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第八章 マネー・ゲーム
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(1)膨らんだバブル経済
お役所というところは、政策に誤りがあったとしてもそれを正直に認めずにうやむやに済まそうとするところである。
ところが経済企画庁が平成五年七月に発表した平成五年度経済白書(経済企画庁が毎年発表する一年間の経済報告)によれば、「政策のミスがバブルを招いた」ということをはっきり認めた。民間エコーミストからはバブル経済の反省不十分、かつ今後の具体的な政策提言に欠け迫力不足との厳しい指摘もあるが、まずまずの評判であった。
ちなみにここ数年の経済白書は多くの過ちを犯していた。例えば株価の暴落、地価の下落がみられ、バブルが崩壊し始めていたのに、「このところのマクロ経済は健全であると評価してよいであろう」(平成二年度)と他人事のような報告を行い、また景気動向指数が後退を示しているのに「まだ景気後退局面に入ったとはいえない」(平成三年度)
平成四年度の白書は事実上の景気後退を「長期にわたり高い成長が続いた後のストック調整過程」という極めて曖昧な表現をしている。
これら白書に比べれば、平成五年度の白書は日本経済に対するこれまでの過度に楽観的な見方が軌道修正され、より具体性に富んだ分析になっており、バブルの発生、崩壊の問題に踏み込んだ形で分析している。
「バブルの教訓の最大のものは政策運営がバブル発生のひとつの素地となったということである。昭和六十年の円高誘導の「プラザ合意」(筆者注・ニューヨーク・プラザホテルで開催された先進五ヵ国蔵相と中央銀行総裁会議)以後、日本は内需主導型経済に転換し、財政刺激策と公定歩合引き下げは景気拡大と対外黒字の縮少をもたらしたが、バブル発生にもつながってしまった」と述べ、これからはバブルの未然防止に大きな注意を払うことが大切だと結んでいる。
経済企画庁が政策ミスを認めたといっても、経企庁は財政金融政策の立案、施行の当事者ではない。バブル発生の責任者は大蔵省であり、日本銀行であるはずである。
昭和六十年九月のプラザ合意にもとづき円高が始まり、翌六十一年十月には住銀が平和相互銀行を吸収合併した。低金利を反映して証券市場は活況を呈し、NTT株の申込みは一千万件を越えるような状況だった。また信託銀行の特金、ファントラは急成長を示した。
昭和六十二年二月日銀は、公定歩合を二.五%に引き下げ、超低金利時代がスタートした。四月には二月に上場したNTT株がなんと三一八万円の最高値を記録するという過熱ぶりだった。一方日米経済摩擦はますます深刻化していった。
翌六十三年には低金利・円高・原油安のトリプル・メリットにより証券市場は空前の活況を呈し、十二月には日経平均株価は三万円の大台に乗った。また地価は暴騰を重ね、極端な表現をすれば、朝と夕方とで相場が上昇していたという異常な状態となった。百貨店、専門店における絵画、装飾品等の高額、高級商品の売上が急増していった。
平成元年には長期の好況は、昭和二十九年からの神武景気(約二年半持続)、同三十三年からの岩戸景気(約三年半持続)を上回ることとなり、年末には日経平均株価は三八,九一五円の史上最高値を更新した。
日本経済全体を金もうけ第一主義がおおい、ある種の狂気じみた拝金主義が列島全体に横溢していった。また、銀行、証券業界におけるモラールも低下し数々のスキャンダル事件が発生した。かくしてサラリーマンの持家願望は夢のまた夢と化し、資産インフレは土地や株、高額絵画等をもっているだけで、評価益が得られる不労所得増大に結びついていった。かくして額に汗して働く庶民の労働意欲は極度に低下し、国民の間の資産格差が拡大していった。
このバブル経済を先頭に立って煽った経済評論家がいた。テレビ、雑誌の評論や講演会等で知名度の高い国際経済評論家と称せられるHは「財テクをしない経営者は化石人間のようなものだ」と堂々と宣言した。
平成五年七月の衆議院の総選挙で東京から日本新党の新人議員としてお茶の間の知名度で当選し、経済評論家から華麗なる転身をはかったKも全く同様である。
いずれも頭も丸めずに依然として評論活動や政治活動を続けており、全くもって無責任極まる話である。
Hの著作「繁栄か衰退か」は平成六年八月にはベスト・セラーに顔を出している。
無責任極まる大ものが他にいる。それは大蔵省であり日銀である。経済白書を作成した経企庁は財政・金融政策の当事者ではなく、前述した通り大蔵省や日本銀行にこそバブル発生の経済政策全般の失敗の責任があるはずである。今回のバブルに限らず過去に責任をとって辞めた大蔵大臣や日銀総裁がいないのは、どうしても納得できない。
ちなみに、参考までに歴代大蔵大臣をあげると次のとおりである。
竹下 登(昭和五十七年十一月〜六十一年七月)
宮沢 喜一(昭和六十一年七月〜六十三年十二月)
