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第九章 主役伊藤寿永光の登場
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(6)住友銀行と伊藤寿永光の癒着
「昨年(平成二年)の住銀支店長(青葉台・東京)の出資法違反事件、イトマン事件などで、金融界に傷をつけまことに申し訳なかった」
住銀頭取巽外夫(当時)は衆議院証券金融問題特別委員会(前出)でこう証言して深々と頭を下げ陳謝した。
議員証言法が昭和六十三年十一月にリクルート事件での証人喚問をきっかけに改定され、「証人に対する尋問中の撮影は許可しない」ということになり、爾来テレビ各社は紙芝居の音声だけの静止画像を流していた。しかし今回は「証人ではなく参考人喚問」だったので動く画像だった。私は当日朝から自宅のテレビ画面を食い入るようにみつめていた。
頭取巽はしばしば口ごもり、時には声をふるわせながら、ある時はメモに目をやりながら証言を続けた。
「単なる主力銀行としてだけでなく多数のOBを役員として送り込んでいる銀行として、(イトマン)事件に歯止めをかけられなかったのは残念で申し訳ない」
「伊藤寿永光氏の人物や関係会社の経営実態を見極めないまま(栄町(名古屋)支店長がイトマンへ)紹介したのは軽率だった」
「ややもすれば収益偏重に傾き、不祥事の土壌になったと反省している」
「イトマンの主取引銀行であることを考えると(当行の)磯田前会長(当時)の家族がいろいろイトマンに相談するようなことは軽率だったといわざるをえない」
(筆者注・磯田批判をチラリ。次章で詳しく述べるが、磯田前会長の長女の勤務する西友ピサとの絵画取引、娘婿経営のアパレル会社へのイトマンの支援等を指す)
「申し訳ない」「反省」「軽率」の連続だった。
ところで雅叙園観光の元社長(平成元年五月〜平成三年七月)であり、伊藤寿永光経営の「協和」の取締役(昭和五十九年一月〜平成三年五月)でもあった山本満雄は、伊藤寿永光と住銀とのかかわり合いについて次のように証言している。
「協和の経理処理をキッチリするため、伊藤が住銀の麹町支店長(東京)と人材の補強について相談した結果、同行の浅草橋駅前支店の次長クラスを経理部長として迎え入れることとした。しかし伊藤が資金を他へ流用したりして資金繰りが逼迫してきたので、ややノイローゼ気味になり、協和の会社の体質が合わないということで約二年間在職したが退社してしまった。現在はあるメンテナンスの会社に勤務しているはずだ。当時麹町支店には一一四億円を固定預金として置いていた」
この固定預金については住銀栄町支店長も以前二〇〇億円くらいの預金があり、永年にわたり取引しているときいたと法廷で証言しているので合致している。
住銀出身の経理部長が「協和」へ入社した時期はさだかではないが、山本満雄はこの経理部長から「協和」の経理からコスモポリタンの会長池田保次(前出)に対し、無担保で一三〇億円の貸金の出金があると昭和六十二年秋ごろに聞いたと証言しているので、入社時期は六十一年〜六十二年初めのころと推定される。
さて、さらに山本満雄の証言によれば、「「協和」の経理部長は住銀を退職したうえでの入社とのことであるが、銀行の人事政策としての異動だったのか、或いは本人の自由意思による住銀の退職、転職だったのかは、証言の範囲では言及していないので詳かではない。天下の一流都銀に勤務し、都心の支店の次長クラスにまで昇進してきた人材が、小企業に転職するについては、これからの第二のサラリーマン人生を託する先でもあり、慎重に相手先の調査もしたであろうし、麹町支店長との関係は不明であるが、紹介をした彼にも責任は残るであろうから慎重な対処をしたと思う。ご本人も相当の決断を要したものと想像される。麹町支店長としても今後取引を拡大していく方針もあったであろうし、本人も「協和」を将来性のある企業と判断したものと思われる。
住銀と伊藤寿永光経営の「協和」との人的つながりは、以上の証言の通りである。なお当時の麹町支店長は野一色靖夫であり、その後取締役に選任され、現在は常務取締役の要職にある。ここで二人のサラリーマン人生の晩年を対比する時、なんと表現していいのか、人生の哀歓をひしひしと感ずる次第である。
さて、次に資金的つながりをみてみよう。
頭取巽は前に述べた国会における喚問で、
「『協和』に対しては麹町支店で十一億円、名古屋支店で二三〇億円もの大口融資があった」ことをはっきり証言し認めた。
また、住銀元栄町支店長は法廷の証言台で、伊藤との取引きについて次のように述べた。
