十二日に伊藤の即時退社を要求。磯田はその丁度二ヵ月後に「二年で辞めさせる」と大きくトーン・ダウンしている。約一ヵ月前の伊藤寿永光との極秘会談内容が影響しているのであろうか)
- 同月二十四日
日経新聞が朝刊第一面にスクープ記事を掲載。
「イトマン、土地・債務圧縮急ぐ。住銀、融資規制受け協力」、当日はイトマンの平成二年三月期決算の記者発表の日であった。河村はこの日経記事に猛反発、反論文書まで配布。
日経記者この日五回目の磯田邸の夜討ち取材。磯田は日経記事への河村の対応は悪いとし、「この反論文書はなんだ」と怒鳴りつけ、ご機嫌極めて斜め。
- 同月下旬の某日
磯田、河村会談。伊藤は二年間使い、平成三年三月まで河村に経営を任せる。両者合意し住銀の他のトップも了承したという情報あり。
- 同年六月初旬
大蔵相銀行局、住銀の事情聴取を始める。住銀側にイトマンへの対処方針の決定先送りの空気強くなる。(筆者注・磯田は三月下旬からイトマンの「住銀独自調査」を断言していたが、住銀首脳の発言はなぜか「六月から……」と後退していった)
- 同年七月〜日銀考査局が動き出す。
- 同年八月三十一日
住銀のイトマン調査チームが当初二週間の予定で本格的内部調査を開始。
イトマン問題が住銀首脳間で本格的に採りあげられてから、なんと五ヵ月ぶりに住銀の重い腰がやっとあがった。
- 同年九月十四日
巽・河村会談、再度河村の退任を求める。河村は前回同様これを拒否す。
- 同月二十五日
大蔵省の住銀検査開始。この検査は過去の調査では例を見ないなんと四ヵ月の長期にわたった。
- 同年十月七日
住銀会長磯田一郎、日曜日の朝突然の辞任発表。
- 同年十一月八日
イトマン常務伊藤寿永光、河村により解任さる。
- 同月二十日
住銀常務十河安義ら五名のチームをイトマンへ派遣。本格的調査と投融資の圧縮策の検討等に乗り出す。実に問題が惹起してから八ヵ月ぶりという主力銀行としては異例の対処だった。この八ヵ月に及ぶ空白期間中に、イトマンの経営が整斉と運営されていたのであれば特に問題はないが、実態はさにあらず、巨額の資金が伊藤寿永光プロジェクトや絵画取引に流出していき、世間や業界のひんしゅくを買った新規事業計画推進の発表も大々的に行われた。
その主要なものを参考までに列挙すれば次の通りである。
- 瑞浪ウイングゴルフクラブへの融資二三四億円(四月)
- さつま観光への融資二〇〇億円(四月)
- 日本レース(株)(一部上場)の株式二五〇万株(発行済株式の一二.五%)をイトマングループで取得。
イトマンから社長派遣の予定。必要資金三十五億円(五月)
- 広島市庄原市(自民党代議士亀井静香の選挙区)でのリゾート開発計画を大々的に発表。開発資金約六〇〇億円の大型プロジェクト(五月)
- コスモワールド(代表者熊取谷稔)の四ゴルフ場の会員権の独占販売権を取得。取得代金は九五〇億円の巨額に達す(六月)
- 米国カリフォルニアとハワイでの大規模住宅開発計画を発表。投融資額八九二億の大プロジェクト、伊藤寿永光の義兄スイニーが関与(七月)(筆者注・このスイニーは六月になぜかイトマンの取締役に選任されている)
- 専用ジェット機を発注。購入代金四十四億円。平成三年六月の引取り契約(七月)
- コスモワールドのオリックスから借入三六〇億円を債務保証。これでコスモワールドに対する信用供与は計一、二一〇億という巨額に達す(八月)
- 許永中関連の絵画二一一点、計五五七億円を購入(一月〜八月)
- 絵画取引の別会社「エム・アイ・ギャラリー」ら三社を新規設立(六月〜八月)
- 東京・ピサ(住銀会長磯田一郎長女園子が勤務)から、ロート・レックコレクション他の絵画計一二三億円を購入(平成元年十一月〜平成二年九月の十ヵ月間)
- 社長河村、米国西海岸のペブルビーチゴルフ場他を視察(九月下旬の一週間)
- 東京・アルカディアコーポレーション(代表者小早川茂こと崔茂珍)に対し箱根霊園開発資金十億円を融資(十月)
- 広島庄原市のリゾート開発は予定通り実施の旨強気の説明会を再度現地で開催(十月二十二日)
- 河村は臨時ボーナス一ヵ月分を社員に対し支給。経常利益一〇〇億円台に乗り業績好調が理由(十月二十四日)
主力銀行たる住銀の適時、適切な対処が欠落し、いわば主力銀行不在の間に、以上列挙したような巨額の資金が無暴とも言える流出をした結果、イトマングループ主要三社の借入金の推移は次の通り膨張していった。(イトマン本体、イトマンファイナンス、伊藤萬不動産販売の主要三社分)
平成二年一月 八,四〇〇億円
同 二月 九,六〇〇億円(伊藤寿永光入社)
同 四月 一〇,〇〇〇億円
同 八月 一一,二三三億円