村山 達雄(昭和六十三年十二月〜平成元年八月)
橋本龍太郎(平成元年八月〜平成三年十一月)
また当時「民活」(民間活力の導入)を唱え一連の政策をとり入れ地価の暴騰を煽った最高責任者の元首相中曽根康弘は、海部、宮沢両内閣にわたる公約であった「政治改革法案」の成立を陰で阻止する等未だに政界の長老として、隠然たる影響力をもっている。
また、竹下登、宮沢喜一は大蔵大臣時代の失政や、リクルート疑惑等はすっかり棚に上げてしまい、後に内閣総理大臣に選ばれるような政界の無責任体制が生きている。バブル経済をもたらした政策上の責任問題などについての彼らの公式発言はいまだかつて聞いたことがない。
ただし、宮沢喜一元首相は平成五年八月五日の不信任案成立による内閣総辞職を前にし、内閣記者会に対し「一片の氷心玉壷にあり」ということだと自らの心境を漢詩の一節に託し宮沢らしい表現で語っている。玉のつぼに入れた氷のように澄み切った心境だということのようだが、同時に「バブルを当初は見抜けなかった」と悔しさをにじませたという。保守本流を永年にわたって歩き、経済政策通を自負する彼にしては、バブルを見抜けなかったこともさることながら、バブル経済崩壊後の不況に対する景気浮揚策も後手後手にまわったことも考えると、責任極まる反省なきコメントといわざるをえない。
日本銀行の総裁三重野康は平成六年二月、東京都内における講演で「バブル経済の過熱した経済状況に金融政策がもっと早くブレーキをかけたら(好不況の)振幅を小さくできた。大きな反省材料だ」とバブル問題についてはっきり日銀の責任を公式に認めた。過去の例からいえば異例ともいえる公式発言だった。しかし彼は平成六年十二月末までの任期いっぱい総裁の座をおりなかった。
一方、民間の私企業へ視点を移してみよう。バブル経済崩壊後、歴代政府の不況対策が後手後手にまわり、ジワジワ押し寄せる円高傾向、個人消費の低迷等の諸要因もあって、平成五年一年間の百貨店の売上高は東京地区(十四社二十七ヵ店)前年比九.六%減、大阪地区(十一社二十九ヵ店)同八.二%減という二年連続しての減収を来した。スーパー業界の売上高(一四〇社八,一七九ヵ店)も前年比二.四%減と統計をとって以来初めての前年比減を示している。
また平成五年度の粗鋼生産量は二年にわたり連続して一億トンを割るという不振ぶりである。
さらに、都市銀行、長期信用銀行、信託銀行の二十一行の平成六年三月末の不良債権(六ヵ月以上の利払い延滞と経営破たん先債権)残高は公表ベースで一四兆一千億円という巨額に達した。経常利益は前年比四一%減という大巾減益、不良債権の償却額は最高の三兆六千億円にのぼっている。北海道の都銀は異例と言える一円減配にふみ切り、頭取は経営責任をとって辞任した。
長びく経済不況の影響をもろに受け、上場企業で株主への配当をゼロにするところが増え、日経新聞の集計によると、平成六年三月期は五社に一社が無配となっている。二度にわたる石油危機不況や円高不況の時を上まわり、この十九年での最高水準に達する企業の業績不振ぶりである。
この三月期決算で無配転落必至となったある大手高炉メーカーの副社長は、経済記者からその経営責任を問われこう答えた。
「(業績は)すべての産業が軒並みに悪いのだから、責任をとるなら総理大臣だ!」
いささかあきれるような無責任な経営感覚だとは思うが、一面では賛同し共鳴する部分もなきにしもあらずだと思う。
なぜならば、民間企業では業績悪化、無配転落、減配等、また経済犯罪、不詳事については当該企業の首脳、幹部の辞任他なにがしかのきびしい内部処分を実施するなどケジメをつけ、責任体制、反省の姿勢を明確に示した。ノンバンクにおける巨額の不良債権の発生が次から次へと明白になり表面化してきたが、当該ノンバンクはもとより、親会社のメーカー、商社、金融機関等の担当幹部も責任をとってきた。
一方的に「政治が悪い」というようなことを無責任にいうつもりはなく、私企業内に自浄、チェック機能が働かなければならず、身から出たサビという面なきにしもあらずだが、しかし経営責任は明確にしているはずである。これに比し政界と官界における無責任さ、厚顔無恥ぶりに厳しい指摘、糾弾をしておきたいと思う。「経済は一流、政治は三〜四流」といわれる一面をあらわしているのかも知れない。
今回の住銀・イトマン事件の背景、底流には、あっという間にふくらんだバブル、超金融緩和の金融政策があった。バブルの象徴とも言える事件であり、イトマン社長河村良彦は極端であったが、日本経済全体が泡の浮利を追い、利益主義にかぶれていたのだ。このヒズミの噴出がこの事件のマクロ的に見た源流だったといえるのである。
私は大阪地裁での公判では住銀・イトマン事件の主役たち個人の刑事犯罪だけが問われるのではなく、あのバブルの時代そのものも裁かれなければならないと思っている。
「小売屋は投機をやってはいけないよ。だいたい株なんていうのは、上がれば必らず下がることになるんですから。投機をやると毎日小売りでコツコツ売るのがバカバカしくなっていやになるんです」