「伊藤は神戸ニューポートホテルの買収のため、昭和六十三年八月三十日静信リース(静岡市のノンバンク)から一九〇億円の借入れを行った。また同日付で日貿信名古屋支店から一〇〇億円を借入れ、そのままそっくり住銀名古屋支店へ通知預金として翌年四月三日まで据えおいたうえ返済したと聞いたことがある。ただし、金利については記憶はない」(河村良彦ら公判、十四回、平成四年八月二十五日)
元栄町支店長はこれ以上の詳細については言及しなかったが、朝日新聞社刊の「深層」の記事をもとに補足し、住銀商法の預金集めの実態と、収益日本一を支えた身勝手な利益獲得の手法を暴露しておきたいと思う。
伊藤に静信リースを紹介したのはだれであろう外ならぬ名古屋支店長大上信之(のちに常務取締役本店営業部長となり、イトマンへの融資窓口の最高責任者となった)だった。紹介の見返りの意味で、大上支店長の依頼をうけた伊藤は翌三十一日に五千万米ドルの外貨の即時売買をし、売り買いで五千万円ずつ往復一億円の外為手数料が帳簿上の操作だけで、名古屋支店へころがり込んだことになる。必要経費もほとんど無しでまさにぬれ手であわのつかみ取りだった。
次に元栄町支店長は伊藤の日貿信からの借入れ(一〇〇億円)即住銀への通知預金の預け入れの金利については前述した通り記憶がないということで、詳細は語らなかった。しかし朝日新聞によれば日貿信からの借入れの担保は、住銀の通知預金証書だった。その約七ヵ月間にわたる伊藤が負担した支払金利は約一億八千万円、住銀よりの通知預金の受取金利はわずか約三千万円、その金利差は約一億五千万円にも達していた。「協和」の規模の企業にとっては多大の負担になったはずだ。伊藤にとってはさしずめ必要としない資金をわざわざ高利で調達し、住銀サイドは調達コストの安い流動性預金を提供してもらったことになる。伊藤は名古屋支店長の強い要請をうけて実行したのであろう。静信リースからの融資の紹介をうけたとはいえ、伊藤は名古屋支店長に「貸し」をつくったことになる。
また、元栄町支店長は伊藤のゴルフ場開発資金八〇億円(ノン・バンク二社より調達)を協力預金として外貨預金に預託してもらった。また、平成元年九月約一〇〇億円強の協力預金を伊藤のウイングゴルフクラブへお願いしたと証言した。しかしこれはあとで判明したことだと本人は弁明していたが、イトマン(名古屋伊藤萬不動産)からの相武カントリーの買取り資金として融資されたものだった。いわばイトマンからの伊藤に対する融資第一号だった。元支店長は支店の業績を向上させるために、取引先に協力預金をお願いすることはよくあることだと弁解はしていたが……。
かくして住銀名古屋支店、栄町支店はしっかり伊藤に儲けさせてもらい、両者の間には貸し借りというか、持ちつ持たれつの癒着した関係が形成されていくことになる。
本項の冒頭で述べた頭取巽の国会における反省の弁「収益偏重に傾き、不祥事の土壌になった……」という象徴的な収益計上、業容拡大作戦だった。「ガメツイ」住銀の面目躍如たるものがあった。
ここで、元栄町支店長が当時の同店の営業規模について証言しているので、非常に興味のある数字なので紹介しておきたいと思う。
当時の行員は約四十七名位、預金残・貸金残はほぼ同額の一,三〇〇億円〜一、五〇〇億円程度(筆者注・一五〇億円の協力預金の増加は約一割に達する)、業務利益は年間十八億円〜二十億円前後、支店長の決済権限は三億円ぐらい、三億円以上は本店決済で、金額によって部長、常務、専務と夫々ランクがあった、という。
名古屋支店は愛知県内六ヵ店の母店なので、取締役の支店長でもありその決済については栄町支店長よりは権限が与えられているかも知れないが、頭取巽の証言にある二三〇億円にものぼる大口融資については、例え預金との両建てにせよ、当然のことながら本店幹部の決済だったと思われる。
次に伊藤と住銀名古屋支店長との出会いというか、接点について読者各位は疑問をお持ちと思うので、ここで触れておきたいと思う。
昭和六十二年一月に大上信之は前任の人形町(東京)支店長(河村良彦の最終支店長の店鋪だった)から母店である名古屋支店長に栄転、赴任した。赴任後間もなく彼は八事(名古屋)の迎賓館での知人の結婚式に出席したが、その建物及び内装の立派、豪華なことに驚いた。この経営者はだれなのか、住銀マンらしい職業意識が働いて部下に調査させたところ、ここの代表取締役が、かの伊藤寿永光だったのだ。早速新任名古屋支店長大上信之は伊藤に声をかけ接近していった次第だった。爾来、両者には既述の例に見られるような密着した接触が続くことになる。住銀の「伊藤番」をつとめた。