約2,800億円増加
(金利負担月額約五十億円に達した)
売上高が一兆四千億円となり、前社長水島広雄の拡大路線により、在任期間(三十二年間)中に三店だった店鋪数を四十店にまで増加させ、日本最大の百貨店グループに急成長したそごうも、その経営路線がウラ目に出て業績不振に陥っている。そのグループ全体はなんと一兆二千億円を超える借入金を抱えている。また一方巨大スーパー「ダイエー」の借入金総額は膨張に膨張を重ね続け一兆四千億円に達しているという。
百貨店・スーパー業界の雄、この二社の借入金とイトマングループ三社の借入金約一兆一千億円を比較すれば、イトマンの企業規模、業態から考えればいかに異常なものであるかは判然としてくるであろう。
さて、ここでマツダに話を戻しイトマンの経営陣の構成について調査、分析してみたいと思う。
私はマツダの社長は住銀OBなので、少くとも十名程度の同行OBが役員として送りこまれ、その名簿に名を連ねているものとばかり勝手に思い込んでいた。
同社の平成四年三月期の有価証券報告書を閲覧して、取締役四十三名のうち、同OBは社長、副社長、常務、平取締役のわずか四名に過ぎず、約一割程度だったことが判明した。他に住友信託銀行の出身者が一名いる。
一方、イトマン役員は平成二年度で総数四十二名、うち住銀OBは十五名の多きに達し、その構成比は1/3を越え三六%にものぼっている。よってイトマンは同行の本店支配人、調査役、検査役等の定年前(後)の管理職の格好の第二の職場になっていた。役員以外にも理事待遇の部長クラスも相当数送り込まれていた。
しかし、残念ながら彼らは河村の暴走・乱脈経営について早い時期に本店のしかるべき幹部にその具体的内容について報告、あるいは意見具申等をして、ブレーキをかける、阻止するような具体的な手立てを講じることもなく、只々傍観者的立場に立ち、かつ河村司令官が高らかに吹き鳴らす勇ましい進軍ラッパに、軍靴の靴音も高く歩調を合わせ、無暴な攻撃を繰返し、最終的には玉砕してしまった。主力銀行として送り込まれた自分達の機能というか位置づけをどのように認識し、行動していたのであろうか。まことに無責任極まる情けない十五名にも及ぶ大集団だった。先にイトマンは住銀OBの第二の格好の職場だったと述べたが、敢て表現を変えれば「姥捨山」だったと言えると思う。
マツダの住銀OBの社長は、イトマンの河村とは違って、うまくバランス感覚をとり、社内のプロパー幹部、社員からの信頼、人望も高い人物だったようだ。それにしても、イトマンサイドにはマツダ住銀OBの約四倍にも達する役員が、雁首をそろえておりながら、イトマン抹殺という現実を迎えたということは、極めて遺憾と言わざるをえないし、住銀首脳陣の経営責任は極めて重大である。
次に指摘しておきたいのは、住銀サイドのイトマンの経営実態の調査が五ヵ月間も放置され、副社長クラスの派遣まで八ヵ月も要したということ。一イトマンOBの立場からは住銀の内部事情の詳細は知る由もないが、イトマンの経営なるものが、前述の通り会長磯田の手によって、いわば聖域化され、他の人により介入、手をつける余地のなかったこと。派閥抗争、権力闘争のまさに飛ばっちりをうけたことである。
巽頭取は平成三年八月三十日、衆議院証券金融問題特別委員会に参考人として招致をうけ、与野党委員の質問に答えた。当日、日本興業銀行、富士銀行の各頭取も招致されたが、巽頭取は午前中の一番バッターだった。
巽頭取はある委員の質問に答えて「イトマンへの対応は各種の情報の撹乱もあって遅れた」と弁明したが、(筆記注・情報の撹乱とはどういうことなのか、いまひとつはっきりしないのだが……)いずれにしても重ねて強調するが、主力銀行としての責任は極めて重大である。
もちろんイトマン自社内にチェック能力、自浄機能が無ければならず、一方的に主力銀行頼みをするわけではないが、主力銀行としての適切な諸対策がもっと早い時期にタイムリーに打たれておれば、住銀・イトマン両社が被った損害をはるかに少く、かつイトマンの抹殺もあるいはなかったのではないかと悔まれてならない。
まさに主力銀行としての機能の完全な欠落だった。
「私は昭和二十八・二十九年のデフレのころから日本のメインバンクがいかに企業を手ごめにしてきたか、随分見てきたが、いまだかつてメインバンクが企業を革新するような役割を果したケースを知らない。日本のメインバンクは企業を解体するだけで、何ものも作り出していない」
(龍谷大学経済学部教授(当時)奥村宏「週刊東洋経済」平成四年十月十日号)
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