これは関東系のある百貨店の社長のバブル経済に躍った経営者に対する警告の言である。
(2)無暴なエクィティ・ファイナンスと河村の野心
イトマンの資本金は昭和三十九年に倍額増資を実施して二十四億円となり、以後この過少資本金時代が十七年間の長きにわたり続いていたが、河村政権になって初めての公募増資が同五十六年行われ資本金は九月に二十七億五千万円になり、同年十月には一割の無償増資を実施し、資本金は三十億二千五百万円となった。
「エクィティファイナンス(新株発行を伴う資金調達)は毎年できるだけ大きいのを実施せよ」そして「株価はできるだけ早い時期に一,〇〇〇円にもっていけ」(同五十八年ころ)との社長河村の強い指示にもとづき、同五十七年以後、見方によれば無暴とも言えるエクィティファイナンスが副社長の許で相次いで実行された。
社長河村が取締役会で解任された平成三年三月期末には、資本金はなんと五三四億円強に大きく膨張していた。河村が前任社長から経営を引継いだ時の資本金(二十四億円)の、二十二倍強に増加したことになる。その間十六年、単純平均すると年間約三十二億円の資本金増という驚異的な数字が算出されるような状況だった。再び繰返すが同五十六年までの資本金はわずか二十四億円だった。
同六十二年ころ河村から「自己資本は一,〇〇〇億円を目指せ」(ちなみに同年九月期末の自己資本は四〇〇億円強だった)「株価は二,〇〇〇円を目標としてワークせよ」との大号令が担当副社長ら幹部にかかった。
しかし、同六十年五月の五,〇〇〇万スイス・フランの普通社債については、住銀が五一%を保有するゴルタルド銀行を主幹事にしたため、「三局合意」(大蔵省の銀行、証券、国際金融の三局が、日本企業発行の外債の引き受け主幹事は、証券会社の現地法人に限るとの行政指導を取り決めた。昭和五十年からはじまった)破りでイトマンの幹事会社の野村證券が猛反発、丁度石油業転事件のトラブルが発生したりして、やりにくくなり、同六十年二月の米貨建新株引受権付社債一億ドルの実施まで約一年半は、河村からは是非断行せよとの指示をうけていたが、どうしても実施できなかったという経緯があった。
さらに、河村からは狭義の自己資本+転換社債+ワラント債+普通社債の合計額で五,〇〇〇億円にまでもっていくスケジュールについて指示があった。その時アサヒビールは同六十三年〜平成元年にかけ二,〇〇〇億円程度のエクィティファイナンスを実行し、設備投資や広告宣伝費にまわしているとの付言もあった。
アサヒビールの社長樋口広太郎(当時)は住銀OBであるが、住友不動産の安藤太郎、住銀の副頭取西貞三郎及びイトマンの河村の四名が住銀会長磯田一郎を支える四天王といわれていたと、法廷で検事の誘導質問に答えて、イトマン元副社長の証言があった。
イトマンの不動産事業に対する過大投融資等がマスコミ及び関係業界で問題になってきたので、平成二年に実行した第三回米貨建新株引受権付社債二億米ドルについては、(主幹事野村証券)不動産過大投融資、信用不安、株価の低迷等が原因となって、発行条件がきびしくなり、住銀の保証(東京・吉祥寺のビル、株式を担保に差入れ)が必要となり、金利も五.一二%という高水準で決定せざるをえない状況に追い込まれてきた。
転換社債の発行、公募増資、新株引受権付社債(ワラント債)及び株式の転換価格の決定等はすべて社長河村の指示によって実施された。担当副社長の一存で決定したものは全くなかった。しかも他の首脳陣は全く関知していなかった。
エクィティファイナンスの経過は巻末別表(5)の通りである。また資本金の決算期毎の推移を別表(2)にまとめたもので、参考にしていただきたい。
いずれにしても超スピードの相次ぐエクィティファイナンスだったので、転換社債の株式への転換が思うように進捗せず、イトマンの自社株売買のために設立されたダミー会社の東海振興信用で引き受けるケースが多くなった。しかし、この受皿会社が東京証券取引所の注目するところとなり、この情報は担当副社長から社長河村の方へ報告されたが、他のもう一社のダミー会社の内外商事を利用するよう指示がでたこともあった。
この相次ぐエクィティファイナンスの第一の目的は低金利、低調達コストの資金を確保し、新規事業や不動産関連融資他の拡大をはかり、不動産事業の開発利益や貸金の利鞘を稼ぐことにあった。
と同時に、河村は早くから住銀離れを意図して各種の手をうってきた。例えば昭和五十五年ころだったと思うが、その以前から河村自らも自社株集めをし、はめ込んだ河村の知人のイトマンとは全く取引のない企業から三〇〇万株の放出があったが(この代表者は相当額の売却益を手にしたと思われる)、河村の指示により住銀以外の取引銀行筋及び取引先を中心にはめ込み、残余は止むをえずダミー会社の東海信用振興で引きうけたという経過もあった。
ちなみに主力銀行住銀のイトマン株の保有数の推移は、次のようになっていて、第三者が見れば奇異に思うはずである。
昭和五十年九月末 三,〇五七千株