なお、この大上信之は昭和五十三年ごろ、奈良支店長(奈良県)を務めたことがあるが、ひょんなことでイトマンと接触があったことがある。本件についてはすでに第七章で詳述した。
元栄町支店長が豊橋支店長から伊藤を紹介された時には、すでに名古屋支店が取引をはじめていたのだ。元栄町支店長とイトマンとの接点については本章第二項で述べた。
以上昭和六十年初めごろからの伊藤と住銀との人的、資金的、そして情実的な密着、癒着ぶりを、国会証言、法廷証言他をまじえて述べてきた。
調査・審査能力に抜きんでて、ダブルチェックシステムを採っている住銀のことだから、伊藤の経営する「協和」他の関係企業の経営内容、伊藤の人物、経営者としての資質等については、当然充分な調査、精査がなされた上での取引だったはずである。
ところが、頭取の巽は例の国会証言で次のような注目すべき重大発言をしているのでここで特記しておきたいと思う。
「平成二年三月十六日、信頼のおける外部の法曹関係者(筆者注・住銀の顧問弁護士((検察大物OB)))から、『伊藤寿永光には問題がある』と聞かされ忠告をうけた。
同月二十二日、イトマンの社長河村を本店に呼び伊藤の即時退社を求めたが、伊藤は不動産のプロであって、当社にとっても是非必要な人物だと言い張り伊藤の退社にはあくまでも応じなかった」
この巽証言をもう少しわかり易く解説すると、住銀顧問弁護士の来訪をうけた巽は、「伊藤と山口組の関係を指摘されて、その危険性の警告をうけ、このままイトマンの社内におくと危い」と意外な、驚くべきことを聞かされたのだ。驚いた巽は早速銀行独自の立場で改めて調査したが、雅叙園観光その他の仕手戦にかかわっていたり、好ましくない経験をもっていたことがよくわかった。そこで巽は会長磯田とも三日後の十九日にイトマン問題を協議し、両者間には認識の差は全くなく、磯田も伊藤に対して強い警戒感を示したといわれる。かくして二十二日には巽・河村会談の運びとなった。
予備知識を全く持たずに、頭取巽の証言を素直に聞いていると、外部法曹界重鎮の忠告をうけ、独自の調査の結果でも伊藤の素性とその危険性が判明し、会長磯田とも協議したが、あわてふためいて急拠イトマン社長に伊藤の退社を迫ったと映る。しかしながら、伊藤と住銀との接点は六〜七年も前にさかのぼり、住銀は伊藤を結構巧みに利用してせいぜい甘い汁を吸い、利益をあげてきた。このくだりは詳しく述べてきた通りである。
さらに驚愕するような、かつ、今回の事件のひとつの大きなナゾとも言うべき特筆事項がある。次にこのことについて述べておきたい。どうか、かみしめて熟読いただきたいと思う。
天下の住銀の天皇・ドンともいわれた会長磯田一郎が、こともあろうに自分の息子のような若僧の、しかも法曹界の大物OBから要注意人物と忠告をうけた伊藤寿永光と、四月二十四日(忠告を受けてわずか二ヵ月余後)大阪ミナミの大丸・そごう両百貨店の西向い側のホテル日航大阪の一室で、初対面をしたという極めて重大な事実がある。紹介者がだれなのか、立会人はいたのかは全く不詳である。これを期に伊藤はもち前の社交術とハッタリをきかせて、磯田に対し容赦のない攻勢を仕掛け、一ヵ月も経たないうちに完全に手のうちに丸め込み、籠絡してしまったという。そして東京の磯田の私邸へしばしば出入りできるような親密な間柄を形成してしまった。
イトマン元副社長(非繊維部門担当)は次のように磯田と伊藤との間柄を証言している。彼は検察側の証人として出廷した際、検事の尋問にこたえて、
「平成二年五月〜六月ごろ、イトマンの管理職を前にして、伊藤自ら住銀の磯田会長とはたいへん親しい間柄だと皆に言いふらし、聞くところによると、磯田会長宛に皆の目の前で直接ホットラインで電話したということである。五月〜六月ころ以前については聞いていない」(河村良彦ら公判第十八回、平成四年十月二十七日)
会長磯田と伊藤の初対面の約一ヵ月〜二ヵ月後のことなので、時期的には全く符合する。
また伊藤は朝日新聞記者の取材に対しても、伊藤は自分の財布から、磯田の自宅や会長室、専用車の自動車電話などの番号一覧表を自慢気に見せびらかしたという。さらにイトマン社長河村も「磯田さんと親密度を増した伊藤君は、夜中の一時、二時に磯田私邸から私のところに報告の電話かけるまでになっていたのです」とのちに述懐している。(文芸春秋、「手記」)また、伊藤なる人物について「ペテン師ですよ、伊藤は。わたしだってだまされたんです。磯田さんなんかイチコロですよ」と朝日新聞の取材に答えたという。(朝日新聞社刊「深層」)
