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プ ロ ロ ー グ
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(1)親子三代にわたるイトマンとの繋がり
冒頭から私事で恐縮だが、私は昭和二年の初夏に、大阪のヘソといわれる船場の商家の「ぼんぼん」として呱呱の声をあげた。船場のぼんぼんといってもいろいろの階層があったのだが、私の生家は祖父、オヤジの二代にわたり約半世紀の間、船場の南の端、心斎橋筋の北詰で、ささやかな洋反物商(小売)を営んでいた。洋反物という言葉は残念ながら、すでに死語となり、「広辞苑」を引いても載っていない。
野木洋反物店は遠く明治年間から伊藤萬株式会社(以下イトマンに呼称を統一する)と取引関係にあり、いわば主力仕入先だった。他に船場の老舗繊維問屋の「田村駒」、「和田哲」、「山口玄」や「稲西」等からの仕入もわずかながらあったようだ。
これら船場の名門問屋はイトマンとは違って、身分不相応な、かつ場違いの事業の展開や浮利を追わず、本業に着実に専念し、人間でいうならばいまだかくしゃくとして堅実に発展を遂げ業績をあげておられる。「田村駒」は平成五年には創業七十五年の節目の記念すべき年を迎えられた。イトマンの百十年目の非業の最後と比較して、なんとも表現のしようのない複雑な心境である。
さて、私のオヤジは二代目で、他家へ丁稚奉公に行き、他人の飯を食った経験もなく、世間知らずの「ぼんち」で育った。必ずしも商才にたけていたわけではなかったが、主力仕入先のイトマンの熱烈なファンであった。戦前、戦後にかけ、地方や都市の繊維問屋の大将や、番頭に数多くの「イトマンファン」がいたが、オヤジもそのひとりだった。
イトマンで友禅、着尺や更紗(これらの言葉も日常使われなくなり死語となりつつある。日本社会党のなしくずしの見事な転進によって、「革新」という単語もいずれ死語となるであろう。)の新柄発表会や展示会があると、冬はマントを羽織り、鳥打帽をかぶり、夏になるとカンカン帽に、絽の粋な着物姿でいそいそと出掛けていった。船場の商家の主人はオシャレが多かった。そして、仕入た新柄が手押しの荷車で配達されてくると待ち切れずすぐに開梱し、「この柄はええで。さすがは意匠(デザイン)のイトマンや。売れ足は早いぞ。」と嬉しそうに、自信ありげに店頭のショー・ウインドウに展示していたのを、子供心によく憶えている。
店の売場の衣桁には、「雛菊着尺」、「銀鳥友禅」や「音羽絹友禅」等の売れ行きの良い柄が掛けられ、売台の上には、「三馬更紗」、「宝冠モスリン」や「ゴルフネル」等々が並べられていた。「雛菊」「銀鳥」「音羽絹」……という単語は、一般読者には全く馴染はないが、業界では知名度の高いイトマンの商標であった。
私の幼児の頃はこれらのイトマン商品の間で遊び、長じて通学する頃には、これら商品の間をくぐり抜けるようにして、ランドセルを背負い、或いはカバンをさげて通学していた。
しかし、昭和十二年中国における廬溝橋事件をきっかけとして拡大していった日中戦争のため、スフ(ステープルファイバー)の混紡が増え、商品の柄、品種も次第に減少していった。野木洋反物店も遂に私の旧制商業学校時代に、統制経済への移行とともに、創業五十年余に及ぶ老舗も店を閉め廃業せざるを得なくなった。企業整備法が適用されたと聞いていた。
廃業後オヤジはしばらく浪人をしていたが、彼の熱烈な、「イトマンファン」の心情は、やがて私の大学卒業後のイトマンへの入社へとつながっていくことになる。
昭和二十五年の秋ごろだったと思うが、親子の間でこんな会話が取りかわされた。
「昭一、そろそろ就職先を考えんといかん時期やが、ゼミの教授の推薦かなにか心当りはあるんかいな」
「いや、別に今のところ特定の会社はあらへん」
「それやったら、おまえ、イトマンへ行け。天下のイトマンやで。意匠のイトマンや。店員のしつけ(当時社員教育という言葉はあまり使われていなかった)もよう行き届いとる」
当時私は漠然と紡績か商社に就職したいという大枠の希望はもっていた。なぜか確たる理由は見出せないが、銀行と証券は生理的に敬遠していた。具体的特定の企業に対するワークは、プライベートな恋愛問題があったりして全くしていなかった。
そんなことで、オヤジの「天下のイトマンやで」の一言でコロリと参り、イトマンの入社試験をうけ入社が決定したという経緯があった。旧制専門学校、大学を通じての朋友五人は、丸紅へ二名、江商(兼松に合併)、東洋棉花(現トーメン)、大日本紡績(現ユニチカ)へ就職するという秀才揃いで、うち四名が商社だった。