平成元年三月末 四,〇四一千株
なぜならばこの間十四年が経過しているが、この間の株数の増加は無償増資によるものだけであって、イトマンサイドからは時価による有償の保有は一切要請していない。平成二年三月になってようやく住銀の保有株は二〇〇万株増加し、六,〇四一千株となった。これは他の取引銀行が住銀の新規取得が全くないという保有状況をにらんで、新規保有要請を拒否するという動きが各行に顕著になってきたからであった。この動きを打開するために、副社長から報告をうけた河村は止むを得ずということで住銀に対し不本意ながら二〇〇万株の保有を依頼したという複雑な経緯があった。
河村はある時、財務・経理担当の副社長をつかまえてしみじみこう語ったことがある。
「発行済株式数は多ければ多いほど良い。総株数二億株ともなれば、会社を乗っとろうとする者もでてこないだろう。住銀と伊藤家(創業者一族)の保有株数のシェアーも漸次低下してくるので、いろいろ言われることもないだろう」
エクィティファイナンスの第二のねらいは、主力銀行の住銀離れ、伊藤家一族離れにあった。そして自分がイトマンの実質オーナーに就きたいという野心にあったと言えよう。この野心については次に生々しい実話をもとに詳しく述べ、明白にしたいと思う。
その前にこれをつけ加えておきたい。
昭和六十三年ごろ、河村が住銀とライバル関係にある某都銀の支店長に、「主力銀行の変更を検討したいと考えている」と不用意に洩らしたことがある。河村は或いは意識してサウンドするつもりだったのかも知れないが、この都銀は警戒感をもち融資の以降の増額には応じなかったという一幕もあった。
さて、河村は創業者伊藤家の直系である第四代社長、元会長だった伊藤寛に対し個人保有のイトマン株の譲渡を申入れた。
その前に、河村はイトマンの取引銀行であり、同行の取引先会の会長もしていたイトマンビル西向い側にある地銀から自宅(兵庫県西宮市((夙川))敷地五五七m2)を担保に入れ、株式購入用の資金五億円を同六十三年十一月に一年の短期借入れを行っている。
「伊藤会長。このイトマンに骨を埋める気慨で、終生業容の発展、拡大のために懸命の経営努力をいたしたいと存じます。会長、私には充分自信があります。どうぞご安心いただきたいと思います。ついては会長ご夫妻がお持ちのイトマン株をこの際是非お譲りいただきたいのですが……」
伊藤元会長は河村が社長に就任して以来、住銀の当時の堀田会長が推薦した通り、彼を全面的に信頼し、経営全般についてはすべて一任し、一切口出しせず、平成二年五月の今際の際まで人のよさも手伝って河村良彦を信じ切っていた。そして自らは繊維業界、関西財界他のリーダーとして、対外活動に専念していたのだが、河村の口先きだけと思われた情熱、説得にほだされ、夫妻名義の株を夫々十万株、計二十万株を譲渡した。河村が購入資金を借入れした銀行に新設された伊藤夫妻口座に約二億円が振込まれた。(譲渡価格は@一,〇〇〇円強だった由)
さらに、河村は二十万株だけの譲り受けだけでは満足せず、副社長(人事・総務担当)を使者に立て、もう五十万株の譲渡を……との河村の意向を伊藤元会長サイドへ伝えたが、伊藤家の執事(イトマンOB)からの助言もあって、二十万株以上の追加の譲渡については伊藤会長サイドは断った。
河村は止むをえず、なんとか個人の筆頭株主になりたい一念から、ダミーの内外商事保有のイトマン株二十八万五千株を買い取った。そこで計四十八万五千株を新規に保有したことになり、以前からの持株と合せ六十万株という個人としての大株主となり、オーナーの伊藤寛の八十九万株に肉薄してきた。借入れの五億円はこの株の買取り資金としてほとんど費消された。
借入金は平成元年十一月に返済期限が到来したが、株を手放す意向は全くなく、そのまま継続された。金利は当初約五%だったので、金利だけでも年間二,五〇〇万円(月額約二〇〇万円)の巨額に達する額だった。現在でもこの借入金は未返済だという情報が多い。当然自宅の担保設定は抹消されていないはずである。ちなみに河村の年収については、大阪地検の冒陳は「河村が解任当時までイトマン社長として同社から得ていた報酬額は、年間二,〇〇〇万円だった」と押収書類にもとづいて指摘している。
この程度の年収のサラリーマン社長が、巨額の借入金及び金利の返済計画をどのようにたてていたのかは詳かでないナゾである。
この河村の自社株取得の底流には、オーナーの伊藤寛夫妻から市場へ全く流通していない「伊藤寛殿」「伊藤静子(夫人)殿」と明記してある原株を手に入れ、自分が個人筆頭株主になり、名実共にイトマンのオーナーの地位になんとしてでも就きたいという野心を垣間見ることができる。イトマンを私物化しようとする魂胆がありありと伺える。
河村は会社を支配するには株を買うことだ、株こそ資本主義の根幹だとの確たる哲学をもっていた。
河村のオーナーの地位に対する虎視たんたんとした野心をあらわすもう一つのイベントを紹介しておこう。