ドン磯田と伊藤との親密なかかわり合いは以上の通りだが、さて、ここで読者も大きな疑問をもたれるのは、磯田が伊藤の素性については十二分に承知し、頭取と共通の認識をもちながら、実力会長といわれた大物の磯田自身が、何故自らの意思で伊藤に会ったのか、何があったのか。また、伊藤が磯田を取り込み短時日で籠絡したネタは何だったのか、ということだと思う。しかしこれらの要因が全く判然としない。当時関係者の間、或はマスコミ界ではいろいろの報道や噂が流布されていた。なかには、スキャンダルや下ネタを得意とする俗悪芸能週刊誌並みの際どいルーマーもまことしやかに巷間流れていたし、私の耳にもしばしば入ってきた。しかし残念ながら私の手許に裏のとれた確たる情報はない。従って無責任な噂等について記述することは遠慮したいと思う。多分本件については、当事者の磯田一郎すでにこの世になく、今後も永久に公表、解明されないナゾとして迷宮入りの公算大と思っている。今後の河村良彦らの公判で若干触れることがあり、ナゾの一端を垣間見ることがひょっとするとあるのではないかと、かすかな期待をかけているのだが……。
さらに、月刊「Asahi」七月号の「引き裂かれた百十年ののれん」の私の原稿で、伊藤と住銀首脳との接触について注目すべき新事実を入手したので掲載した。住銀・イトマン事件の報道合戦の最中に若しこの事実がオープンになっていれば、恐らくこの首脳の責任問題が噴出してくるであろうと思うので、あえてここで再録しておきたい。
時は平成元年十一月三十日(木)の夜、住銀の副頭取西貞三郎がイトマン社長河村の接待をうけ、例のミナミの料亭「たに川」で伊藤寿永光とイトマン名古屋支店長(伊藤プロジェクト推進の窓口責任者)を交えて四人で会食し、翌日には四人揃って六甲カントリークラブへ出向きプレーしたという事実がある。もちろん河村の会社交際費による招待だった。副頭取西と伊藤とはこの夜が初顔合せだったのか、名古屋支店長大上時代にすでに面識があったのか、私の手許では不詳であり、この会食がどういう目的をもって開催されたのか。河村と副頭取西は銀行時代から公私ともに肝胆相照らす間柄だったにせよ、代表取締役の副頭取が出席する必要性はどこにあったのか。河村、伊藤、西、三者の夫々の思惑が奈辺にあったのか興味津津たるものがある。住銀と伊藤とのかかわり合いのナゾの一つぐらいは解けるかも知れない。出席者のうちの二人は刑事被告人となり、一人は「死人に口無し」の故人となり、副頭取は会長磯田と同時に第一線を引退してしまっている。
この会食の目的もさることながら、この時期を問題にしたい。会食時期は河村、伊藤の初顔合せから僅か三ヵ月余しか経過していない。その間に河村の要請をうけて伊藤の東京・立川の株式をめぐる密約をめぐる暗躍があったりしたが……(第十二章参照)。また、伊藤のイトマンへの正式入社前(翌平成二年二月一日、理事として入社)でもあったし、例の頭取巽の国会証言にあった「伊藤は危険だ!!」との忠告をうけ、巽があわてふためいた時期をさかのぼること約三ヵ月半も以前のことだった。
頭取を補佐するナンバー2の副頭取が、こともあろうに「危険な人物」と盃を交わし、平日ゴルフに興ずるのはいかがなものであろうか。頭取巽もイトマン社長に対し伊藤の即時退社を強要できる筋合いではないのではないか。副頭取としては、その意図は不明ではあるが、極めて軽卒な行動だったと言わざるをえない。
また河村は文芸春秋の手記で「住銀には、私と伊藤君の二人を辞めさせ、私を伊藤君の会社である「協和」に出し、住銀がイトマンに代って融資する(肩代り融資)約二,〇〇〇億円を二人に整理させようという計算があったといわれています。私が敢然と伊藤君を切ったことは、彼らの計画にとって大きな誤算だったのではないかと思います」と暴露し、さらに平成二年十一月七日、大阪駅前のヒルトンホテルでの住銀磯田、河村、伊藤の三者会談での磯田の『河村君、伊藤君ともイトマンを辞めたら、イトマンの伊藤君への融資、二千億円については住銀が肩代りして伊藤君に融資しよう。イトマンの面倒も住銀でみますよ。しかし二人とも会社に残るようであればイトマンの会社更生法を申請する」との際どい生生しい発言を記述している。この肩代りの件については法廷でも弁護側の反対尋問の対象となり、伊藤の弁護人高木一はいずれこの法廷で本件を立証することとすると明言していた。高木弁護人は検事時代には故平沢貞通の帝銀事件や、札幌市警の白鳥警部射殺事件他を担当し、弁護士に転身後は連合赤軍事件や外務省機密漏洩事件などの弁護にあたった。平成五年九月死去、享年八十二才。