ところで、昭和二十六年三月十六日、イトマンの入社式が、当時は慣例となっていた父兄同伴出席のもとに行われた。私は選ばれて大阪本社入社の新社員を代表して、入社に当り誓いの言葉を申し述べた。詳しいことは記憶にないが、「企業は歴史が古いだけが能ではない。私達新社員がイトマンの古い伝統の中に新らしい血を注入し、会社の発展のために最大限の貢献をいたしたい」といったやや小生意気なことを社長はじめお歴歴が並ぶ前で言ったことを憶えている。
入社式に同行出席したオヤジは帰りに社長室へ立ち寄り表敬挨拶をしたようだが、当時の社長伊藤良三(三代目)から、「近頃の若い人はなかなかしっかりしたことを思い切って言いまんなあ。うちの社員連中も、もっとしっかりせなあかんといましがた言うてたところですわ」とお褒めの言葉をいただいたと、帰宅したオヤジはすこぶる上機嫌だった。親子二代にわたる家業を戦争のために廃業せざるをえなくなり、イトマンとも縁が切れてしまって、人知れず寂寥感に浸っていたオヤジは、息子の代に再び繊維業界とイトマンに繋がりができたことで、いわれぬ感慨があったものと思われる。当日の夕食には神戸肉の霜降りタップリのすき焼きをご馳走してくれた。飽食の時代、グルメブームの昨今とは違って、当時は戦後の物不足の後遺症で、すき焼きは庶民の口にはなかなか入らぬ希少価値のあるものだった。ただしオヤジは、粕汁で酔うような超下戸だったので、残念ながらお膳の上にはアルコール気は全然なかった。
オヤジが没して早や三十五年、地下の仏は今回の住友銀行、イトマン事件(以下住銀・イトマン事件と称す)の発生と、しかも主力銀行の手によるイトマン抹殺の報を聞いて、無念の涙を滂沱と流しているものと思う。
野木家とイトマンとは、私の四十年近い勤務と併せ考えると、三代にわたり実に九十年になんなんとする直接、間接のかかわり合いがあったことになる。従って今回のイトマン消滅については、人一倍の強烈な思い入れと、正直いって主力銀行たる住友銀行(以下住銀と称す)の百十年に及ぶ老舗を非上場会社に合併させるという荒療治に対する怨念が、今もって私の感情の底流にふつふつと流れている。時間の経過とともに決して冷めてはいない。ますます深く浸透していっている現情である。
(2)事件の真相解明への励ましと本稿の執筆
イトマンと住金物産との屈辱的ともいえる合併公表後、私は当時のイトマン首脳(住銀から出向の二副社長を含む)に対し、OB有志とともに、合併に関する懇談会の場を通じて直接、そしてテレビ出演を含む各種のマスコミを通じ、今回の事件についての住銀及びイトマン首脳陣の経営責任とその関与を追及、糾弾してきた。自分自身でも驚くほどの情熱を燃やし、執念をもって取り組んできた。
現役時代にもなかったような私を奮い立たせ、かつ燃焼させる何ものかがあったと思う。それは、前に述べた私の育った家庭環境であり、親子三代にわたるイトマンとの繋がりがなせる業だったと思っている。
朝日新聞社の「月刊Asahi」の平成五年七月号が、「住銀に引き裂かれた百十年ののれん」と題する老舗抹殺の要因について、OBの立場から論理的に検証した私のレポートを採りあげ掲載してくれた。私にとっては時間をかけ苦労して書きあげたものであった。私にとっては卒業論文を除けば、生れてはじめての原稿用紙約五〇枚に及ぶ長編だった。
幸いイトマンOB・現役各位らから数多くの励まし、称賛や、時には苦言もいただいた。私の予想していた以上の心暖まる反応に非常な感動を覚えた。
ここで、これらの励まし等のいくつかを少し長くはなるが紹介しておきたい。古巣を奪われたOBらの、当事者しかわからない悲痛な叫びを少しでも理解していただければ幸いと思う。
「イトマンは七年九ヵ月もの長い間お世話になった会社です。私の青春時代の数々の思い出の残っている住み心地の良い会社でした。読んでいる途中で鼻がつまったり、胸が痛くなったりで、一気に読み終えました」(元OLから)
「住銀に対しては家内が小生以上に憤りを覚えており、貴兄の努力には家内共々感謝しています」(OB同輩から)
「朝日新聞の雑誌の広告を見て早速書店へ買いに走り、そのまま引き込まれるように一気に読みました。もう忘れ去りたいと思っていましたが、あらためて怒りが今さらのようにこみあげてきました」(元OLから)