彼は平成三年一月一日、「伊藤萬」から「イトマン」への社名変更を断行した。会社の広報部はCIの一環だと発表したが、この社名変更にはトーメン(東洋棉花)、ニチメン(日綿実業)のような歴史的、構造的な変更の必然性はまったくない。私は、伊藤萬助という創業者名を引きずっている漢字の「伊藤萬」を抹殺したかったのだと彼の本音を見すかしている。同時に新らしくシンボルマークを制定した。「さまざまな情報を集め、発信する高感度な基地としての企業の役割が表現されている」との宣伝文句だったが、Oのところがまさにはじけたバブルを象徴しているようで、制作会社に高額のデザイン料を支払ったと思われるが、OB仲間では悪評さんざんのマークだった。
本項の終りに株というものに関する河村語録を引用しておきたい。
「きみは会社経営のオーナーだから、いいなあ。会社の株を多く持っているということは強いわなあ……」(新設の不動産開発部門の設計担当役員((自営設計事務所の代表者))に、ある時社長室でしみじみと述懐)
「野心は奔流のように、決して後ろを振り返らない」
─英国劇作家 ベン・ジョンソン─
(3)中堅商社イトマン、金融業と化す
イトマンの株主に送られてくる「定時株主総会招集ご通知」の貸借対照表、損益計算書の数字を時系列的に並べて分析してみると、非常に興味深い多くの計数がはじき出されてくる。
以下その代表的なものを紹介し、イトマンの経営体質の急激な変貌について解説してみたい。
それは昭和六十年以降「受取利息勘定」が急カーブで年を追う毎に増大している異常な現象である。当時の公定歩合の推移、その他の条件もあるので、一概に単純に比較はできないことは充分承知しているが、ここでは敢てそれを試みたいと思う。
受取利息勘定が昭和五十九年に一〇〇億円の大台に乗って以降毎年増加し、年々上昇カーブを描いている。
ちなみに一〇〇億円の大台に乗った同五十九年と約五年後(同六十三年から決算期が変更になっている)の平成元年とを比較すると五割に近い四七%増、一方支払利息勘定は同一七%増にすぎない。翌平成二年には同二.四倍という驚異的伸びを示したが、支払利息の方は同六七%増にとどまっている。
平成三年度は一月に社長河村が解任された決算期であるが、伊藤寿永光、許永中プロジェクトに対する高金利の異常な資金流出、不動産業界に対する投融資、かつ住銀からの緊急融資、イトマンの期末決算整理等があったためと思われるが、前年比受取利息二倍強、支払利息は二.五倍という異常なまでの計数を示している。この受取利息の支払利息各勘定の異常な推移は、イトマンの末期的症状の一つの現象を示していると言っても過言ではないだろう。
この異常係数のよってきたる所以を解説してみたいと思う。
河村は昭和五十四年九月期には、社長就任後わずか四年目にしてイトマンの復配を果し、オイルショックで危殆にひんした経営を見事に立ち直らせた。これで自信をつけた河村は、年を追う毎に利益計画の嵩上げを行い、走り高跳びに例えるならば、高いバーを設定し、アメとムチによってきびしいトレーニングを行い、死にもの狂いでこれを跳び越えるよう叱咤激励した。精一杯ジャンプしても、バーに足がかすりもせぬような部・課長は遠慮会釈もなく更迭し、新規事業部門その他へ配転、あるいは出向させた。これらのことは前に詳しく述べた。
さて、年々高い利益目標をかかげて挑戦させてきた河村もイトマンプロパーの事業である繊維、食糧、産業機械等が生み出す利益では、彼の標榜する超利益追求イズムからは限界点を察知したのであろう。しかしわれわれOBからすれば、年間の経常利益は着任後の河村の効率経営、ロス排除等の彼の強烈な個性にもとづく指導、幹部らの洗脳とも相まって、最低でも年間三十億円程度を計上しうる営業体制と社員の自覚と基礎工事はできあがっていたと考えていた。
従って本業をより深耕し、これに徹し──時代の急激な変化に対応する必要があり、老舗ののれんの上にあぐらをかくつもりではないことは勿論である──伝統的な関西商法というか船場商法の基本からは逸脱せず、分相応な発展を遂げていって欲しいとひたすら願っていた。
しかし、超利益追求主義の住銀で育ち、自らも倍増、三倍増の目標にチャレンジして実現させることを目指し、かつ親分磯田一郎の薫陶よろしきをえた彼は、プロパー幹部やOB達の隠健、守旧的な考え方は徹底的に排除した。
そこで、彼のかつての本業だった「金貸し業」への進出をはかり、一方エクィティファイナンスによる低コストの資金調達を極秘裡に準備し、金利の鞘を稼ぐべく、ノンバンクのイトマンファイナンスをイトマンの過半数の出資によって、昭和五十七年に設立した。
そして住銀OB(元三宮(兵庫)、難波(大阪)支店長、故人)でその道のベテランを同年末に代表取締役会長として迎え入れた。新会長は上記の通り、都市の中枢支店長のキャリアがあったにもかかわらず、どういう理由か私には判然としないが、大阪のスポーツ衣料の製造販売会社の経理担当として不遇をかこっていたのを河村が引きあげた人物だった。