この住銀・磯田一郎の意図、思惑が奈辺にあったのか、いまひとつ判然としない。その他の住銀と伊藤とのかかわり合い、会長磯田と伊藤との公私にわたるつき合い、副頭取西の行動、住銀内の複雑な人脈、派閥関連と伊藤とのつながり、また巷間噂されているその背後にある外部組織等々、理解し得ない不可解な、そして魑魅魍魎な部分が多すぎる。サラリーマンOBとして、取材・調査能力・機能も、スタッフも持たない私としては解明については限界点に達している。今回の奥深いナゾに包まれた部分の多い事件を象徴しているように思う。
住銀と伊藤との間には、先に私があげた例にも見られる通りベッタリとくっついた癒着関係があったことは紛れもない事実である。
住銀大阪本店営業部で、平成元年一月から同五年一月まで次長職に就いていたイトマンの窓口担当者が同二年一月下旬ごろ、上司の常務の本部長大上から伊藤寿永光が本店へ来店時に紹介をうけた。名刺交換だけの顔つなぎ程度だった。この次長が同六年五月十日河村良彦らの五十二回公判に出廷し、次のように証言しているので本項の最終に付け加えておきたい。
「イトマンへ入社し、常務取締役に就任予定ときいたが、日本の上場企業では中途入社はあまりないが、『伊藤の入社について常務で入るのは例外的だなあ』と感じた」と。
この証人の上司の本部長が伊藤のイトマンへの正式入社前にすでに常務になることを知っていたという奇怪な事実を証明する証言である。
(7)イトマン社内管理システムの瓦解
イトマン社長河村は副社長(非繊維担当)に対し、伊藤寿永光の入社について当時次のように語ったことがある。
「イトマンには不動産のプロがいない。伊藤君はゴルフ場開発のノウハウももっているし、困難な銀座の地あげを奇麗にやりとげたらつ腕家でプロ中のプロだ。このような敏腕家を知ることができて嬉しい。伊藤君の人物については、自ら調査したが間違いのない人物であり、自宅まで行って家族関係まで立ち入った調査もしたが、心配は全くいらん。いい人物に会えて“三顧の礼”をもっていやがる彼を無理に入社してもらったのだ」
一部上場企業の代表取締役としては、実に信じ難い突っ拍子もないコメントだった。これがイトマン消滅の原点であり引き金となった。この伊藤への賛辞がわずか一年後には「伊藤はペテン師ですよ。だまされたんです」とのセリフにものの見事に変貌するのである。
さて、河村は二副社長の「伊藤は組織とか管理システムにはなじまないと思われるので、業務委託契約により外部で活動してもらってはどうか」との恐る恐るの意見具申も無視して、当初の方針通り平成二年二月一日付で理事として迎え入れた。そして河村が標榜した新規不動産開発事業を担当する新設の企画監理本部の本部長に据えた。そして六月末の定時株主総会では取締役に選任され、驚くなかれなんと筆頭常務に登用された。
世間では通産とか大蔵首脳や銀行のOBを一部上場企業が幹部候補として迎え入れることはよくあるが、いち小企業の代表者が、しかも当時すでにとかくの噂が絶えなかった人物が、いきなり一部上場企業の筆頭常務に引きあげられる例は世間では過去全く類を見ない人事だった。
住銀会長磯田流の表現を借りれば、まさに「素っ頓狂な人事」だった。これは日経新聞記者の自宅での夜討ち取材に対しとび出した発言で、「伊藤を副社長にするなど『素っ頓狂なこと』をやらなきゃいいが、河村君は伊藤寿永光に押さえられて身動きができないのかどうか」と記者を睨みつけたという。(日経新聞刊「事件」)
この磯田発言にもあるが、河村は当初副社長として処遇するつもりだったようだが──イトマン社内でも当時副社長説が飛び交っていた──住銀からクレームがついて結局常務(代表権なし)に起用することで住銀と妥協したようだ。イトマンでは従来常務取締役以上が代表取締役になっていたが、六月二十八日の株主総会日をもって専務取締役以上に変更し、商業登記するという場当り的な手法を採り、住銀と妥協したものと思われる。翌年芳村新政権になってから再び常務以上を代表取締役に戻している。
さて、企画監理本部(管理ではない)の新設は先に少し触れたが河村自身の発案で、平成元年十二月の月初訓示で構想が発表され、(河村自身作成の訓示の概要を記したレジメが検察側の証拠物件として提出されている)同年十二月二十一日の経営会議で組織の変更が形式的に特に異議もなく承認された。「監理」にはスーパーバイズの意味を含んでおり、管理監督の「管理」とは違うのだというふれ込みだった。しかしとんでもないスーパーパイズになっていった。
本章の第(5)項で登場した平安閣プロジェクトの担当予定だったイトマンの部長職が、伊藤寿永光の入社に関し、検事から法廷で感想を求められたが、次のように証言した。