「特定の二〜三人の人間がやったことが、百十年の歴史と、われわれの心の古里をこうも簡単に破壊されたこと。特定の個人は法の従うところにより処断されるであろうが、住銀はどのような罰を受けたのか、また今後受けるのか。なんとも釈然としない気持で一杯です」(元役員の長老から)
「イトマンの消滅はもう忘れてしまいたいような、しかし私達の代弁者として徹底的に追及してほしいような複雑な気持です。やはりより一層事件の真相の解明に是非取り組んでください」(元OLから)
「イトマンの消滅は現実の事実で、悲憤慷概しても、今さらどうにもならぬのが残念です。感傷として葬り去るのがむしろ賢明なりと思っています。ただし、株主として株式が二束三文にさせられ、株保有による老後の生活や、さらには子供達への相続対応とも考えていたのが画餅に帰して、イトマンに安心し切っていた不明さに臍をかむ思いが深いです」(元役員の長老から)
「覆水盆に返らず、今さら過去のことをほじくっても致し方のないことで、逆効果になるよ。いい加減に矛を収めるべきだ」(OB先輩から)等々。
私の原稿が「月刊Asahi」を通じて事件の真相の一端を読者各位に訴えることができ、ホッと一息ついたところだったが、「月刊Asahi」に書きつくしえなかった部分も含めて、より深く真相と深層を検証しようという意欲を燃えたぎらせた。各位の励声のなせる業だった。
ところで、マスメディアは事件発覚後イトマン消滅に至るまで、過剰ともいえる報道競争、抜きつ抜かれつのスクープ合戦を繰りひろげてきた。(第十四章参照)しかし、最近はイトマンのイの字も書かなくなってしまった。
人の噂も七十五日というが、「戦後最大の経済事件」と定義づけられた(大阪地方検察庁)住銀・イトマン事件だったが、も早や非常に残念なことであるが風化しつつある。しかし真相は究明されなければならないと思っている。
それと事件の住銀側の主役と言ってもよい元会長磯田一郎が、平成五年十二月心不全のため死去した。一方、イトマン側の重要参考人だった元名古屋支店長(自殺といわれている)ファイナンス事業会社の元実力会長ら五名(いずれも住銀OB)すでに他界し、「死人に口無し」の状況となってしまっている。加えて私は事件の核心に触れる真相というか、深層部分は、後に詳しく述べるが法廷審理の進捗状況からみて、解明されないまま闇へ葬り去られるのではないかという危惧をもっている。
さらに、「身勝手な強者住銀」(週刊経済誌「ダイヤモンド」平成五年八月十四日・二十一日合併号)が内蔵している経営哲学というか、非情冷徹な資本の論理は私の身に染みて終生忘れることはできないし、怨念の標的でもある。この住銀の論理、理念をイトマンに席を置いたOBとして後輩の社員、次の世代に申し送らねばならないとかねがね思っていた。
次に私は、河村良彦ら事件の主役三人組の大阪地方裁判所(以下大阪地裁と称す)での月二回の公判には、毎回欠かさず終日傍聴し、克明にメモを採ってきた。検察側申請の証人調べだけで、まだ平成七年春過ぎまでかかるという長期裁判になり、本年末までの日程はすでに決定している。相当量になった傍聴メモをこのまま死蔵しておくのも極めてもったいない気がする。
さらにつけ加えるならば、過去の事件に関するマスコミの熾烈な洪水のような報道は、小間切れ断片的で事件のもつ本質的な核心に触れるところが少く、読者或いは視聴者は事件の全体像がもうひとつ系統的に把握し切れなかったと思う。時には全国紙が社会部担当記者の問題点の座談会を織りまぜたりしていたが、日刊紙、テレビ報道等の限界だったのかもしれない。
以上のような種種の観点から、四十年間イトマンに籍を置いたいちOBの立場に立ってこの際いま一度住銀・イトマン事件の原点に立ちかえり、時系列的、論理的に、かつこれまでに検察側の証人として出廷した証人の数々の生生しい、重要な法廷証言も交えて、及ばずながら、いかにして住銀によって百十年の“のれん”が引き裂かれたのか、順を追ってその軌跡を検証することを決意した。
しかしながら、もの書きを専業としない素人の私の稚拙な筆の運び、加えて調査、取材機能も、私を助けるスタッフを持たない悪条件が背景にあるのだが、それをもかえり見ずOBの方方及び現役社員の心底からの激励と支援、また多くの声なき声をバックにうけながら、長編の本稿の執筆に踏み切りペンを採ることとした次第である。
本稿では敬称はすべて省略させていただいた。
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