この実力会長は平成二年四月までの約七年半の長期にわたり君臨し、親会社のボス河村とタッグマッチを組み、お互いに“行け、行け、ドンドン”の進軍ラッパを鳴らしながら、貸し金の増加を一途にはかってきた。その間イトマンの役員が専任又は兼任で社長職に就いてはいたが、文字通り象徴的存在で、実権はこの会長と河村が握っていた。
またイトマンファイナンスのメンバーは、住銀と住銀系の関西銀行、大阪銀行他からの出向者及びOBで占められていた。イトマンプロパーの出向社員は、総務、担保の管理関連他の後方事務を担当する数名のみだった。イトマンの社員は、物流や設備投資等を伴ういわゆる商社金融のノウハウは持合わせていたが、不動産融資他での利鞘荒稼ぎという業務は実際問題として経験も、ノウハウもなく、担当できなかったと思う。また貸し出し先他の顧客情報の収集のネットワークも持っていなかった。
イトマン元副社長(財・経担当)の法廷証言(河村良彦らの公判、第三回、平成四年二月二十一日)によれば、
「イトマンファイナンスを通じての主として不動産担保による中小企業(筆者注・不動産業、パチンコ業、風俗営業他)への貸付けは、そのほとんどが、住銀他の取引銀行との協調融資又は迂回融資であった。協調融資の場合は、銀行が担保の約七〇%程度を融資、残余の資金をイトマンファイナンスが融資していたのが通常だった。従ってこの協調融資の中から得られるイトマンの分け前は必ずしも充分ではなかった」とのことだった。
実力会長が真夏の昼下がり外出先から帰社し自席の椅子に座るなり、流れる汗をふきながら、
「えらいこっちゃ。また住銀からこんなややこしい案件を押しつけられてきた」
と独り言のようにブツブツつぶやいていたという。元同社幹部から聞いた住銀がらみの融資の一端をあらわす話である。
バブル経済に花咲いたピーク時の融資残は、なんと四,〇〇〇億円近くにも達していたという。その後回収に尽力し、社長河村が解任された翌年の期末には約二,八〇〇億円にまで圧縮された。その源資はイトマンからの借入れ一,八〇〇億円、イトマン保証による銀行からの直借入れ一,〇〇〇億円という内容だった。貸し金の圧縮はまことに結構なことだけれども、その内容は底には大きくヘドロが堆積し巨額の不良債権が発生していた。住銀の専務西川善文は「平成三年の夏から融資先の倒産、担保割れが発生して七〜八割が利息延滞になっていた」と雑誌記者のインタービューに答えている。一方、イトマンの新社長はこのイトマンファイナンスの不良債権がイトマン崩壊の引き金となったと弁明している。
ここで重要なことを付け加えておかなければならない。河村方針によってイトマングループ企業内で発生する与信及び新規事業についての審査・チェックは、当該グループ企業から提出される「与信限度申請書」又は「新規事業申請書」によってイトマン東西両本社の審査部門長によって最終決済される審査体制になっていた。従って少額与信を除いて、グループ企業の社長には決済権限は与えられていなかった。
よって、イトマンファイナンスの与信の審査についても大阪本社審査部門長が担当していた。
審査担当の本部長には昭和六十年末以降は、住銀OBの専務(現在、住銀系の田村町興産の社長)が就任している。彼は住銀の現役時代は審査・調査部門を専ら担当し、いわばその道のベテランだった。彼の審査担当本部長時代、同六十一年には住銀の平和相銀の合併があり、翌年の二月には超低金利時代がスタートし、四月にはNTT株が三一八万円の最高値をつけた。同六十三年十二月には平均株価が三万円の大台に乗り、証券市場は空前の活況を呈し、平成元年の年末には遂に平均株価は三八,九一五円と史上最高値を更新した。平成二年以降バブル経済がなだれ現象を起すのだが、彼はバブル経済の最盛期と崩壊時とを審査担当として経験している。
また平成元年十月以降は同じく住銀OBがイトマンへ入社し、審査担当の副本部長として先輩OBの専務を補佐するという体制がとられた。二人は同じ大学出身の同窓生でもあった。
住銀専務の西川をして「イトマンファイナンスの貸金内容は世間のノンバンク以上に悪い」と言わしめた巨額の融資の審査の責任者と補佐役は二人とも住銀OBだった。他社に比し審査基準が甘かったといわざるをえない。
というよりも表現の裏をかえせば、社長河村とイトマンファイナンスの実力会長が声を合わせて“GO!!”の大号令をかければ「最初に融資ありき」で本来の審査基準にもとづく審査が完全に実行されていなかったという方が適切かも知れない。
かくして社長河村の方針変換のもと関連ノンバンクを通じて、急速に「金融業」へ傾斜していった。バブル経済の最盛期には相当の利鞘を稼ぎ、イトマン本体へも環流されたのは事実である。しかし商社金融ではなく単なる利鞘かせぎの金貸し業だった。