「サラリーマン、企業社会の常識から言えば、何のための入社か、理解に苦しんだ。もっとストレートにものを言えば、“とんでもない男”を入社させたトップとしての見識を疑うという印象だった。常務への起用については、金融筋、或いは取引先からのスカウト人事であれば常識で判断できるが、企業社会の規範、道徳から言えばとんでもないことで、たまったものではない」
証人席の後方の被告席に終日姿勢を正し背を伸ばして座っているかつての天皇河村の冷い視線を、他の証人と同様に背にうけながら証人は堂々と悪びれることもなく大きな声で証言した。(河村良彦ら公判、第三十三回、平成五年六月二十二日)
この場面でも表情ひとつ変えずジーッと聞き入っている傍聴席からみる河村の横顔が印象的だった。
企画監理本部の新設とともに、イトマンの社内管理システムに極めて重大な変革が加えられた。それは取引先の与信管理・調査を担当する審査本部(営業本部とは別個の独立した組織)から監理本部(伊藤プロジェクト)に関連する案件については完全に分離し、同本部内に審査部を設け、いわゆる同一本部長内での自己完結方式を採ることとした。もちろん河村方針にもとづく変更だったが、河村方針に問題点が多すぎるにもかかわらず、唯唯諾諾として従った担当副社長(人事・組織担当)の責任は極めて重大だが、従来の審査部門担当の専務(住銀OB)がこの新らしい審査部門も管掌するダブル・ボスシステムを採り正式発令になった。副社長の最後のささやかな抵抗だったかもしれない。
伊藤にとっては、この専務は目の上のタンコブ的存在と映ったのであろう。この人事について伊藤は立腹し、巻きかえしのため河村社長にクレームをつけた。河村は窮余の一策として本部内に審査担当、財務担当の二名のベテラン(いずれも住銀OB)を配するので専務は外せとの指示を出した。新任務就任わずか一ヵ月にして専務は更迭されてしまった。
また同時に東京不動産担当の常務(前出、住銀OB、故人)はイトマン・カナダへとばされ、また永年にわたり河村とタッグ・マッチを組み密接な連携プレイによって不動産担保を中心とする融資の飛躍的拡大をはかってきた系列のノン・バンクのイトマン・ファイナンスの実力会長(この会長もまた住銀OB)も相談役に退く人事発令があった。これらの一連の人事は、新本部の事業展開にとって、従来からの関係や、しがらみをもっている者が引き続き座っていては、伊藤にとってやりにくいし、邪魔になるだろうとの河村の意向によるものだった。
新本部内では五月ごろから伊藤が例えば担保物件の評価、事業案件の可否等について、先ず自らが一番に意見を述べ決済し、それから稟議書が回付され審査担当役員が反対意見や限定意見を述べると伊藤から叱責をうけるという様な変則的な自体が招来された。社内の管理システムが整備された一部上場企業では全く考えられない現象だった。
伊藤のこれらの社内ルールも全く無視した専制的横暴ぶりについて、審査を担当していた副本部長(住銀OB・理事待遇)の生々しい自らの体験談があるので、ここで再現してみよう。
時は平成二年三月三日(土)の朝九時過ぎのことだった。本来なれば土曜休日だったが業務多忙のためいつもの通り出社し、案件の整理に忙殺されていた。休日のため電話は全くかかってこなかったのだが、九時半ごろ副本部長席上の電話がけたたましく鳴った。
「伊藤だが……。アンタ、どういうつもりなんや。O産業への融資のことであちこちへ問い合せしたりしているそうやが、オレは河村社長にたのまれて、イトマンのためにO産業の処理をいま懸命にやっとるんや。どうしようとする積りなんだ。問い合せをうけた兄貴(筆者注・伊藤の実兄、名古屋の実兄の会社を迂回してイトマンはO産業へ融資していた)もアンタのことで手間をとり、自分の仕事が充分はかどらんとぼやいとるぞ。アンタはオレの仕事を邪魔する気か!!」
「最低の必要事項を問い合せしただけなんです。邪魔する積りは毛頭ありません」
「オレはO産業からすぐさま手を引くぞ。何んと思っとるんや」
「全く申訳……ありません……」
電話の相手の言い分も、申し開きにも一切耳を貸さない一方的なすごい剣幕の叱責の電話だった。副本部長は銀行時代とは全く異なる口調の叱責にびびり萎縮してしまった。ペンを採る気もなく椅子に茫然として座って天井を見つめていた副本部長席に約十分後、電話のベルが再び鳴り渡った。
「またか!」とちゅうちょしつつ受話器へ手を伸ばしたが、今度は伊藤に非ず、イトマン名古屋支店長(伊藤プロジェクトの窓口責任者)からの同じ叱責の電話だった。
「河村社長から伊藤がひどく怒っている。よく事情を聞いてとりなしてくれとの依頼の電話があった。伊藤プロジェクトは住銀流の審査のやり方では到底無理だ。現場は動いているのだ。それなりの対応が必要なんだよ。伊藤はイトマンのために一生懸命やってくれているんだ。注意してやってくれ」
伊藤は副本部長へ電話後、早速河村の自宅か、或いは自動車電話へ「おどしのダイヤル」を回わしたものと思われる。すぐさまその内容が河村から名古屋支店長へ連絡された。土曜の休日にもかかわらず約十分間という早業だった。
この審査担当の副本部長は住銀の現役時代支店長経験もあり、最終は中小金融室室長で、イトマンへは平成元年十月に入社し、先輩の住銀OBの本部長の許で審査業務を担当していた。当時五十四才のベテランだった。
この経験豊かな齢五十半ばの住銀OBは、河村の意向をうけその後だてのもとすべて任されている伊藤から「邪魔している」とのこっ酷い叱責をうけたこと、結果的には河村にも盾突き反逆行為を行ったことにもなり、また住銀時代融資畑経験の長かった名古屋支店長からもきびしい叱責をうけ、二重のショックをうけたようだ。
二本の電話が終った後、ショックでとっさにどうしたらよいのかよくわからず、副本部長は仕事にも実が入らなかったが、冷静になった夕方に熟慮のうえ、社長の自宅(兵庫県夙川)を訪問することとした。彼の主旨は実態をよく説明して真意をよく理解してもらうということだったが、あいにく不在だったので、メモを応対者に渡し帰宅した。
心の浮かぬうっとうしい日曜を過した彼は、月曜日の早朝七時半すぎに社長室へ赴き、河村に経緯を説明し伊藤を立腹させたことを詫びた。本来なれば審査担当の副本部長として当然なすべきことをしたのであって、別に詫びる必要は毛頭ないと思うのだが、そこは悲しいかなサラリーマンの性が働き、河村の出社を待ちかねて社長室へ馳参じたのだが、彼は土曜日の電話に勝るとも劣らないショックをうけ落胆した。
河村は副本部長に対し「こんごは名古屋支店長の指示にもとづいて動いて呉れ給え。直接O産業の所へはタッチするな」と冷やかに言い渡した。
審査業務の独立性、チェック機能の企業としての重要性の認識について、社長からは理解ある言葉がもらえるものと期待し、今後の業務遂行について或いは激励もうけられるのではないかとの希望ももっていたが、「営業部門長の指示に従え」との指示は、鈍器で脳天を一撃されたような衝撃だった。
この衝撃的指示は審査機能そのものが抹殺されてしまうこととなり、以後の仕事にも以前とは違う重大な影響がでてきて、本来の機能が全く発揮できなくなってしまった。そして伊藤からの一方的呼びつけによる使い走りを余儀なくされるという低落となってしまった。と同時に、大先輩河村に対し従来抱いていた畏敬の念と信頼感はガラガラ音をたてて崩壊していった。
河村の「伊藤は不動産のプロである。伊藤プロジェクトを中心とした新規不動産開発をこれからの事業として積極的に推進していく。伊藤はまさにその中心人物だ」との基本方針が幹部、管理職、社員間に浸透していて、いわば“神様”にさからうことはタブー視されていった。伊藤が自らのプロジェクトの稟議(形式的にせよ稟議書は時にはバック・デイトされて回付されていた)を数多くの問題点を内包しているにもかかわらず否認したことはもちろん、条件をつけたケースは一件もなかった。
平成二年五月下旬ごろ、榊原温泉(三重県)近辺のレジャー開発案件で約二二〇億円の融資の与信限度申請について、審査担当の常務(住銀OB)が内容を精査したところ、計画自体が極めてあいまいで、判明しているのは用地購入費と工事費のわずか十六億円にすぎなかったので、申請額の七%の十六億円に大巾減額のうえ認可した例があった。
翌月下旬、伊藤は名古屋支店長を同道し、大阪の企画監理本部から東京へ出張中だった担当常務に対し、この大巾減額に対し、クレームをつけ激怒の電話をした。この電話をうけた常務の反応は結局最終的には平謝りのぶざまさだった。かつて伊藤からこっ酷い叱責をうけた副本部長は傍らで無念の唇をかみながらジーッと電話のやりとりの詳細を想像しながら聞き入っていたという。
審査基準の基本に立ち帰れば、この削減はまさに正解であり、本来なれば最後まで突っぱねるべき案件だった。本件に関する限度申請書は検察側の証拠書類として法廷で証人に対し提示されていた。幸いにもこの榊原温泉案件は実行には移されなかった。
図に乗った伊藤は、かねてからのシナリオ通りの資金をイトマンから引き出すべく、最終には「企画監理本部の仕事の遂行上、住銀とイトマンは不必要だ」とまで誇らしげにうそぶいていたという。さらに、悲しいことには御大河村までがこんな発言をするような状態になっていた。曰く、