河村はさらに欲を出し、同六十二年の初めに「資金調達力を高めるため、イトマンファイナンスを同六十五年(平成二年)をめどに大阪証券取引所に上場すると発表し、同年九月には取引先、金融機関や社員などを対象に五万株の第三者割り当て増資を実行した。一株一万円という割当価格だった。この上場計画はイトマン疑惑の発覚で中断してしまったが、河村は増資決定後の三月に二〇%に当る一万株を額面五〇〇円でイトマンファイナンスから取得し、約六ヵ月で九,五〇〇万円に達する含み益を手にしていたというとんだ「おまけ」までついていた。例によって本件について事前に取締役会にも諮らず、決議もとっていなかった。
以上はイトマンファイナンスのことだが、ここでイトマン本体のことにも触れておかねばならない。
イトマンの東西に物資事業本部という営業部門があった。この部門ではゴルフ会員権の販売、作業服、ユニフォーム、ノベルティー商品の販売、家具、洋紙の輸入等を担当していた。系列のノン・バンク経由の融資では満足しなかった河村は、この本部内でも金融業を拡大させた。東西の本部長並びに金融担当者はいずれも住銀OBであった。この本部長の法廷証言によれば、平成元年十月頃、河村の「積極的に貸して貸しまくれ」との指示をうけ、貸し金の拡大を積極的に推進し、その後河村から「よくやっている」との賞賛と激励の言葉を受けたという。(河村良彦ら公判、第十三回、平成四年七月十七日)
またこの事業本部の貸し金の拡大を側面的にバックアップするもう一人の住銀OBがいた。このOBは四回にわたり検察側の証人として出廷し、検察並びに弁護人の主尋問並びに反対尋問に答え証言した。その中で本件に関する重要な証言を引用したいと思う。
「平成元年十月十六日に住銀中小金融室々長からイトマンへ入社したが(同時にOBが計三名が入社)入社挨拶に社長室へ行った時、河村から『繊維主体では将来性がない。これからは不動産事業に積極的に注力していくので含んでおくように』との指示をうけた。自分は審査部門担当の副本部長に就任したが、大阪物資事業本部を側面的に支援するため、住銀の各支店─近畿地区、京阪神主体に(一部九州・中国を含む)五十〜六十ヵ店を歴訪し、融資案件があればイトマンが手伝わしてもらうということで協力を要請してまわった。この結果、平成元年十一月〜翌年一月(約三ヵ月間)の間に約二〇〇億円の融資が実行できた。この結果が河村社長の賞賛と激励の言葉となったようだ」(河村良彦ら公判、第十三回、平成四年七月十七日)
大阪物資本部長の法廷証言によれば、平成元年九月、十月の融資残高は約七十億円〜八十億円だったが、平成二年二月末には三七〇億円強に増加したということだった。
私が調査したところでは、住銀の近畿地区、京阪神の各支店は約一〇〇ヵ店余ある。なかには預金主体の郊外店鋪もあるので、約七〇%〜八〇%ぐらいは住銀OBがまわって協力を要請したことになる。なかには遠く九州・中国地方にまで足を伸ばしたという。河村から賞賛をうける位の住銀の「働き蜂」らしい精力的な行動だった。
しかしここで注意すべきことは、住銀の取引先で自行の審査基準をクリアーする融資案件であれば当然のことながら、当該支店で融資を実行しているはずである。イトマンへまわしてもらった案件は住銀の基準を外れたものであり、いわば「おこぼれ」を有難く頂戴したことになる。このことは先に述べたイトマン元副社長の住銀との協調又は迂回融資の実態についての証言と全く合致する。
このようにして融資案件をまわしてもらい、或いは今後の可能性の高い住銀支店の支店長ら幹部に対しては、ゴルフ、会食等の接待攻勢を行った。大阪本部関連では、大阪市内の梅田、難波他、府下では泉大津、高槻他、府外では三宮、和歌山他、一部東京都内を含む約三十余ヵ店の幹部を対象に、約四十件(平成元年七月〜同二年十一月の間)に達している。もちろん会社交際費からの支出であった。
私の知人である中小の輸出専門商社に勤務し、長期にわたり加工繊維の東南アジア、アフリカ向け輸出業務を担当していた男が、定年時にノンバンクの幹部として第二のサラリーマン人生へ転出した。全く場違いの職場であった。
新らしい不馴れな分野で相当苦労もし、各種の貴重な体験も積んだようだが、ある時しみじみ私に語ったことがある。
「野木君なあ、倒産や焦付きさえなければ金貸し業ほど楽なものはないよ。今までロットの小さい、手数と時間のかかる繊維の輸出の仕事をシコシコやってきたが、今にして思えば、馬鹿らしくなってきたよ。しかしこんな楽な、安易な商売をして利鞘を稼いでいたら、あまりにもボロすぎて、注意しないと必ずウラがくると思っているんだ」
バブル経済崩壊前のことだった。
最後に大手消費者金融業(通称サラ金)への融資について触れておきたい。
新規分野への融資策として、昭和五十年代の中期という早い時期から大手サラ金(平成五年九月に店頭登録している)への融資をはじめている。財経担当のイトマン副社長の本件に関する法廷証言(河村良彦ら第二回公判、平成四年一月二十八日)によれば、
「この融資は河村方針で始めたのだが、『住銀はじめ外部へは一切公言するな』と口止めの厳命をうけていた。対外秘ともいうべき融資だったので期末にはいったん返済を受けて残高をゼロとし、決算関係書類に載らないよう配慮した。日経新聞がコラム欄でイトマンの本件融資を記事にしたため、住銀からの内部調査もあったりしたので、昭和五十九年ごろに撤退した」
ということだった。
当時はサラ金からの借金がかさみ、自殺者がでたり、一家が破滅するといった例があったりして、国会でも議論が出て社会問題化した時期だった。
当時の関係者らの情報を綜合すると、最初はイトマン本体からの融資だったが、間もなく関連子会社へ分散し、融資先自身も直系のカード信販会社をスルーする形式を採っていたようだ。お互いが社名が表面に出ない様に細心の配慮を行っていた。
興味があるのは融資のレートであるが、ピーク時には約一五〇億円の残高があり、イトマンの社内金利(各営業部門の使用資金に賦課される社内で取り決められたレート。公定歩合変動の都度改訂された)が約七.五%の時代に一五%という高利だったという。社内金利の二倍に相当する。本件だけで年間約二十二億円にのぼる収入利息があった単純計算になる。
こんな高利で利鞘を稼いでいると、先述の私の知人の述懐ではないが、季節的なファッション商品であれば、一年余前から商品企画を立案、展示内見会を開き受注を取り、在庫品については複雑な色・柄・サイズ別等の複雑な手数をかけて管理のうえ、やっと売上げにつながっていくという繊維衣料や二次製品の商売については意欲をそがれてしまうこととなる。
もう一件、河村の利益至上主義を象徴するというか、その典型的な融資形態を紹介し本項を締めくくりたいと思う。
平成五年春、新体操オリンピック選手山崎浩子の統一教会(世界基督教統一神霊協会)の脱会と、韓国ソウルでの合同結婚式で結ばれた男性との結婚解消で、週刊誌やTVのワイド・ショーが大騒ぎしたのはまだ記憶に新らしいところである。
昭和五十五年ごろから同六十三年ごろにかけて、統一教会への強引な入会勧誘といわゆる霊感商法や、寄付金の強要等の被害がひろがっていった。この霊感商法の対象となった多宝塔、壷や高麗人参茶等は「ハッピーワールド」(東京・渋谷)を総代理店として購入、全国へ販売されていたという。
河村はこの「ハッピーワールド」に対して融資を行っていたのだ。融資レートは詳しくわからないが、同六十一年九月期の有価証券報告書には十五億三,八〇〇万円の融資残の記載がある。その後霊感商法は、弁護士グループによる霊感商法被害弁連が組織されたりして社会問題化し、マスコミも取りあげたので、例によってイトマン→A子会社→B子会社→ハッピーワールドという世間体を気にしての関連子会社二社経由に切りかえたようだ。
河村は朝日新聞記者の取材に対し「住銀の支店長に頼まれた。銀行が貸せないので、うちで貸したということです。先方の社長とは四、五回会った」と話している。
ここでも住銀が登場してくるのだが、河村は「儲ける」ためには、一部上場企業の代表者としてモラールや倫理観はどこかへ棚あげしてしまい、「貸して貸して貸しまくれ」と突っ込んでいくという構図だった。
かくして河村とイトマンファイナンスの会長を総指揮官として、住銀のOB部隊によって、イトマンの長年にわたる伝統的な商社機能、物流を中心とした商法とは全く異質の世界へ、イトマンプロパーの役員、幹部は関与しないまま引きずり込まれていった。中堅商社イトマンは、単なる利鞘稼ぎの金融業へと変貌していった。
イトマンの致命傷はもちろん住銀・イトマン事件による巨額の資金の流出、固定化だったし、これでいわば脳死状態となってしまった。
イトマンファイナンスを中心とした巨額の不良債権によって、生命維持装置を外された格好となり、命脈つきたということになる。
当時の社員芳村昌一は、朝日新聞経済部(商社担当)記者のインタービューに「系列の金融会社に、膨大な不動産融資の焦げ付きが見つかり、万策が尽きた」と語っている。(平成四年十一月三日、同紙「ひと イトマン社長芳村昌一さん」)
住銀は河村解任後イトマンの不良債権を次次と分解、分離していった中で、イトマンファイナンスだけは分離しなかった。住銀サイドは合併─解体のために、草野球の例で言うなれば内野手の「かくし玉」として温存していたと私はみている。芳村社長の「見つかった」という微妙な表現とあいまって、業界、世間一般の合併(社名抹消)についての同意、同調をうるための住銀がかかえていた「かくし玉」によって、塁をリードしたランナーはタッチアウト、同時にゲームセットになってしまったという構図だったと思う。
河村の「貸して、貸して、貸しまくれ」の大号令が、究極的には自らの首を締めあげてしまったことになる。
関西の住友系のある電線メーカーの会長は、
「部下が財テクを進言してきたが拒絶した。バブルに踊った経営者は『頭がバブル』だったのだ」と語ったことがある。
イトマンでは社長自らがバブル踊りの音頭をとったことになる。結果、社長の頭どころか会社そのものもバブルがはじけてしまった。
嗚呼!!
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