「こと不動産については、イトマン・住銀の人間は全く素人なのだから、不動産評価にはタッチせず専門家にやってもらう」と指示し、審査機能を全く軽視するようになった。そして最後には「融資に審査はいるか!」とまで公言する状態だった。
約四十年にわたりイトマンを心から愛し、同社の発展のために、おこがましい言い方かも知れないが、いわば一生をささげてきたOBの私にとっては、身の毛のよだつような二人の恐ろしい発言だった。キャンドルの灯が今まさに消えなんとする、イトマンの消滅寸前を象徴するような、夢想だにしない無責任極まる公言だった。
イトマン名古屋支店長は住銀現役時代、系列の三重銀行の支店長もつとめ、こと融資ということについてはベテランだった。この人物が伊藤と一緒に結託し、同一行動をとるという現象は全く理解できない。伊藤にとり込まれ身動きできぬような状況に追いこまれていたのであろうか。彼は不幸にもこの世にいない。まさに「死人に口なし」、真相はどうだったのか、闇のまま葬り去られるのであろうか。
また一方審査担当常務は、河村の社長就任の翌年三月に住銀からイトマンへ入社。河村の信任極めて厚く、公私にわたる特命事項も担当していたようで、その忠勤ぶりが認められ、昭和六十年には取締役に選任され、住銀時代の経歴から見れば異例と言える常務にまで引きあげられた人材である。本来なれば防波堤の役割を頑として果してもらわねばならぬ人材だったが、ヘナヘナの弱腰男となってしまった。この常務は河村の子飼いの人材だったが、河村人事政策によって担当業務を解任され、東京へ放逐され大阪の机もすぐ取り払われるという情ない結末となった。このくだりは第六章(1)でも述べた。
伊藤からの河村に対するご注進によって、組織・人事上の伊藤にとっての邪魔ものは取り払われ、伊藤はさらに横暴となり「この新規案件は不動産のプロがやっているのだ。心配するな!」と担当管理職らの前で一喝するようになり、審査担当部長・役員らは二の句が継げられなかった。
かくして平成二年三月〜四月以降の審査の実態は、回付されてきた申請書はそのまま無条件で回付するという状況になってしまった。ダムの堰を切ったように、イトマンバンクから架空といってよい伊藤プロジェクトに対し巨額の資金が堰の開閉、調節のチェック機能も全く働かずに、伊藤の思いのままに渇水のごとく流出していったのである。
思い起せば、御大河村がイトマンの再建を果し、「中興の祖」と称えられた時代、彼は管理部門(非営業部門)は、営業部隊が第一線で戦争をするについて、“丈夫で軽い鎧でなければならない”との名言を吐き、月初訓示、朝会等の機会を通じ繰り返えし社員を洗脳してきた。イトマンには、われわれの先輩が、そしてわれわれの世代が整備してきた各種の管理システム、上場企業として遜色のないチェック機能がちゃんと完備されていた。これで飽きたらぬ河村はこれら既存のシステムの見直しを命じ、特別の検討委員会を新設したり、毎週土曜日(休日)に管理部門の各部門長が集まり熱心に討議し、社内管理システムを更に整備し、完全に近いものをつくりあげていた。
「売ってから買え」とか「多数精鋭」、「労使運命共同体」とか各種の河村語録があったが、この「丈夫で軽い鎧」という表現はまさに言いえて妙であって、二十年近く経過した今でもこの語録は鮮明に記憶している。
この河村が自らの指示で整備させた管理システムを、自らの手によるルール違反で平気で犯し“丈夫で軽い鎧”を自らの手で叩き割ってしまったのだ。
河村はもちろんA級戦犯で絞首刑に値するが、例え河村方針だったとは言え、企画監理本部内に審査部門を移管し、その独立性、チェック機能を喪失させた組織変更を唯唯諾諾と安易に容認した副社長(人事・組織担当)はA戦犯で、本件だけでも終身刑に処されるべきである。
審査部門担当の専務、常務、理事はすべて住銀OBだった。しかも審査・融資畑の経験者であり、なかには超ベテランと称してもよい人物もいた。しかし何ら防波堤の役割も果たさず、チェック機能は麻痺状態となった。B級戦犯といってよいだろう。
私はイトマンへ入社以来、主として管理部門畑をずっと歩いてきた。そして、社内各種の管理システムの形成に微力ながら少しは貢献したと思っている。このシステムを代表取締役自らが先頭に立って破ってしまったのだから、まさに二の句が継げない心境であり、実に情けない。
朝日新聞社刊の「深層」は、このくだりを次のように表現しているので本項のしめくくりとして引用しておきたい。
「伊藤の入社から河村の解任に至る一年間、こうしてイトマンの伝統的な決済システムは完全に崩壊した」と。
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